フビライ・ハンによる元寇
フビライ・ハンと言えば、日本じゃ元寇で有名だ。
フビライ・ハンが「俺の国に従え」って国書を何度も送ったのに、日本は無視。
このときの日本の最高責任者は鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗。
怒ったフビライ・ハンは2回にわたり、攻めてきた。
1回目が1274年文永の役
元と高麗の連合軍は暴風雨で撤退。
13500人余りの被害。
2回目が1281年弘安の役
このときも台風がきてくれて撤退。
元軍で帰還できたのは1割から4割と言われており、海軍の戦力を60〜70%を失ったと指摘する専門家も。
また協力した高麗はこの敗戦で国の財政難悪化を招く。
日本は追撃に成功したものの、鎌倉幕府は戦いに協力した者たちに十分な恩賞を与えられなかったために、1333年には滅亡に追い込まれます。
攻めるほうにも、攻められるほうにも全く良いことのなかったこの戦い。
フビライ・ハンは、もともと高麗の役人から「日本は危険な台風が頻繁にやってきますから、攻めるのはやめといたほうがいいですよ~」と言われていた。
それなのになぜ? って感じなのだが。
フビライに仕えたイタリアの冒険家マルコ・ポーロの『東方見聞録』によると、フビライは「日本は黄金がたくさんとれる国で、国民は誰でも黄金を持っています!」という家臣の嘘情報を信じて、その気になっちゃったらしいのだ。
全くもって迷惑な話である。
【コメント】
元寇の役は、最新の研究だと、元軍は台風が来なくても、
ボロ負けだったみたいです。二回とも。
一回目は上陸には成功していますが、内陸に進む前に
待ち伏せ攻撃で大損害を出し、矢も尽きた為撤退。
元軍側の記録にはっきりありますし、日本側のお寺とか
が焼けたというのは、この時ではなく、ずっと後の時代で、
それは発掘調査で判明しています。
二回目はそもそも防塁があったために上陸すら出来ず、
そうこうしている内に台風が来て壊滅…。
鎌倉幕府が滅びた原因のひとつは、確かに元寇ですが、
実際の理由はもっと別の話になります。
根深い問題が色々あった様で…。
(白狐姫と白狐隊様より)
そもそも
・元軍は騎馬民族なので海での遠征は得意としていなかった
・高麗は大国の元に協力しろと言われたから仕方なく兵を出したが、そもそもやりたくなかった(士気そのものが低かった)
という話もありますね……
いつも素敵なコメントをありがとうございますm(__)m
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます