第九十二話 秋月ちゃんのウキウキお寿司屋さん

 



 秋月とのやり取りを経て、演習場を抜けた後。彼女は俺を連れて、二人で一緒に行きたかったという寿司屋へ向かった。


 そこに着いた俺を出迎えたのは、なんか俺の服よりも良さそうな生地を使った暖簾。そして謎に綺麗に掃除された店の前の道。嫌な予感を覚えながらも、扉を開けた彼女に続いた。



 そしてその地へ踏み込んで早一時間以上が経っている。



 桧の匂いが鼻腔を刺激する。その匂いが演出する落ち着いた空間と、隣にいる秋月から放たれるウキウキとは裏腹に、椅子に座り腕を組む俺は、今途轍もない緊張感に包まれていた。


 隣に座る秋月は、栗鼠リスかなんかのように好物のお寿司を頬張っている。それを飲み込んだ彼女が、右手を上げて明るく声を上げた。


「たいしょー! まぐろ、サビ抜きで!」


「あいよ」


 汗が顎を伝う。ゴクリと唾を飲んだ。


 医者でもあるまいに、カウンターを挟んで白衣を身に纏う板前さんが俺の目の前にいる。刀でも抜いたんじゃないかというぐらいに振りかぶってシャリを掴み、寿司を握っていた。しわくちゃになった手。真っ白になった髪。その見た目からは想像できない勢いで、寿司を、握っている。



 振りかぶって、握った。


 会心の出来と言わんばかりに、板前がふ、と笑った。なんだこいつ......



「ん、この握り加減が絶妙なのよ。玄一。ここまでの寿司職人はなかなかいないわ!」


「......恐縮です」


 秋月の言葉を聞いて、涙がシャリに落ちてしまうのではないかというほどに、板前さんが何故か感極まった顔をしている。歓喜に震える指先を、職人の意地でピタリと止めた。カウンターの先、従業員のみが出入りできるであろう暖簾の掛かった場所からは、父さん...... とすすり泣く息子らしき男もいる。その後、息子が何か決意を固めた顔をしていた。



 なんだこの空間......



 思わず天を仰ぐ。見上げた視線の先には、壁に貼り並べられた短冊たち。なんかやたら芸術的に、鮪とか、ネタが記されている。ハネのクセが強過ぎて読めないよ。



 しかし何よりも問題なのは、ネタの名前しか記されていないこと。



 値段が、わからない。



 秋月は奢りって言ってたけど、そういう問題じゃない。心を、むしばむ。絶対高い。


「んも、んぐ、ん。玄一は何か食べないのかしら。私の奢りよ。たーんと食べなさい!」


「......ああ。ありがとう秋月。すいません、海苔巻きとお稲荷さんください」


「はは、お連れの方、随分と海苔巻きが気に召したようで」


 返事を返さないのをごまかすために、お茶を一口。緊張して味がしないとかそんなこと全然ない。お茶が、なんか謎にめっちゃ美味い。何これ。


「ん、それだけ美味しいんじゃないかしら」


「いやはや、私の愚息が作ったものでして、まだまだですから」


「んー......玄一が気に入ってるみたいだし、私もいただこうかしら」


 ガタンと大きな音がなる。秋月の一言を聞いて、奥からこちらをこっそり覗き込んでいた息子がこけたようだ。ちなみに普通の客であれば絶対に気づけない位置に彼はいる。防人である俺や秋月は気づいているが、彼は失礼にならないように徹していた。


 注文に応え、奥の部屋でお稲荷さんと海苔巻きを用意した彼が暖簾を分けて出てきて、震える手を使いカウンターにそれを差し出す。体調でも悪いのだろうか。


「......いただきます」


 そう一言告げ、手に取り一口。じゅわっと口の中に広がる、繊細な味の暴力。


 (なんで稲荷も海苔巻きもめちゃくちゃ美味いんだよ......)


 そう。この店の寿司は、美味すぎるのである。まさしく、美味。美食。前に秋月に連れてってもらったあの店も美味かったが、ここは俺の貧乏舌でもわかるほどに、レベルが違う。


 それが意味するところは、すなわち。


 (絶対高いって......秋月に悪いな......いや心臓に悪い)


 横の方にちらりと目をやる。おいなりさんをもきゅもきゅと口にし、舌鼓を打つ彼女は、目を見開かせていた。いやだって美味しいしな。


 あ、勢いよく食べ過ぎてちょっと喉に詰まってる。左手をバタバタとさせながら右手で胸を叩く秋月に、お茶を手渡した。


 彼女がごきゅごきゅと、お茶を喉へ流し込む。


「んー! これすっごく美味しいわ! 良い息子さんを持ったものねたいしょー!」


 ふーと一息ついた彼女の体が揺れる。それに合わせて二房の髪の毛が揺れた。秋月の言葉に大将は言葉を返さず、何か考え込んでいるようだ。ちらりと息子がいる方を見て、深く頷いている。


 何が起きているのか、俺にはわからない。


「んー、お腹いっぱいだわ。玄一まだ食べる?」


「いや、大丈夫だ」


「じゃあ、そろそろお会計お願いしようかしら! あ、玄一はお財布出さない。わたしの! 奢り」


 財布を取り出そうとした俺を見て、即座に止める秋月。奥から会計盆を手にし現れた息子が、震える声をひねり出す。


「......誠に、御礼申し上げます。八圓と五十銭になります」



 ひゅっと変な声が出た。俺の、めちゃくちゃ飯食う防人の、だいたい食費一ヶ月分である。つか下手な家庭の月収くらいあるぞ。嘘だろ。



 秋月の分厚い財布から、すっと八枚の紙幣が取り出された。全然へってない。



「んー、腹ごしらえも済ませたし! 玄一。本部の方行きましょ!」



 秋月が優しく、ニコニコと笑っている。彼女は好物のお寿司を満足するまで平らげて、ご満悦なようだ。


「美味しかったわ! ご馳走様です!」


 そう言った秋月が、軽やかな足取りで先に外へ出た。彼女が店を去った瞬間に、大将と息子が床に崩れ落ちる。これで我が家は一生安泰だとか、俺の存在も忘れて大層喜んでいた。何故?



 一人取り残された俺。はちえんとごじゅっせんの寿司。


 前々から抱いていた疑問が、どんどんはっきりとしてくる。



 裕福なところって言ってたけど、それって、どれくらいなんだろう。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る