C

 水たまりに頬が浸かっている。うつ伏せで倒れていて、全身水浸しらしい。ということは現実世界に戻ってきたのか。

 トンネルの突き当たりに到達していた。うるさい蛍光灯がその下の鉄扉を照らしている。

 この先に待つものは知らない。きっと今までのように、脈絡のない何か…… 見方によれば喜劇のようなものが、目の前で勝手に繰り広げられる。決着か虐殺か、それすらもわからず、ここまで来た。いや導かれた。

 扉のすぐ上にはHISOの四字。

「……きな臭え」

 もし生還できたら本部の所長を真正面からぶん殴ってやる。そう誓い足を踏み入れる。

 エントランスもなく、ただそのまま本部に似たデザインの真っ白な廊下が、トンネルの延長としてあった。人が活動した跡が各所に残っているが肝心の人影、人の気配はまったくなく、ある日突然人が消えたような雰囲気がある。

 この非現実的な廃墟で何故か妙な安心感を、久は覚えていた。やっとあの狐のふざけた幻術から開放されたことによるのか。

 廊下からの枝として食堂、更衣室、シャワールームなど延びている。水が蒸発したせいで壁と底が真っ黒になったコーヒーカップ、棚にきれいに畳まれた衣類、シャワーの個室で骨とシミにまで分解された死体……

 人はここから去ってなどいなかった。なんの前触れもなく全員が死んだ。そんな感じだった。

「ここで何を」

 資料庫へ入る。いくつか並んだ重厚な可動式の本棚に、資料は三冊のファイルのみ。うち一冊を抜き取る。題して『本』。


 これがいわゆる「かゆうま日記」にならないことを祈るばかりだが、それは神には届かなかったらしい。本をこの施設に残しみなで逃げおおせる前に、なんの意味もなかろうが、形式的なホラーゲームにありがちな「手記」を残す。

 あの奇異な形状の何かを本と呼ぶのはどうかと思うが、便宜上そう呼ぶ。本は二〇三四年七月六日、月が浮かぶ方角より飛来し〇〇山麓に墜落した。

 地上で発見される前の状態は何もわかっていない。構成元素はケイ素33.3%、酸素66.6%。他の元素は全く認められない。これは本の表面にすら何も付着していないことを意味する。

 形状はどんなものにも喩えがたい。強いて言うとしたら、マンデルバルブのように規則に従って空間を塗りつぶしたときに現れるめちゃくちゃな図形、だろうか。いくら触れても叩いても、その形を変えることは決してなかった。

 見た目と組成から石英だろうが、二酸化ケイ素はこんな結晶構造を持たないし、現人類もこのような形にするだけの加工技術を持たない。

 本の特異性は、墜落地付近に建てられたこの研究所の職員による悪ふざけで明らかとなった。

 両手で持てる大きさの本を職員が帽子のように頭に被せたところ、昏倒した。倒れた拍子に本が頭から落ちると即座に意識を取り戻したがそれ以来超然とした姿勢で奇妙なことを口にするようになる。その内容を以下に記す。


・神により開かれたこの宇宙は神により閉じられる

・この遺物はかつての宇宙を閉じたときのことを記した歴史書である

・アガペーもエロースも隣人愛もすべて等しい

・神は宇宙を閉じたとき宇宙の理の解釈を新たに得る

以上


 これらが何を意味するのか、はたまた本か職員の妄言なのかなど様々考察された。しかしこの四項目の他に新たな知見を得ることは叶わなかった。

 本を被った職員はこの事案から4日の後、「本は私に、宇宙を閉じる役目の一端を与えられなかった」との言葉を残し自殺した。「与えられ」が可能、尊敬のどちらであるかはわかっていない。

 一連の流れを受け、「なんだか気味が悪い」とのことで、臭いものに蓋をするべく本を保管庫に幽閉、職員は一切の接触を禁止された。


「……何が出てこようが驚きゃしないさ」

 他の資料はここ研究所の見取り図と、本の写真だった。

 また何もわからなくなった。

 とにかく保管庫へ向かう。


「三人揃ったか、この宇宙の虫けらとしては悲しく思うぞ」

 何もない真っ白な直方体の部屋の中心に玉座。肘掛けに本、膝に零花。

「縦一三五メートル、横二二・五メートル、高さ一三・五メートル。この部屋が何かわかったら、入ってきた扉を閉めろ。水が入る」

 何かわからない。中央まで進み零花の顔を覗く。その目には何も映っていない。ぼんやり目を開きただ呼吸をしている。

「……どうなってる。零花は――」

「零花は精神を奇跡に捧げた。もう帰っては来まい」

「……、どう、なってる」

「神は人間の中に、知性という形で等分されている。こんな状態では自らが作った世界の理を超えた現象を生み出せない。人間を、一人を残して全滅させ、神を《一等分》……神をひとつにする。全滅のための黙示録的現象を起こすために、かつて理に逆らって生まれた、吸血鬼が必要だった」

「……、」

「零花は死んだ。ここにあるのは、残されたガワだけだ」

 汗が背を伝う。

「それより世界の心配をしたらどうだ、奇跡はもう実を結んでる」

 部屋の六面が全てガラスのように光を透過した。ここは山中の地下にあるはずだが、久と焔は砂漠、一面見渡す限りの砂漠を見せられていた。

「一度目の奇跡。地殻から酸素原子を抜いた。砂のように見えるのは、かつて我々が踏みしめていた大地そのものだ」

 早く扉を閉めろ、愛すべき地球を最後の拝んでおけ。焔が促す。

「なんなんだよ、これ」

 両開きの扉から外を眺める。清々すがすがしくきよい青の空に、鈍重な砂が沈み、蠢いている。飛驒零花をにえとした一度目の奇跡で、大地が消えた。

 この部屋は浮いていた。沈殿のずっと上で、微動だにせず、静かに浮いていた。

「こんな、こと」

「いつまで感傷に浸ってる、早く閉めろ、私が死ねないだろう」

 扉まで彼女が零花を抱いたままついてきていた。

「ふざけんじゃねえ、この際世界がどうとか、どうでもいい。零花、零花が死んだって」

 どうでもいいとは言ったものの、実際は目の前のカオスを正面から受け止めきれず、現実味を感じられていないだけだった。

 零花を床に下ろす。

 彼女からは本当に、何も感じられない。この状況への悲哀も、憤怒も混乱も。ただ機械的に、単調に胸を上下させている。まさに魂を抜かれたようだった。

 久が彼女の身体を起こし抱きかかえる。人形そのもの、なんの反応も見せず久の肩に頭を垂れている。

「何で……まだ心臓だって動いてる!こんなに、……暖かいのに、何で、死んでるって」

「今となっちゃ肉の袋だ。後で使うから傷つけないでくれよ」

 仕方なく焔が戸を閉めた。

「お前、……よくも人の娘を肉の袋だなんて――」

「うるさい!お前こそよくも畜生に人情がないような言い方をしおって!本のせいで心にもないことをさせられるの身にもなってみろ!」

「……黙れよ、畜生風情が」

 零花を放って、焔の首を、両手で掴んでいた。

 自制は効かない。いや自制すら、この手を許していた。

 彼女の抵抗はない。仰向けに倒れ、久のその目をしかと見据えて、糸の切れるその時まで、気味の悪い薄ら笑いを浮かべていた。



「俺が、殺した」

 化けの皮が剥がれた白い大狐を前に、うなだれている。憎たらしい口を叩く者はもういない。結局、何もわからないまま本の奴隷を殺してしまった。

 ……本?

 本。自分もあれにアクセスすれば、何かわかるのか。

 恐る恐る。未知の結晶に触れる。……何も起こらない。手でも切りそうな、常温の水晶だ。

 意を決して、いやヤケか、頭の方へ本を持っていったその時だ。

「楽しみは最後にとっておけ」

 失礼、少々手間取った。飛驒零花の骸が久の肩に手を置いて、ねばついた笑みを投げた。

「……は、お前、」

「半吸血鬼じゃ全ての奇跡を起こすには足りんのだよ。だから私、焔……化け狐で補う必要があった。そしてあんたが、都合よく私の肉体を殺し捧げてくれた」

 骸が太陽を指差す。

「光が、」

 消えつつある。何かに遮られるように。

「二度目。あんたが起こしてくれた。太陽から水素を持ってきているんだ。二つの星を渡る大量の気体に光が阻まれる」

「クソみたいなブラッドムーンだな」

「こんなことはどうでもいい。オメガはアルファのためのアルファに過ぎん。後生、いや後生を迎える前に、全生命体最後の愛を――」



「……愛ってなんだ」

〈相手によって名前を変えるもの。それぞれの違いは便宜でしかない〉

「だが娘に欲情はしないだろ」

〈骸は娘と認めんか。冗談はともかく、人間が他人との愛を育むことを手助けするために性愛を利用しているだけだ〉

 白紙に大きな円。

〈点を押し拡げ宇宙を作った存在を神と呼ぶとして、その神は知性としてヒトというしゅに等分され潜み、自分自身すら理解の及ばなかったこの世界についての解釈を、ヒトに作らせている。……しかし一つ、大きな誤算に直面した。ヒトが世界への理解……今回の文明でいえば科学、これが発展するにつれ、人々の、世界に対する解釈が、全体で統一され始めたことだ。グローバル化だよ。そこで宇宙を創っては閉じ、神自身を一つにまとめることを繰り返す。こうして様々な、世界への解釈を得てきたのだ〉

「アガペーもエロースも隣人愛もすべて等しい……そういうことか。人の中に神がいる。宗教家は道化だったな。仁愛も慈愛も、か?」

〈いや因果に乏しい宗教や古代哲学がなければ、文明は科学を見いだしえなかった。哲学は神に、生命が持つ思考や感情を理解させるだろうな〉

「焔、お前は狐だろ。どうして知性が?」

〈そうだったな、私は狐だ。知性……まあ人を食ったんだ。猫又と同じだよ〉

「……納得できない。なんでよくわからん存在の知的好奇心のために、何度も無数の命が無駄に殺されなきゃならないんだ」

〈あれにとって命というのは取るに足らん存在だ。奴に命という概念は当てはまらん。人間が牛を殺すことをためらい、喜んで魚を捌くのと同じことさ。自分との共通点の数で慈しみの程度を変える〉

 そろそろナメクジでも食うか。二度の果て、ついに終えた。



 腕の中で彼女/彼女は今度こそ死んでいた。焔により作られた恍惚を顔に遺し、無情にも冷えていく。

 飛驒零花を穢した。

 越生久が、最後の壺を割った。

 二人を、自ら手放した。



 外は晴れ、澄んでいた、砂漠はこの部屋を浮かべる大海原へと姿を変えている。

 服を整え扉を開ける。

「縦横高さ何メートル……ノアの方舟はこぶねか」

 何も、何も起こらない。船を絶対の静謐せいひつが包んでいる。

「……神は。俺の中に一等分、」



 白い紙に本を描く。

〈じき世界が閉じられる。次回のシナリオは久、あんたが決めていい〉

 歴史書に預言?

〈歴史書なんかじゃない。神がすべき事柄を記した、仕様書だ。我々が目にしたものも本の全体像じゃない。本は九次元に身を置いている。それを三次元空間に重ねたときの切片を見ていただけだ〉

「命のことはどうでもいいのに、次のシナリオは生命に書かせるんだな」

〈どうでもいいからこそ気まぐれというものがある。どの衆生がどんなシナリオを練ろうとも、全て奴にとっちゃマクガフィンなのだろう。話せば神が代筆する。さあ〉



 次劫、ある日の昼下がり。

「行ってきまーす!」

 零花が家を飛び出した。近所の学舎の学友とはすぐ馴染み、毎日こんな調子で遊び呆けている。悪意ある大人にさえとっ捕まらなければ、特に久は言いとがめない。

「いつまで屈託もなく一緒にいられるか……親ってなァ気が気じゃないんだな」

「吸血鬼の成長曲線とか、よくわからんが、あの子がここに来るまでを考えるとなかなか当てはまらんものもあろう。さて」

 炬燵で煎茶をずるずる啜っていた焔が横の久に視線をやる。

「うっ……待て今日寝てないんだ、明日に――」

 構わず押し倒す。

「だったら寝てりゃいい。勝手に使わせてもらうぞ」

「知るか!同族とやってろ!」

「もはやイヌ科でドーパミンは出んのだよ」

「ぎゃー!」



 ある劫のある日。

 方舟の中で。

「まったく、あんたは何度出会っても飽きさせんな。なあ久、こんな子を、今までずっと独り占めしていたんだろう?聞いちゃいないか」

 久の首を、散々弄んだ零花の腕にいだかせる。

「シナリオはおれが次を決めさせてもらおう。今回はバッドエンドな気分だったんだ」



 ある劫のある日。

 久と焔の寝室で。

「……久。愛ってなんだ?わからんのだ」

「なんだ急に。どんな形であれ、好きってことだろ」

 本のくだらない記録で、自分がかつて久と零花にした数々の悪行を知った。

「おれが久や零花に向ける、今まで愛情だと信じて少しも疑ってこなかったものは、……実はただの独占欲だったんじゃないかって」

「そうだろうと結局好きってことだろ。難しく考えすぎだよ」

 この劫の彼は、まだ本のことを知らないでいる。だから、彼は疑いようもなく、狡猾な雌狐を腕に抱く。



 苦い真実は甘い嘘に勝る。



 ある劫のある日。

 焦土の上で。焔による。

「たまには、一人で最後を見るのもいい」

 神はいつも姿を現さない。偶像をあざ笑うように、一等分の依代から出ようとしない。

「なああんた、おれぁ神って呼んでんだが、この惨めな狐の一人遊び、毎度何考えながら見てんだ?……たった一頭の衆生のことだが、見てんだろ」

 うつろへ還るこの星に、今だ乾いた風は吹く。



『十分ののちをもちまして、第六七宇宙園を閉園いたします。またのご来園を心より――』

 斜陽を背に膝を折って座り込む。

「おれ、何を」

 毎日毎日遊び呆けて、二人の満足も与えぬまま、最後に門を出る。

 ときに媚び、

 ときに仮初かりそめの愛を贈り、

 ときに、殺した。


 また次の日には、みんな全部忘れて、ひとり取り残される。


 この世界を、ある意味で他の衆生の誰よりもよく知っていて、理すら超越してみせた。なのに、支配人の顔すら見たことはない。

 支配人さえいなければ、きっと永劫回帰が世の一番外側にある原則として働き、何種類あるにせよ同じシナリオを永遠に繰り返していただろう。

 いつしか考えることをやめた。



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