第84話 低体温症
身体のすべての細胞は、グルコースからATPを産生し、それをエネルギーとして活動している。そしてグルコースは最終的に二酸化炭素と水になる。つまり、ゆっくりと細胞の中でグルコースは燃えているのである。なので当然熱エネルギーが産生し、脳の視床下部で体温が管理されており、37度前後の体温に維持されているのである。
感染などが起きると、炎症細胞からサイトカインが放出され、視床下部の体温中枢に作用し、末梢血管の収縮、発汗の停止、筋肉の不随意的運動(寒くてブルブル震える)などを起こして体温を上昇させる(熱が出てくる)。
人間の身体と同様に、感染症を起こす細菌は増殖の至適温度が体温と同じ37度くらいなので、熱を出すと、こちらの身体もへばってくるが、細菌側もへばってきて、増殖速度がゆっくりになる。また、ウイルスは人間の細胞に侵入して増殖するので、熱を出し、人間の細胞活動が低下すれば、やはりウイルスの増殖も減るのである。そのようにして、熱を出すことは感染防御に有利に働くのだが、感染の勢いが強すぎると、熱を出すことができなくなってしまい、逆に体温が下がってしまうことをしばしば経験する。これは夏でも冬でもあまり関係なく、真夏のERに搬送された敗血症性ショックの患者さんで、布団をしっかりかぶっていたのに体温34度、なんてこともあった。低体温の時は、普通の体温計では正確に体温が図れないので、体を触って不自然に冷たければ、「まずい!」と考え、直腸温計を出してもらっていた。直腸温計は20度くらいまでは測定できるので、それでしっかり体温を含め、バイタルサインを評価する。大体敗血症で体温が下がっているような症例はICU管理となるので、直腸温を測定しながらICUに入室となることがほとんどであった。
また、以前に書いた「粘液水腫昏睡」も低体温の原因となる。確かあの患者さんは残暑厳しい初秋の入院だったが、布団をかぶっている状態で体温は33度程度だったかと記憶している。
低体温は、手術中の方の問題となることもある。手術室は、術者が術衣を着るので少し涼しい温度で管理されており、患者さんは裸の状態になっており、麻酔をかけるので自律神経系の調節も効かなくなるため、体温のコントロールができない状態になっているのである。さらに、腹部手術であれば、開腹しているので、臓器が生み出す熱もどんどん外気に奪われるためである。なので、手術中は直腸温を継続して測定し、低体温が疑われる場合は、術野の邪魔にならないところを加温することが一般的である。ICUでも加温を行なうときは、温めた空気で患者さんの全身を包む、製品名Bear Huggerなどがよく用いられていた。そして、最も効率よく体温を上げるのはPCPS(ECMO)を回すことである。ただし、体温をあげるためにPCPS(ECMO)を回すことはなかった。
もちろん、冬季には外気温による低体温症もよく経験した。
哺乳類の中でも、クマは冬眠する生物として知られ、冬眠時には体温は低下し、身体の代謝も極限まで低下する。この遺伝子は当然人間にも備わっており、時に小さい子供が凍った湖などに落ち、30分後に救出されたが、後遺症なく元気に退院した、という場合は、うまくこの冬眠遺伝子が働き、身体を守ってくれたのだと考えられている(ふつうは、10分間窒息したら死んでしまう)。なので、医学の格言の一つに”Don’t say that the patient is dead unless the patient is warm and dead.”というものがある。
「患者さんの身体が暖かくて、なおかつ死んでいる状態でなければ、『患者さんは死んでいる』と言ってはならない」
という意味である。心肺蘇生のガイドラインでも、低体温患者は加温をしながら心肺蘇生を行ない、低体温の状態では致死的不整脈が出ても、抗不整脈薬は使わずに加温と心肺蘇生術を続けること。十分な体温があるにもかかわらず、心拍再開がなければ、その時点で患者さんの死亡確認を行ない、低体温状態では死亡診断をしてはならない、とされている。
2月のある日のER、以前にも書いたように、私はERボスの石井先生が苦手ではなかったし、早起きも得意だったので、AM 4:30からの時間分けシフトに入っていた。書類作成をしているボスの横で、ぼんやりしていると突然ホットラインが鳴りだした。急いでホットラインを取る。
「某駅前で倒れていた人がいると救急要請を受けたので、患者さんを収容した。明らかな外傷はないが、身体は高度に冷たい状態で、体温計では測定不能。受け入れをお願いしたい」
とのこと。
「来てください」
とOKを出して、当院に搬送してもらった。
患者さんは40代半ばぐらいの屈強な男性、身なりからはホームレスの人だと推測された。直腸温で27度、意識レベルはⅡ-30程度。痛み刺激に目を開けるが、すぐに閉眼し、発語はなかった。心音は非常に弱く、高度の徐脈。呼吸音もゆっくりで、ラ音は目立たなかった。診察を終え、検査や点滴などの指示を出そうと電子カルテを開けるとボスが
「保谷!もう何もしてやるな!」
との指示。当然ボスは前述のことは当然承知済みのこと。そのうえでボスが
「何もしてやるな!」
と指示しているので、当然返事は
「はい。病歴と身体所見を書いておきます。心電図モニターだけつけておきます」
と答えた。救急隊の話ではどうもお酒を飲んで酔っ払って駅前で薄着のままで寝てしまったらしいとのこと。モニターは洞徐脈だったが、すぐにSlow VT→Vfとなった。
「保谷!じっとしとけ!」
とのボスの指示なので、そのまま静かにモニターを眺めていた。しばらくして、モニター波形は平坦化。
「保谷、死亡確認して、警察に連絡しとけ」
との指示に従い、死亡の三徴を確認し、死亡を確認。所轄の警察に連絡した。もちろんこの方は警察に引き取られ、死体検案を行ない、「凍死」ということで処理されるのであろう。
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