第61話 空前絶後の大魔法使いの箒

 時刻は午後4時を少し過ぎ、空も赤らみ始めた頃。

 桃井は買ってきた大量の挽肉と玉ねぎをハンバーグとしてこね終え、それらをステンレス製のバットに並べ、冷蔵庫に入れた。


 本当なら焼くつもりだったのだが、その前に不死美に声をかけられたのだ。

「桃井さん。原稿が仕上がりましたわ」


 完成した原稿を確認しに仕事場へ行くと、そこには全てを出し尽くして作業机に突っ伏す大斗と、いつもと変わらない様子の不死美。そして完成した原稿があった。どうやら大斗は寝てしまっているようだった。


「……拝見させて頂きます」

 桃井は私情に惑わされる事なく、編集者として原稿のチェックを全うしようと自分に言い聞かせながら、努力の結晶であるその原稿に目を通した。  


「……」

 全ての原稿を確認し、その全てに文句のつけようのない出来栄えに桃井は息を飲んだ。

(……すごい……!)

 大斗の仕事の背後に見える不死美の仕事。漫画編集者としての目がそれらを見分けるが、その全てが丁寧かつ美しい。

 大斗が持つ繊細だが大胆な作風を、不死美が見事にサポートしているようだった。桃井はそこにアシスタントというよりも『パートナー』という意味深な言葉を思い浮かべてしまう。


「如何でしょうか」

 不死美の問いかけに、桃井の肩が跳ねる。

 何に怯えたのか、何に怖気おぞけを覚えたのかわからないが、桃井は不死美に脅威を感じていた。

 彼女の漫画技術の不自然にも思える程の高さに依るところもあるが、それは『女』としての得体の知れなさゆえでもある。そこに桃井は何故か悔しさを覚えていた。


「……問題ありません。確かに頂戴いたしました。お疲れ様でした」

 その言葉に不死美は微笑んでお辞儀し、眠る大斗をちらりと見やり、苦笑した。

「随分お疲れのご様子でしたから」

 そして彼女は不意に壁に掛けてある時計を一瞥し、呟いた。

「締切には間に合いますか?」


 そうだ、忘れていたわけではないが、締切は今日。今から本社に戻れば十分に間に合う時間だ。

 しかし、決して余裕があるわけではない。少なくとも、料理をするほどの余裕はない。ましてや、食事をしていく時間など。


「……はい。間に合います」

「そうですか。それは何よりですわ」

 そういうと不死美はゆっくりと立ち上がり、再び桃井に向き合った。

「それでは、わたくしはこれから所用がありますので、失礼させて頂きます」

「え?」


 桃井の「え?」は、2つの意味があった。

 1つは突然不死美が帰ると言い出したことと、もう1つは突然その場に知らない人物が現れたからだ。


 音もなく、本当に突然その場に現れたのは若い女性だった。

 子供と言うには大人びていて、大人と言うにはまだ若い。

 年齢について、彼女に対する桃井の第一印象は20歳前はたちまえといったところだった。


(なにこの子……めちゃくちゃ可愛い……)

 その少女をひと目見て桃井は戦慄した。

 決して痩せているわけではないスラリとした体型と、アイドルのように整った顔に煌めくメタルフレームのメガネが知的な印象の美少女だった。


 そしてなにより彼女を印象的にしているのがその『赤い髪』だった。まるでアニメから飛び出てきたような美しい赤髪が、彼女を人間離れした存在に感じさせた。


「不死美様。お迎えに上がりました」

 赤髪少女の凛とした声。その口調、その言葉から、彼女が不死美に仕える存在であることが窺える。

「ご苦労様です。レレ」


 レレと呼ばれた女性は視線だけ桃井に向けた。鋭い視線だった。それを察した不死美はその警戒を解きほぐすように微笑んで言った。


「こちらは大斗さんの担当編集者をなさっている、桃井さんです」

 唐突に紹介されて焦った桃井は我に返った様に立ち上がり、無意識に取引先で挨拶をするように名刺を差し出していた。

「も、桃井みつきです。よろしくおねがいします」

 するとレレは表情を変えることはなかったが、差し出された名刺を両手で丁寧に受け取り、頭を下げた。

「申し遅れました。私は平山家使用人、レレと申します。以後お見知りおき願います」

「使用人? 使用人って……不死美さん、あなた一体何者なんですか?」

 桃井が驚いていると、レレはほんの少しだけ語気を強めた。


「何者か、とは失礼な方ですね。平山不死美様と言えばカルラコルムにその名を轟かせる最強にして最高、絶対唯一、至高の大魔法使い! 私はその不死美様のほうきとして……」

 と、そこでレレの言葉が止まった。不死美が微笑みつつ、口元に人差し指をピンと立てて『それ以上は言うな』と言う仕草をしていることに気づいたのだ。

「し、失礼しました……」


 さっきまでの鋭い雰囲気はどこへやら。レレは注意された子供のように耳まで赤くして、しゅんとしてしまった。

 その変化と、『ご主人様のために背伸びして頑張ってる感』に、桃井は図らずも萌えた。


「魔法使い……?」

 桃井が首をかしげると、不死美がゆったりと笑った。色気のある、まさに艶笑だった。

「そう。わたくしは魔法使いなのです。ありとあらゆる奇跡を操り、どんな願いも思うがまま……」


 ゆらりと立ち上がり、ゆっくりとその豊満な体を桃井に近づけていく不死美。

「ちょ、不死美さん……?」

「恋も愛も情欲さえも思うがまま。その愛欲に男女の区別は無くてよ、桃井さん……」

 不死美の潤んだ瞳と唇が桃井を求めて蠢いているようだ。そして、その距離が段々と近づいていく。

「あ、あの不死美さん……?」

「……怖がらないでくださいまし。どうか、わたくしに全てをお委ねくださいまし……」


 ヤバい。

 桃井の全神経が警報アラームを鳴らすが、何故か抵抗できない。越えてはいけない一線を間近で見るような心持ちに、桃井の心の中で恐怖と、その逆の悦楽が同時に膨らんでいく。


「愛らしくてよ、桃井さん。さぁ、あなたもわたくしのものにおなりなさい……」

 不死美の甘い吐息が桃井の唇をくすぐり、それをきっかけに悦楽が爆発的に肥大。

「ふ、不死美さん……」

 桃井の理性が崩壊していく……


「ごほん!」


 レレのわざとらしい咳払いが不死美の唇を止めた。

「……不死美様。そろそろお出にならないと約束の時刻に間に合いませんが」

 ふくれっ面のレレが、どこかぶっきらぼうに言う。

「……あら、時間切れですか。残念残念」

 不死美は微笑みをたたえたまま桃井から離れたが、桃井はまさに解放された心持ちだった。

「御免なさいね、桃井さん。あなたがあまりに可愛らしくて、つい。冗談が過ぎました」

「か、からかわないでください……」


 桃井は大した抗議も出来ずにその場にへたり込むようにして崩れ落ちた。全身から力が抜けて、思うように動けない。

「さあさあ、不死美様。参りましょう!」

 レレは頬を膨らせたままだ。

「あら、レレ。怒っているのですか?」

「怒ってません」

 くるりと振り向き、不死美に背を向けてしまうレレ。

「……やきもちを妬いているのですか?」

「妬いてません」

「そんなあなたも可愛くてよ、レレ」

「……(きゅんっ)」


 桃井は恍惚としたレレの顔と、潤みまくるその瞳を見逃さなかった。


 その時、不意に桃井のスマホが鳴った。メールの受信だった。

「……えっ?」

 画面を見るなり上がった桃井の悲鳴にも似た声。レレと不死美の視線が桃井に集中する。

「如何いたしましたか?」

「締切が少し早まるそうです。まいったな、すぐにでも帰らないと……でも、大斗さんをこのままにはしとけないしなぁ」

 時計と大斗を交互に眺める桃井。しかし不死美は構うことなく部屋の出入り口へと向かった。


「ご心配無く、桃井さん。まもなく国友さんがご帰宅されます。リューさんもその後に続いて。それと、こんな事もあろうかと予め帰りのタクシーを手配しておきました」

「……はい?」

 いきなり何を言い出すのかと唖然とする桃井を素通りするように不死美はにっこり微笑む。

「それでは桃井さん。ごきげんよう」

 レレも姿勢を正し、丁寧にお辞儀をした。

「失礼します」

 そして二人とも仕事部屋を後にしてしまった。


「……は? ちょ、ちょっと待って下さい! どういうことですか??」

 桃井は未だに脱力が残る両足を踏ん張って二人を追い掛けるが、すでに姿がない。

(居ない? なんで?)

 ふたりとも今出ていったばかりだ。小走りでもしないとこんなことは有り得ないが、あの二人が小走りをする姿は想像できない。

(……消えた?)

 そんな非科学的な考えが彼女の脳裏をかすめたその時。

「だだいまー」

 と、アキの声が玄関に響いた。


 桃井の全身が泡立つ。それは寒気に近かった。不死美が言い残したとおりではないか。


 彼女は震える足に鞭を打ち、玄関へと走る。

「アキくん!!」

「わ! 桃井さん!! まだ居た……じゃなくて、まだ仕事中ですか??」

「不死美さんは? レレさんは??」

「……不死美さん? と、誰さん?」

 わけのわからないという顔で焦るアキ。桃井の様子は尋常では無かった。

「い、今、不死美さんが出ていかなかった? あと、赤い髪の女の子も!」

「い、いえ? 誰もいませんでしたけど……」

「……嘘でしょ??」


 茫然自失の桃井。そんな彼女を現実に引き戻すように、スラックスのポケットから細かな振動と音楽が鳴り響いた。スマホに着信があったのだ。編集部からだ。今度はメールではなく、通話だった。


「もしもし? ……はい。先程メールを見ました。原稿は大丈夫です。でも、帰社は……はい。出来るだけ早く帰ります。失礼します」


 電話を切り、桃井は目を瞑った。

(まずいな……間に合わないかも。今からタクシー呼んでもどのくらいかかるかわからないし……)

 不死美たちの事は気になるが、今は仕事のことを最優先に考えるべきだ。でなければ折角の原稿が無駄になる。


 桃井の普通ではない焦り方というか慌てぶりに恐怖すら感じているアキ。ひたすら騒いだ挙げ句、今度は黙りこくって考え込む彼女に不安を覚えた。

「あの、その〜、お取り込み中申し訳ないんですが桃井さん」

 沈思する桃井を刺激しないように、恐る恐るアキが声をかけた。

「な、何? アキくん」

「タクシー呼びました?」

「は?」

 桃井は靴も履かずに玄関を出て、門の方に向かって目を細めた。すると、そこにはタクシーが停車していたのだ。

(……うそ、でしょ……!)


 さっきから明らか過ぎに様子がおかしい桃井に、アキはもはやビビっていた。

(よっぽど修羅場だったのかな……大斗さんが生きてる気配無いし……)

 するとタクシーから中年の運転手が顔を出し、手を振っている。

「あのー。桃井さんって人、居ます〜?」

「は、はい! 私です!」

 

 理由はどうあれ、タクシーが居るのは事実。今から出発すれば間に合う確率は格段に上がる!

 桃井は慌てて仕事部屋に戻り、原稿と荷物をまとめ、大斗の寝顔をじっと見つめた。

(……お疲れ様でした。失礼します)

 様々な思いを胸に仕舞い込み、彼女は玄関まで走り、急いで靴を履く。

「じゃあねアキくん、いろいろほったらかしでごめんなさい。リューちゃんにもよろしくね」

「は、はい。さようなら……」


 そして門まで突っ走る桃井。しかし、直ぐに急停止した。

「り、リューちゃん!?」

「桃井さん!? どうして……」

 学校から帰宅したリューとばったり鉢合わせたのだ。


 桃井は絶句した。

(全部、不死美さんの言うとおり……)


 青ざめる桃井。そんな桃井に追い打ちをかけるように、リューは視線を戸惑わせながら口を開いた。

「どうして、あなたがここにいるんですか……」


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