第百八十六日目~第百九十五日目

■第百八十六日目の日記


 今日は店を閉めた後、レティとともにプロイノ様のお屋敷を訪れた。イェンタークルム邸に来るのは俺は初めてではないが、もちろん使用人が何十人もいる立派なお屋敷である。レティをプロイノ様に紹介し、色々と長い話になる。そろそろ春先になるが、保存の効く菓子はないかと聞かれた。こんどエクルズケーキでも持っていこう。エクルズケーキは北イングランド、マンチェスターの西にあるエクルズという小さな町の名産品で、スパイスを効かせ干し果実を焼き込んだ小ぶりなパイだ。フィリングが外気に触れないので、割と日持ちがする。


■第百八十七日目の日記


 今日も店を閉めた後レティとともに出かける。きょうは皇太后陛下の御実家である。皇太后というのはいまの皇帝の母親のこと。現在の後宮の主であるが、宿下がりしているというので実家の方を訪ねてきた。もちろん手土産を持参している。ファット・ラスカル。ヨークシャー名物の焼き菓子で、ものすごく簡単に言えばクッキーに似ているが、作り方から言えばターフケーキと呼ばれるものの一種で、食感はスコーンに近い。茶によく合う。果実や木の実などを表面に配し、人間の顔に見立てるのが特徴である。さて、皇太后陛下は大いにご満足くださった。レティの人脈が広がっていく。ちなみに、いつだったか俺のヨークシャー・カード・タルトを気に入って俺を御用達まで引き立ててくださったのもこの皇太后陛下であった。


■第百八十八日目の日記


 今日もレティを連れて後宮関係者に会いに行った。その帰りには公衆浴場に寄った。他には特筆するほどのことはなかった。


■第百八十九日目の日記


 今日は俺の店は三店舗とも店休日である。家で過ごそうかと思ったのだが、今日からルービィに家庭教師がついて礼法や読み書きなどを教えることになるというので、遠慮して出かけることにした。ちなみに家庭教師はどこから来たのかと言えばフェリクスのところからである。しみじみ付き合いが深い相手だ。


■第百九十日目の日記


 ドメスティカ翁がうちに来た。ルービィのための往診だという。妊娠していることは間違いない、と断定された。めでたいことではあるが、これからますます大変になるということでもある。とはいえお祝いの一つくらいしなければならないので、クラナッツハンを作った。これは店では出していないものである。生クリームにオートミールとフルーツを加えて混ぜただけのものだが、この世界では御馳走だ。現地のスコットランドではウィスキーを上からかけるのだが、今回はそれはなしにした。ルービィは妊娠中だし、そもそもこの家に酒は置いていない。


■第百九十一日目の日記


 ルービィのところにオレンジが一つ届いた。彼女の‟恋人”、皇帝からの贈り物であるという。オレンジはすぐになくなったが、皮が余ったので、俺がそれをダンディーケーキに仕上げた。ダンディーケーキはスコットランドの南にあるダンディーという港町で誕生した英国菓子で、簡単に説明すればマーマレードを使ったフルーツケーキである。美しく放射状にアーモンドを飾って焼き上げるのが特徴だ。食感が軽めで食べやすいので、英国ではクリスマスケーキとして用いることもある。


「甜橙の皮のケーキだなんて。すっごいなあ。さすがクロノ様。何でも御存知なんですね」


 なんでもは御存知ではないが、まあ、地球人だからな。それ相応の知識は持っている。


■第百九十二日目の日記


 ドメスティカ翁から長い手紙が来た。彼とその仲間たちは実はレティがかかりきりになっている皇帝とルービィの一件とはまったく無関係にずっとこれを研究してくれていたのだが、地球とこの世界との間に繋がる往還手段のことが分かった、という。店を閉めてから、話を聞きに行く。


「確かに、地球との間に扉が開かれる、ということは分かりました。これは一種の自然現象で、人為的な魔法などによるものではありません」

「どれくらいの頻度で起こるのでしょうか」


 俺は勢い込んで言った。だが、翁は苦い表情を浮かべ、首を横に振りながら言った。


「……百年に一度。それだけです。それ以上の頻度で起こることはあり得ない、と断定されました」


 俺はその場に崩れ落ちた。そのあとどうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。


■第百九十三日目の日記


 支店の二店舗は他に店長がいるからそのままだが、本店は今日は臨時休業にすることにした。朝からやっている居酒屋を探し、俺は酒に溺れた。帰ってきたら、心配そうな顔のルービィが木製のコップに入った水を差し出してくれた。事情は何も説明していないのだが、ルービィは何かを察しているように見えた。


■第百九十四日目の日記


 さすがに二日も臨時休業にはできないので、店を開けたが、オーブンの前でぼんやりとしていたらうっかりパイを焦がしてしまった。こんなことは滅多にやらない。俺は相当に参っているようだ。


■第百九十五日目の日記


 リンゴを仕入れに行った先で、ヴァレリスに心配そうな顔をされる。そういうときは娼館に行くのが一番だ、と言われる。理屈は分かる。だが、俺の決意は固かった。まだ。まだ、諦めたくはなかった。どこかに希望は残っていないものだろうか。無駄であるとは知りつつも、俺は心中であがき続ける。

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