第二十話
「たっだいまーっ!」
ルービィが元気いっぱいの声でアパルトメントのドアを開けた。
「ああ、おかえり」
クロノに出迎えられた。下の店はもう閉店時間を過ぎている。
「ただいま」
次にわたしは日本語で言った。わたしの日本語研究はもうほぼ完全に終わっている。
『力を貸して欲しい。他の誰にも頼めないいくつかのことがある』
クロノはわたしの顔を見た。それだけで事態の深刻さをある程度は飲み込めたようだった。
『どうしたんだ、そんな改まって。きみの実家のことか? 何があった?』
『いや。そうと言えなくもないがしかしそうではないんだ。わたしの問題ではない』
一般論として秘密を知る者の数は最低限にしなければならない。だが、誰も頼れる相手がいない、というのもそれはそれでまずい。彼は信じられる。わたしの恋愛感情の問題ではなく、口が硬いし信頼していい。わたしは彼と、そして自分自身の判断を信じる。
『ルービィが皇帝の寵を受けた。妊娠しているかもしれない』
『……それは。何ということだ……確かなのか』
『週数から言ってまだ断定はできない。……しかし可能性は十分考えられる』
ルービィの明るい声がそれを遮った。もちろん彼女に日本語は分からない。
「やだなー、かわいいルービィちゃんを差し置いて内緒話はやめましょうよ。それよりごはんにしませんか」
空元気が痛々しかった。落ち込まれるよりはましではあるが。まあ、いつまでも玄関先で立ち話するような話題じゃないし、食事にする。クロノが用意してくれていた。
夜遅く。わたしの寝室にクロノが姿を見せた。ルービィは自分の寝室。あの日以来初めてのことになるが、今のわたしはそんなことを考えていられる状況にはない。
『それで。俺に何ができる』
『あなたがいま後宮に持つ信頼できる相手とのコネクションを、わたしに教えて。できる限り多く。わたしは表の宮殿に対してならともかく、後宮に対するパイプは持っていない』
クロノはしばらく前から菓子商として後宮に出入りしていた。皇帝の許しを得ている。御用達である。わたしはというと、私の肩書きでは後宮には一歩足を踏み入れるのも無理だ。皇帝の寝所に押し入る方がまだ簡単だった。史局局長代理の肩書きは絶大な威力を持つが、職掌が違う。
『分かった。全面的に協力する』
良かった。……選びうるほかの方法もいくつか考えてはいたが、わたしはこの三人での暮らしをもうしばらくは続けることに決めた。局長代理なので公邸の管理責任もわたしが負うのだが、ここの方が安全だった。まあ、三ヶ月だし、公邸にはわたしの名で名代でも送っておけばいい。それはフェリクスに任せられる。
それから。クロノはもう自分の寝室だが、わたしはまだ起きていた。久しぶりの徹夜だ。
「……入ってもいいですか?」
ルービィがわたしの部屋の前に立っていた。その姿はまるで幽霊のようだった。そもそも普段のルービィはそんなことをわたしに聞きはしない。
「いいわよ。こちらにいらっしゃい」
わたしは泣きじゃくるルービィを優しく抱きしめる。
「ごめ、んな、さ……い……レティ……さま……あ、あたし……あたし……」
「いいの。いいのよ。あなたのせいじゃない」
「でも……あたしのせいで……あたしの、せいで……! レティさまに、もしなにかあったら……!」
……そうなのだった。ルービィは無論のこと、既にわたしの命でさえもだいぶ危うい。ルービィにもそれが分かるだけの状況だ。
妊娠していたとして。無事に生まれたとして。そして、それが男の子だったとして。わたしが現時点で把握している情報に不足がなければ、その子は第一位の帝位継承権を得る。
わたしの実家の家督くらいでも血を分けた姉妹で殺し合うような事態が生じるわけで。帝位継承権第一位の子の母と、その庇護者はどれくらいの立場に置かれることになるかと言うと、そりゃあまあね。
「あたしなんか、あたしなんか奴隷だから死んだっていいけど……! でも、レティ様は……!」
「そんなことを言っては駄目」
わたしはそっとルービィの頭の上に手を置いた。撫でる。
「あなたの主を信じなさい。わたしはあなたを守る。わたしはレティ。イリス・レティクラタなのよ」
わたしはルービィが泣き疲れて眠るまでそうしていた。
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