幕間 枸橘神社

 



 木の葉が穏やかな海のようにさざめく。通り抜ける西風に揺られて。


 枸橘カラタチの木を垣根としたことが由来となり名付けられたこの社を、枸橘神社という。代々神職の一族により守られ続け数百年前から存続しているこの地は、魔獣の大侵攻により初めて汚されようとしていた。



 紅に染められた、神聖な領域と世界を隔たる鳥居。その前に、薙刀を握る一人の若々しい防人が立っている。



 透き通るような瞳。百合の花のように淡麗な顔立ち。少々派手な巫女装束を身に纏った彼女からは、覚悟と決意に満ちた、金糸雀カナリア色の霊力が立ち昇っていた。



 石段から上ってくる魔物を一匹たりとも鳥居の下にくぐらせんとして、既に何十体もの魔物を葬っている。


 しかし多勢に無勢。間断なくやってくる魔物の群れを前に、薙刀の彼女は疲弊し、その美しい顔に珠汗が伝っていた。それでも彼女は、その美しい金糸雀色の霊力を絶やさない。



「絶対に守るんだ......この場所を。私が、守ら、なきゃいけないんだ......」



 己を鼓舞しようとしているのか、はたまた言い聞かせようとしているのか、低い声で彼女が呟く。ここ枸橘の郷の防人を含めた兵員や住人は、一部を除いて既に撤退した。彼女のことを支援する兵員はいないし、共に肩を並べて戦う防人もいない。


 ただその意思だけを、前面に押し出して戦っている。たった一人で戦い続けるその気迫に、魔物がたじろいだ。


 その時。何かに気付いた彼女がその薙刀の石突を、地に突き刺すようにして叩きつける。


 金糸雀色の霊力が波紋となり、円状に、地に広がっていく。


「『結界式・枸橘』」 


 波紋となり広がった霊力は枸橘神社全体を覆うようにして、障壁を展開した。蟻の這い出る隙間もないその障壁は、魔物の侵入を防ぐ。鳥居のある枸橘神社の正門を避けて、山を登り枸橘神社へ突撃しようとした魔物を、彼女の霊力が焼き切った。


「ガァ......」


 狼のような見た目をした魔物が、それに気付いて声を漏らす。


 たった一人でも死守するこの地の重要性が、魔物にはわからない。彼らがその悪意を向ける人の気配は鳥居の向こう側にはないし、いくら人が社に神を奉ろうとも、彼らにとってはただの建築物に過ぎない。彼らにとって意味のないものに向けられるその執念が、彼らには理解ができなかった。


 しかし目の前にいるのは、人類の最高戦力。防人。これを捨て置くような真似は、いくら知能の低い魔物でも考えられない。


 地形。敵の実力。時間。複合的要素を鑑みて、決断した魔物が動く。



 山に何かの歩く地響きと、カサカサと蠢く音が鳴った。



「ひっ......!」


 薙刀を持つ彼女が思わず呻いた。彼女の目の前に現れたのは、二体の魔獣。


 腕が長い、全身が毛で覆われた猿型の魔獣。その力強さを誇示するように胸を叩き、魔力が大気へ揺らめく。


 そしてその傍には蛇のように曲がりくねる、百足型の魔獣があった。牙を彼女へ向ける奴の体躯はあまりにも大きく、この枸橘神社までの石段の長さを超えてしまいそうなほど長かった。



 鼻をほじっていた猿が真っ赤に顔を染め上げて、彼女に向け威嚇する。


 ニチニチという音を鳴らしながら、百足型の魔獣が百の足を蠢かす。視界を埋め尽くす鋭い足が、生理的嫌悪を彼女に呼び起こさせた。


 彼女へ向けられた鋭い二本の牙を鳴らす百足の口からは、毒が滴り落ちている。



 薙刀を下段に構え、金糸雀色の霊力とともに防人が叫ぶ。魔獣を威圧し煌めくそれは、月の輝きに似ていた。




「......姉さん! 私はここを守るよ! 姉さんの愛したこの場所を!」













 渾身の霊力を以って、真っ二つに叩き斬ったムカデの死骸。


 度重なる魔物との連戦。ムカデ型との交戦を観察し、彼女が弱る時を待っていた猿型との、死と踊る激戦。


 強力な一撃を叩き込む余裕はなく、ただ技でいなし、無数の刀傷を与え、持久戦を競り勝った。



「ぁ━━━━」



 薙刀を握ったまま座り込んだ彼女が、空を見上げる。その後、血が口からこぼれ落ちた。


 彼女の白衣は既に魔獣の返り血に染まり、その中には、彼女の血肉が混じってしまっている。


 脇腹へ叩き込まれた猿の魔獣の拳撃は、あまりにも重い。死を、確信するくらいには。


 座り込んでいた彼女が己の身体を支えきれずに、後ろへ倒れ込んだ。死の間際、最後の力を振り絞って、首を少し上げ鳥居の先を見る。



 そこには、無傷の社が立っていた。彼女の瞳が、潤む。それは、誰かの遺したものを守れた喜びからだろうか。



「姉さん......守ったよ......私。この場所を」



 体を捻り、うつ伏せの体勢になって、彼女がその社へ手を伸ばした。掴もうとして、掴めない。届かない。


 それに悲哀を覚えた彼女が、再び仰向けになる。



 彼女の瞳に、青空。自由自在の雲が泳ぐ、何にも縛られない、皆を包む広がり。



 最後に空を見られたことに満足して、彼女が目を瞑る。


 そして最後に。



「ごめん。御月」



 これ以上共にあれぬことを、共にあれたはずなのにこの地に縛られたことを謝るようにして、空に呟いた。







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