林檎と甜橙、女奴隷とその主人
きょうじゅ
第一部
第一章
第一話
昼下がり、竜人の子供の出物でもないかと思って奴隷市場を冷やかしていたら、少し離れたところから騒ぎが聞こえた。
「いいからとにかくその棍棒を下に置け!」
「誰か、この男の言葉が分かる者はおらんか!」
と、口々に言うのはここでは見慣れた顔であるオーガ種族の兵士たちだ。彼らはただの市中巡視の帝国兵ではなく、この奴隷市場のために特別に配属されているエリートだ。何しろ色々な奴が出入りする場所だし、毎日動く金も大きいし、そのくせ喧嘩や揉め事は絶えないし。腕っぷしが必要なのである。
そのオーガたちに囲まれて、わたしにも聞き取れない言葉で何か叫んでいるのは一人の男だった。男なのは髭があるから間違いなかろう。とは言ってもろくに手入れもしていない無精髭で、その一事だけでもこいつがドワーフではないことが確定するわけだが、しかし、何だろう、こいつは?
そこに並んでいるから比べてみるとオーガよりは二回り小さく、つまり我々エルフと同じくらいだが、耳は短い。髭と頭髪が生えているほかは肌はすべらかで、色はベージュだ。毛髪は黒く、瞳はブラウン。以上総合されたこの男の特徴はこの大陸に暮らす主要な十六の種族のどれにも合致しない。未知の種族だから年齢を割り出すのは難しいが、明らかに子供ではないしそんなに若いようにも見えない。さて、こいつは何者だ。氏族学者のわたしでさえ知らない未知の少数種族かもしれないが、それにしてもこの大陸を統一した帝国の名のもとに公用語に指定されて何十年も経つのに、この大陸で生まれ育った者がエルフ語を話せないということがあるだろうか。つまるところ謎だらけだが――一つだけ、分かることがあった。
「いいから、武器から手を離すんだ!」
と、言い募る兵士たちに向かって、わたしは口を開いた。
「それは武器ではない」
野次馬のものも含めて、周囲の視線が一斉にこちらに集まる。
「穀物の粉を伸ばすのに使う、麺棒と呼ばれる原始的な道具だ。今の時代に帝都で見かけることはないだろうが、大陸北部の山岳地帯に二つ、これを今でも用いている部族がある」
集まった視線がざわめきに変わり、そしてこの場の兵士たちの中で一番良い鎧を着ている奴、隊長だろう、そいつがわたしに丁重な口調で尋ねた。
「御婦人、御名を賜れますかな」
わたしは名乗る。
「帝国史局書記官レティクラタ。イリス・レティクラタ・キトルス」
子供でも知るように、この帝都のうちで三つ目に来る名すなわち氏族名を名乗ることは貴族にしか許されていない。僭称すると最悪死刑である。わたしは宮廷貴族で領主貴族ではないから所有領地を示す四つ目の名は持たないが、それでもこのような場所で威風を払うくらいには十分だ。兵たちが敬礼する。
「これは失礼をば致しました。つまりそうすると、この男もその北部の部族なのでしょうか」
当然検討されるべき疑問であるから、その両部族が使う言葉と、北部で広く使われている言葉を三種類、全部試してみたがどの言葉での問いかけに対しても麺棒の男は首を傾げるばかりであった。まあ、わたしはそうだろうと思ってはいたが。
たまたま今日市場にいた奴隷商人数人も兵に呼ばれてきて会話を試みさせられているが、やはり麺棒の男の言葉を理解できる者は一人もなかった。奴隷商人というものは職業柄、多くの言語に通じている。氏族学者のわたしでも分からない少数部族の言葉を使いこなせる者も中には居るほどだが、それでも駄目だというのはよっぽどだ。つまり、わたしの職業的好奇心が著しく搔き立てられる、ということでもある。
「そもそも、この男が何をしたんだ。無銭飲食でも働いたか?」
「公務執行妨害であります」
「つまり何もしていないんだな。ならばその身元、史局が引き受けよう」
「はっ、仰せのままに」
わたしは麺棒の男の手を引く。
「来い」
言葉が通じずとも、この程度の意は伝わるものだ。男はわたしについて歩き始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます