第60話 鬼《オーガ》と呼ばれた女
あの丸焼き、肉は猪だった。
内蔵を取った腹の中に野菜を詰め、炭火で炙ること数時間。塗り込んだ塩とスパイスが絶妙に効いて、美味なる事この上なしの絶品だった。
「うまい! めちゃくちゃ美味いです!」
「ふっふっふ。私の得意料理だからね。朝からじっくり焼いた甲斐があったわ」
皮はカリカリ、肉はジューシー。香味野菜の香りが食欲を引き立て、森の中というロケーションの良さが美味をさらに引き立てる。
「たくさんあるから、ゆっくり食べなさいな」
「ありがとうございます、蓬莱さん!」
「常世、でいいわ。アキくん」
常世はもりもりと食べまくるアキを母親のような優しい眼差しでみつめていた。
(常世さん、マジで美人だな……虎子といい勝負かも)
そんな美人に見つめられていてはアキもなんだか落ち着かない。それを知ってか知らずか、常世は視線をアキから外し、そっと語りかけるように口を開いた。
「あなたも大変だったわね。お父様の事もそうだけど、環境の変化は堪えたんじゃない? 仁恵之里の生活にはもう慣れた?」
「……はい。みんな良くしてくれるし、有馬会長も俺を武人会の一員にしてくれました」
「そうらしいわね。でもよかったの? 危険がないわけじゃないのに」
「俺、父さんが
常世はそれを聞いて、ゆっくりと咀嚼するように頷いた。
「そう。それは殊勝な心掛けね。立派だと思うわ。でも、武人会に籍を置くって事は、一筋縄では行かないわよ。それなりの覚悟を持たないといけないわ」
「覚悟、ですか」
「そうよ。そのためにもリューちゃんと勇次くんの試合をその目でしっかりと見ておきなさい。きっと武人としての覚悟がどんなものかが分かると思うから」
「知ってるんですか、試合の事……」
「ええ。虎子から聞いてるわ。勇次くんとリューちゃんが一悶着あったこともね」
「……そうですか」
「浮かない顔ね。心配なの? リューちゃんの事」
「それは……もちろんそうですけど、虎子の事もちょっと」
「……虎子?」
「はい。鬼頭との試合が決まってから虎子がたまに心配、というか……不安そうな顔をするんです。もしかしたら、リューが
すると常世は顎に手を当て、アキをじっくり観察する様な視線で言った。
「……あなたは敏感ね。でも、少し違うかな」
「え? どういうことですか?」
「虎子はリューちゃんの勝利を信じてるわ。それは間違いない。虎子が心配してるのは、もっと本質的な部分。つまり、リューちゃんそのものの事よ」
常世は赤く揺らめく木炭の炎を見つめ、まるで虎子のような表情でつづけた。
「本当はね、虎子はリューちゃんに普通の女の子のように生きてほしいのよ。普通に勉強して、普通に遊んで、普通に恋して……そんな普通の女の子にね。でも、それは出来ない。仁恵之里に生まれて、武人として生きていたら『普通』なんて夢のまた夢よ。そして、そうさせたのは虎子本人だから、虎子は葛藤しているのよ」
「虎子本人がそうさせた……?」
「九門九龍をリューちゃんに伝えたのは虎子よ。そしてその原動力は、お母さんの仇を討つっていう大義名分。それを与えたのも、虎子なのよ。虎子はそれをとても悔やんでる。『復讐』をリューちゃんの人生に組み込んでしまった自分を、今でも責めてる」
常世の表情は悲痛のそれだった。虎子の苦悩を自分の事のように感じているようだった。アキはそんな彼女を見ていられず、手元の皿に目を落として呟いた。
「それは……仕方ないんじゃないですか? お母さんの仇討ちってのは本当のことなんだし、それは虎子のせいじゃないと思います」
「私もそう言ったんだけどね。でも、虎子って昔から自分で全部背負い込みがちなのよ。何度もその件で話をしたり、相談を受けてるけど、やっぱりそれは変わらない。私のせいだ、私が悪いんだって……いつも自分一人で抱え込もうとする。ホントに昔から変わらないわ。頑固なのよ」
「虎子が悩みを相談? あんまり想像できないな……あの虎子が誰かに相談するなんて。常世さんって何者なんですか?」
「何者かって? まぁ、相談に関して言えば、私が虎子の先輩だからかな? 私ね、高校の時、虎子の一学年上だったのよ」
「ええ?!」
アキが突然慄いたので常世も肩を震わせた。
「何? 私、なにか変なこと言った?」
「い、いえ。そうじゃなくて、見えないなって」
「見えない? なにが?」
「虎子もそうだけど、なんていうか……実際の年齢よりずっと若々しいなって思って」
「あらぁ、お上手ね。おだてでも何も出ないわよ」
と言いつつ、常世は上機嫌でアキの皿に肉を大量に切り分けた。
「……虎子にとってリューちゃんは希望そのものなのよ。そのリューちゃんを守るためにも九門九龍は必要だった。でもそれはリューちゃんを危険にさらし、苦しめる事になるかもしれない。それでも虎子はリューちゃんに九門九龍を伝え切らなければならない。それが仁恵之里の武術家としての運命なの。虎子にとっても、リューちゃんにとってもね」
常世の表情は哀しげだ。リューと虎子の間には、自分の考えも及ばない程に複雑な想いが交錯しているのだろう。
「……たまに虎子が思い詰めたような顔する理由が、少しわかった気がします」
「さっきも言ったけど、虎子ってひとりで全部抱え込んで、なんとかしようって思っちゃうタイプだから、尚の事ね。誰か側で支えてくれる人でも居ればいいんだけどねぇ」
「例えば、
「ふふふ、そうね。……だけど、無理じゃないかな。虎子はそういう事から距離を置いてるから……」
アキはふと、留山との会話を思い出した。あのとき留山には内緒だと言われたが、常世には別にいいだろう。
高校の時の先輩なら、『その人物』のことを知っているかもしれない。
「あの、常世さん」
「なに?」
「
からん、と金属の鳴る甲高い音が静かな森に響いた。
常世が、手にしていた金属製の皿を地面に落とした音だった。
「……」
常世は皿を落とした事など気にもとめず、呆然としている様子だった。
何か言ってはいけない事でも言ってしまったのかと、アキは少しだけ焦った。
「こ、高校が一緒なら、もしかして知ってるかなって思っただけで……だって、さっき常世さんも俺の顔見て言ったじゃないですか、『瓜二つ』だって。それって、蓮角さんの事でしょ? だから、知ってるのかなって……」
「……どうして藍之丞さんの事を、あなたが知ってるの……?」
「う、裏さんに聞いたんです。虎子には昔、恋人的な人がいて、その人と俺がそっくりだって……」
「裏? それってまさか……」
「裏留山さんです」
その名を聞いた途端、常世は突然アキに飛び掛かった。
「えっ!? うわっ?!」
それは比喩でもなんでもなく、本当に瞬きの間の出来事だった。
アキはその場で取り押さえられるようにして組み伏された。常世は彼の腕を背中側に回して肘と肩の関節を極めて体の自由を奪ったのだ。
アキにとって、それは抵抗する間も、それを考える時間も無い、一瞬の出来事だった。
(な、なんつー
背中に乗りかかられるように地面に押し付けられるアキ。必死にもがくが、それは抵抗らしい抵抗にもなりはしない無駄な努力だった。
常世の母性を感じさせる優しげな表情とは真逆の、まさに鬼のような腕力に全く抗うことができない。
「裏留山と繋がっているのか! 貴様!!」
常世は鬼の形相で叫んだ。さっきまでとはまるで別人だ。
「ち、違います!俺はただ、そういう話を聞いただけですって!」
「話? まさか、定期的に連絡をとっているのか!?」
ジャキン、と鋭い音がした。そしてこめかみにあてがわれたのは大型の拳銃だった。さっきの鋭い金属音は銃のスライドを引く音だったのだ。
(なんで
「答えろ! さもないと……!」
生きた心地がしなかった。が、とりあえず死にたくない。とにかく落ち着け落ち着けと、アキは自分に言い聞かせる。
「常世さん、聞いてください! 裏さんとはこの前の武人会議の時に初めて知り合いました! 父さんと面識があったとかで……だから、俺は別にやましいことなんてしてないですし、余計な事も何も喋ってません! そもそも俺が裏さんに何か得になるような情報、もってるわけないでしょ!?」
「……まぁ、それもそうね」
常世は驚くほどすんなりとアキを開放し、何事もなかったかのように拳銃を左脇のホルスターに仕舞った。
「ごめんねアキくん。つい興奮しちゃった」
ぺろりと舌を出す常世。真剣に殺されるかと思ったアキはその落差に背筋が凍る。
「い、いえ……大丈夫です」
「裏留山の事になるとちょっとね……武人会議の時に不死美さんの代わりに留山が来てた事は知ってたわ。でも、そんな話までしてたなんてね。……あのクソ忌々しい髭野郎、余計な事をベラベラと……」
今なんか結構な暴言が聞こえたような気がしたが、アキは気のせいだと自分に言い聞かす。今はどんな理由にせよ、常世を刺激したくない……。
「アキくん、裏留山には十分注意してね。きっとあなたにはすごく友好的に近づいてきたとおもうけど、それを鵜呑みにしてはだめよ。彼は本当になにするかわからないから」
「は……はい」
アキ自身、正直なところ裏留山にはそれほど危険を感じていない。むしろ好意的にすら感じている。
しかし、虎子もそうだが皆が皆『留山には気をつけろ』と繰り返す。それが時折違和感というか、不愉快に思えることもある。
自分の感覚がおかしいのか、それとも虎子たちが神経質になりすぎているのか、いずれにしても今ここでそれを考えても仕方がないし、答えが出るわけでもないのでアキはその思考を一旦心の奥に仕舞い込んだ。
「それと、藍之助さんのことを虎子に話してはだめよ。きっと、辛い思いをすることだろうから」
「……裏さんにもそう釘を刺されました。藍之助さん、お亡くなりになったって……事故、とかですか?」
アキの問いに、常世は少しだけ俯き、小さく首を横に振った。
「違うわ」
その声色は冷たく、明瞭だった。
それ以上は話したくない。訊かないでほしい。むしろ、訊くな。
そう言われているようで、アキはもう何も言えなかった。
そんなアキの様子に気が付いて、常世は我に返ったような仕草で微笑んだ。しかし、それが取り繕ったものだということは間違いないだろう。
「……ところでアキくん、話は変わるんだけどさぁ」
「は、はい?」
唐突に、常世は値踏みをするような視線をアキに向けて言う。
「あなた、私の弟子にならない?」
「は?」
聞き間違いかと思ったが、常世は同じ言葉を繰り返した。
「弟子よ、弟子。あなたもう武人会の人間なのに、『何も』やってないんでしょ? 九門九龍に勧誘したけどきっぱり断られたって虎子が嘆いてたし。だったら私の弟子になりなさいよ。鍛えてあげるわ。あなた向いてる気がするのよね」
常世はハンドガンを構えてバン、と撃つ真似をした。
「で、弟子っていわれても……だいたい、なんの弟子なんですか?」
「銃突きつけられても割と落ち着いてたし、関節も柔らかくて筋肉もまあまあ……鍛えれば良い兵士になりそうね……」
「あの常世さん、聞いてます?」
「そうね、それがいいわ。いいわよねアキくん。そうと決まれば早速装備を揃えましょう。あなたライフルぐらい撃ったことあるわよね?」
「ご、ごちそうさまでした!」
「な! ちょっと待ちなさい! 止まらないと撃つわよ!!」
ヤバい空気を察知したアキは即座にその場を離脱! 一目散にその場を走り去った。
「……危険察知能力も中々、逃げ足も速い。あれはかなりの逸材かも。欲しいわぁ〜」
常世は走り去るアキの背中に銃口を向けながら、同時に熱い眼差しも向けたのだった。
………そしてその頃。
一之瀬家の台所では桃井がハンバーグを作るために挽肉をこねていた。
「なんで私こんな事してんだろ……」
とはいえ、それは彼女の意志でもあった。
なぜ彼女がハンバーグを作っているのかというと……。
「さあ大斗さん、もうひと頑張りですわ」
「さすが不死美さん! 仕事が早いしキレイだぜ!!」
そんなこんなで不死美の活躍で大斗の仕事は驚くほど捗り、このまま行けば締切には十分間に合うという状況となった。
大活躍の不死美。その不死美を心から信頼する大斗。ふたりの間に、自分の入り込む余地はない……いわゆる『冴羽さんと香さんの間に私の入る余地は無い状態』だ。
だが、だかしかし! 桃井は自分にも何かが出来ると証明したくて一番の得意料理であるハンバーグを作ることにしたのだった、が……。
(大斗さんに車借りて材料まで自腹で買ってきたのに、今更ながら存在証明の方向性が違ってる気がする……ッ!)
しかしこね始めた挽肉を途中で放置するわけにもいかず、桃井はひらすら肉をこね、小判型に整形していくのだった。
「ああ、私のバカ……わたしのバカ〜っ!」
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