第三十三話
少し経って。わたしは帝都の一角にあるキトルス家の別邸を訪れていた。自前の領地があるようなクラスの貴族なら、どこであれ帝都に屋敷の一軒くらいは持っているものである。父の存命中あまり使われてはいなかったし、わたしもここに来るのはかなり久しぶりのことではあるが。今日はここで、いよいよ婚儀を一週間後に控えたラクテアの十六歳の誕生日を祝う祝賀会が催されている。
「誕生日おめでとう。ラクテア」
「ありがとうございます、姉上様。あら、今日はあの奴隷をお連れではないのですね」
「このところ悪阻が酷くてな」
これは嘘である。お腹の方はそろそろ目立ち始めてきてはいるが。
「今日は楽しんでいってくださいましね。またのちほど」
「ああ」
本当のところパーティーを楽しんでいられる状況でも立場でも気分でもないのだが、だからといって無論挨拶しただけで帰ってしまうというわけにはいかない。遊びに来たわけじゃない。
この別邸にもわたしの部屋がある。わたしの心情がどうあれ、キトルスの現当主でありこの屋敷の所有者であるラクテアがここはまだあなたの部屋なのだと言うのであればそれはそうだということになるのである。わたしはそこでラクテアが来るのを待っていた。と、戸を叩く者があった。
「局長閣下」
アンフィスだった。他の姿は見えない。
「お前一人か? ラクテアはどうした」
「我が主は少し後でこちらにお見えになります。その前に内々お話したき儀が」
「何だ」
とりあえず部屋に通す。真意が分からないまま追い返すわけにもいかない。
「エキドナの件ですが」
「今のところ特にこれといった情報はない。先日も手紙で伝えた通りだが」
「左様でございますか。ということは、つまり」
刹那、アンフィスの顔から一切の表情が消えた。
「あなたがエキドナですね?」
わたしは間髪入れずに即答する。
「何を言っている?」
カマをかけられたのだという可能性もある。史局局長たる者がその程度のことでそう易々と尻尾を出すわけにはいかない。
「まあ、わっちの話を聞いておくんなまし」
アンフィスは再び、いつものお道化た調子に戻って続ける。
「例えば仮に、エキドナというのがいずこかのやんごとなき御令嬢で、匿われている女はその使用人である、と考えてみましょう」
わたしは黙って話を聞く。
「この場合皇帝陛下も一緒になってその女を匿っておいででしょうから、つまりしかるべき情報隠蔽がしかるべき筋によって行われるはずです。であれば、わっちらにもそれを突き止めることはできないやもしれません。で、皇帝陛下が用いられるしかるべき筋とはどこかということになると、考えられるのは二つ。一つは宮内庁ですね。そしてもう一つは」
わたしは無言を貫いている。
「この国で最高のインテリジェンス。皇帝直属の諜報機関。つまり、史局です」
この推論はまったく正しい。
「もちろん、史局はこの件で動いてはいない、という可能性もあります。しかしそうだとして。我が主の御姉君であられる局長閣下が既に手を動かしているはずなのに、なおも一切の情報が出てこない。史局を出し抜ける存在は、大陸全土でも皇帝陛下と宰相閣下のお二人だけであるはずです」
その通りなのだが、それは少なくとも市井の一般人が知っているような話ではない。そのことだけ考えてもこの女は只者ではない。
「皇帝陛下は当然に容疑者から外れるとして。宰相閣下の線については、まあ今もまだ調べを進めているところではあるんですが、しかしシロである可能性が既に高い」
当たり前だが宰相の身辺などそう簡単に探れるはずはない。底知れない情報収集力だった。
「これで可能性はかなり絞り込まれました。局長閣下はエキドナの正体を知っているが、その上でなお実の妹に対してもそれを隠している。もちろん、わっちらには分からない複雑怪奇な秘密の事情が何かおありなのかもしれないですが、単純に考えれば局長閣下もエキドナとグルなのだと見るのが自然です。では、史局局長をも抱き込むことができるエキドナとはいったい何者なのか? なぜ、局長閣下は実の妹を裏切るような真似をしているのか?」
胸に突き刺さる言葉だった。まあ、もうそのことで悩んでいる場合ではないが。
「ここで初めて、まったく別の場所にあったはずの一つの情報が光を帯びることになります。帝国史局局長レティクラタ・キトルスの傍近くには常時の同行を許されている一人の女奴隷がいて、それが今妊娠中である」
無言。
「話は少し遡ります。その女奴隷は前当主の葬儀に前後して幾日か、キトルス家の本邸に起居していた。また、御存知の通りそれにほぼ重なる数日間、同じ場所に皇帝陛下が御滞在でした」
わたしはようやく口を挟んだ。
「それがどうした? あの屋敷に年頃の女奴隷がどれだけいると思っている」
執事長にでも訊かなければ正確な数は分からないが、どう控えめに数えても百を切ることはない。
「いえ、それだけです。お尋ねになられる前にもう一つこちらから申し上げますと、今の話はまだわっちからクリス様のお耳に入れてもおりません。何しろ証拠は何もないのでね」
「そうか」
「では、わっちはこの辺で退散させていただきやす。今日はクリス様の傍には別の使用人がおりますが、また近いうちお目にかかることになるかと」
「分かった。下がっていいぞ」
部屋から出る際、こちらに背中を向けてアンフィスバエナは一言呟いた。古代竜人語。わたしもあのあと数日を費やして学び直した。
『毒蛇め』
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