第八十二話 カラタチの郷

 


 夕日が橙色の陽光を辺りに差し込む。風が戦いの火照りを冷ますように、彼らを煽った。剣聖の白髪が靡く。


 魔物の群れを蹴散らし突き進む彼らは、目的地としていたカラタチの郷に到達しようとしている。


 前方を走り続けていた剣聖が速度を緩め、開け放たれた大門の前に立ち止まった。その門は魔獣の攻撃を受けたのだろうか、殴打の痕が付いている。木で出来た部分がへし折れ、ボロボロになっていた。


 破壊されよく見えないが、その門には意匠が施されており、金具を使って、枸橘カラタチ、と記されている。


 あぜ道には、人間のものではない無数の足跡が付いていた。それが意味するところは、つまり。




「……やはり陥ちたか」



 そう、悲しそうな顔つきをして剣聖が言った。彼が霊力の煌めきを見せて、郷全体の探知を一度に行ったのだろう。物言いたげな伊織の方を見て、彼が首を振る。人の姿は、ないようだった。


 しかし幸いなことに、濃い血の匂いはしない。


 門をくぐって、彼らが郷の中に入る。





 タマガキの郷と同じように、市民の居住区と商業区を兼ね備えた下町を彼らが闊歩する。建物が立ち並ぶそこを見てみれば、今朝まで商売をしていたのだろう、無人の露店が立ち並び辺りに商品が散乱していた。


 生活の跡が残るそこに、閑古鳥が鳴いた。


 ひゅうひゅうと、風の音が聞こえる。



「剣聖。人も……魔物も見当たりません。一体何が」



 辺りを警戒する伊織が、剣聖に聞いた。


「おそらく、シラアシゲからの使者が訪れた途端、すぐに避難を開始したんだろう。ここの郷長は剛毅な方だ。即座に決断したのかもしれない」


「そんなことが可能なのですか」


「分からない。しかし、郷とともに死を選ぶことはしなかったようだね」


 会話を続ける伊織と剣聖を置いて、俺が物珍しそうに辺りを見ている。シラアシゲで生まれ育った俺は、他の郷に訪れたことがない。興味津々だった。


 しかし、ここは本来のカラタチの郷ではないだろう。魔物に荒らされたのか、戸が破壊されていたり、果てには倒壊している建物がある。


 シラアシゲやここまでの道のりほどではないが、ぽつぽつと、人の死体があった。すでにこの郷にいる人間は狩り尽くしたと判断したのか、魔物はここを去ったのだろう。奴らは人のいる方へ、さらに東へ進撃することしか考えていない。


「伊織くん。玄一くん。日が落ちる前に、行きたい場所があるんだ。いいかい?」


 剣聖がそう、申し訳なさそうに、一つの願望を口にした。別にそんな顔しなくたって、いいだろうに。


「無論です。それで、どちらに」


 彼が、目を細める。


「この郷の象徴さ」










 剣聖を先頭に、石段を登り進んでいく。


 道中。足元に、青黒い血が滴っているのに伊織と俺が気づいた。


「……」


 剣聖が足を止める。そこにあったのは、散乱する魔物の死体。加えて、幻想級であろうか、ムカデのような魔獣が真っ二つになっている。


 それだけではない。無数の刀傷がつく猿の魔獣まである。この石段で、二体の魔獣が殺されていた。


 それを無視して、彼らが突き進む。


 上方に、美麗な紅に染められた鳥居が見える。そこへたどり着いた彼らが見たのは、一人の防人だった。


 薙刀を握ったまま、仰向けに倒れている。目を閉じ尽き果てたその体に、目立った外傷はない。しかし、殴打を受け内蔵がぐちゃぐちゃになったのか、口から血を垂れ流していた。


 艶やかな黒髪。小ぶりの鼻に小さな口。彼女の着る巫女装束は、魔獣の返り血に濡れている。


 何かに満足したように、息絶えていた。こちらから見えるその横顔に悔いはなく、なんだろう。神秘的なものを感じるほどに、美しかった。


 彼女の横を通って、剣聖が石段を登りきった。玉砂利を強く踏む音がする。彼が見たのは、傷一つない、守り切られた神社と、神木。


「ただ一人で守ろうとしたのか…………やはりこのやしろは、彼女を縛るか」


 彼が凍てつくような、低い小さな声で呟く。その声に、殺気が篭っている。それに驚愕する伊織をあえて無視して、彼が続けた。


「しかしその生き様。天晴。君は……此処を守りたかったんだな」


 魔物を一歩たりとも境内に通さんと絶命した防人の姿を見て、俺が口を開けたまま絶句していた。


 剣聖が振り返って、俺と伊織の方を向く。



「彼女を、埋葬しよう」





 彼女の遺体を運んで、薙刀を墓標とし、社の近くに埋葬した。三人で、彼女の冥福を祈る。彼女が撤退せずに、ここに残った理由は分からない。推察することさえ、かなわない。けれど、俺も死ぬなら。


 こんな風に意地を張って死にたいと、そう思った。








 参道を進み、手入れの行き届いた、立派な拝殿の前に立つ。低木である枸橘カラタチがぐるりと回りを囲うようにして、垣根となっていた。


 二体の狛犬が、こちらを見ている。


 ここに訪れたいと言った剣聖は、その理由を俺たちに告げなかった。ただ拝殿の前に立ち、祈りを捧げている。それを真似て、俺も伊織も、各々の願いを心に浮かべた。


 社は彼女を縛る、か。その口ぶりからして彼女のことも、ここのことも知っていたのだろう。シラアシゲに最も近い郷はここだし、不思議ではない。


「近くに神主の住む家があるはずだ。今日は、そこに泊まろう」


 加護があるかもしれないしね、と剣聖が言う。わざわざここを選ぶ理由は分からなかったが、俺と伊織に断る理由はなかったし、ここを休息の地とした。






 夜の帳が降りる。不気味なほど静かなそこに、パチパチと鳴る、焚き火の音が響いた。夜襲を警戒するため、見張りを立てることにした俺たちは交代で睡眠を取っている。伊織と俺、そして剣聖の分け方で、見張りの番をした。


 俺の『火輪』を使ってつけた火は、目立たぬように、小さな小さなものだ。辺りを少しだけ照らしていて、伊織と俺の顔がほのかな炎に照らされている。



「なあ新免。今日言った、剣聖の様子がおかしいって話を覚えているか」


 俺が揺れる炎を見つめている。


「……おう」


 伊織が木の枝で焚き火を小突いた。


「それはな、戦いにおける強さに限った話じゃないんだ。あんなに柔らかい、饒舌な彼を俺は初めて見た」


 今日出会ってからの姿しか知らない俺が、聞き返す。


「饒舌?」


「ああ。彼はもっと……他者との関わりを断つ人だった。マキナさんが間に入るのが常で、俺が防人になってから彼と会話した時間と、今お前と一緒にながら会話した時間を比べたら、多分後者の方が多い」


 その言葉に、俺が目を見開いて、その瞳に炎の煌めきが映る。たった一日で数年分を超えるというのだ。


「なんというか……もっと人を近寄らせず、威圧的だったんだ。一本の、真剣のように」


 彼の困惑が、その佇まいから伝わってくる。表情は暗くてよく見えない。


「今まで戦場で、彼は誰かの手を借りたことがない。誰にも、頼らないんだ。それを思って今日は駄目元で聞いたんだが、露払いを任せてくれて内心かなり驚いた。正直言って、彼の変化に困惑している」


「マジで言ってるのか? そんな素振りは見なかったけど……伊織は何か分かるか?」


 その問いに、彼が顎に手をやって考え込む。何かに気づいたのか、目を少しだけ開かせて、口を開いた。


「なんというか……それなら、共感できる気がする、いやしかし……うん。分からん」


 不可思議なことを言う伊織を無視して、俺が体を伸ばした。空を見上げて、浮かぶ月が見える。シラアシゲが陥落し、俺の世界は激変したが、その輝きはシラアシゲで見たものと、タマガキで見るものと変わらない。


 この時から、月が好きなのかもしれない。


 思考を戻す。伊織がさらなる疑問を俺に吐いた。


「それに、剣聖が先に見張りをしてくれてただろ。その時、彼の気配が遠くに行った。神木の方で、何かしてたみたいだ」


「小便でもしてたんじゃないか?」


「神木にするやつがいるか……」


 胡乱げな目をした伊織が、林の方を見る。


 苦笑していた彼の表情がすっと変わって、銀の輝きを見せた。


「どうした相棒。魔物か?」


 腰元に差した脇差に手をかけて、俺が立ち上がる。その臨戦態勢に移行する早さは、今日魔物から逃げ惑っていた少年のものとは思えない。しかし伊織が、霊力の輝きを消失させた。


「いや……気のせいだ。何かの気配がした気がしたんだが」


 彼が座りなおす。焚き火を見つめて、何か考え込んでいるようだ。炎に照らされ考え込むその姿は、なんだか様になっている。



「そろそろ交代しよう。朝まで睡眠をとってくれて構わないよ」



 そう、突如として、彼らの後方から凛とした声が聞こえた。


 すぐに立ち上がろうとして、そのままでいいよ、と静止された伊織が止めるように言う。


「剣聖。それでは貴方が」


「一度。後は平気だよ」


 こちらに近寄る剣聖が、炎の輝きに照らされる。彼の白髪が、煌めいた。


「いや……折角だしほんの少し話をしよう」


 そう告げた彼が、俺と伊織の間に座り込む。胡座をかいて両膝に手をつけた彼が、まず伊織の方を見て言った。


「伊織くん。君は、その銀色の霊力を白銀の霊力とせねばならない」


 伊織が彼の意図を理解できず、困惑する。


「色を変える……? それにそもそもその二色に違いはないのでは?」


「否。大きな違いがある。この言葉を覚えておいてくれれば、それで良い」


 彼が今度は、俺の方へ向き直った。


「玄一くん。君は……ここまで見たもの、これから見るものを、忘れないでくれ。君は、それだけでいい」


 彼がそう、伊織の時とは違うように、願うように言った。曖昧な言葉だったそれは、彼の声によって形作られ、記憶ではなく、この心に残っている。しかしその言葉の意図は、分からなかった。


 考えられることとすれば......生き残った俺が過去と向き合えないのを、彼は予期していたのかもしれない。


 しかし、それは推察でしかない。彼の意図は今なお、分からない。


 どれだけ考えようとも全ては推察の範囲を出ず、ただただ、この言葉の意味を知るのを待つだけ。いつか分かるだろうか。



「よし。あの家に寝床を用意しておいた。遠慮せず疲れを取ってくれ」



 そう彼にはっきりと告げられ、何を言おうと見張りを譲らないと理解したのか、伊織が立ち上がって家屋の方へ向かった。それに俺も続いて、その場を去る。


 彼のその大きな背中越しに、揺れる炎が見えた。




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