第57話 これが私の担当編集者
稽古が終わり、時刻はもうすぐ正午。
そんな時、不意にリューの悲痛な叫びが上がった。
「えええ?! ど、どういうことですか?」
声の発信源はキッチンだった。リューは昼食の準備をするためにそこにいたのだが、あまりの大声にアキも虎子も慌ててキッチンへと向かうと、リューは
「はい、わかりました。すぐ行きます!」
リューが通話を終えると、虎子がすかさず駆け寄った。
「リュー、どうした? 何があった?」
「と、図書室が大変な事になっているそうです!」
「図書室? 学校のか?」
「はい。今日は清掃業者の方が図書室のカーペットの清掃をしてくれる日なんですけど、その業者の方が本棚を倒してしまったそうなんです。分類の複雑な棚で、その棚の並びは私しか把握してないんです」
「そうか、お前は今年度から図書委員長だったな。では、今の電話は他の図書委員か」
「ええ。今日は土曜日なので1年生の委員の方がひとりだけで……かなり滅茶苦茶になってるらしくて、泣いてました」
リューは一旦呼吸を整えるような間を置いて、顔を上げた。
「私、今すぐ学校へ行きます。お昼ご飯の用意は出来そうにありません……すみません」
リューは頭を下げるが、直ぐに虎子がそれを制した。
「昼飯の事など気にするな。それよりも早く学校へ行ってやれ。その1年生も不安だろう」
「はい! ありがとうございます! お姉ちゃん、アキくん! 行ってきます!」
リューはそう言うが早いか、最低限の荷物だけ持って家を飛び出して行った。
「リュー、2年なのに図書委員長なのか……普通3年生がやりそうなもんじゃね?」
アキはリューが図書委員長だったという事を今知ったのだが、そんなアキに虎子はやれやれといった風に肩をすくめた。
「リューは無類の本好きなんだよ。委員長にも自分から立候補したんだ。つーかお前、恋人の事を何も知らんとはけしからんなぁ」
「……え、は? 恋人?」
「ん、まだ付き合ってないのか?」
「な、ないよ! 何いってんだよ??」
「はっはっは! 冗談だよ冗談。はっはっは!」
さも楽しそうに笑う虎子。アキとしては面白くもなんともないが、変にうろたえるのも癪なので、敢えて平静を装う事にした。
「そ、それはそうと、昼飯どうするよ?」
「うむ。私は午後から春鬼と例の決闘について打ち合わせがあるから武人会本部へ行く用事がある。だから少し早く出掛けて、本部で昼飯をたかろうと思っている」
「お前がそういう事するからリューの心労が絶えないんじゃねーのかよ……」
虎子の傍若無人さに呆れつつ、その打ち合わせというのがリューと鬼頭勇次の決闘についてだろうと言うのは聞くまでもないだろう。
「なぁ、虎子。リューと鬼頭の事だけどさ……」
アキがそう言いかけたと同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。
「ん、誰か来たぞ」
虎子はアキの二の句をわざとかわすように玄関へと向かい、そこで戦慄を覚えた。
(なんだ?この殺気は……)
玄関の引き戸の向こうから凄まじい殺気を感じたのだ。虎子ですら警戒を余儀なくされる只ならない気配。
虎子は身構える……!
「……どなたかな?」
新手の刺客か、或いは鬼か、と臨戦態勢を整える虎子だったが、訪問者はある意味、刺客以上の存在だった。
「桃井です」
「……桃井さん?」
虎子は肩透かしを食らったような心持ちで引き戸を開けると、そこには正真正銘、桃井みつきが立っていた。
「こんにちは虎子さん。先生はお見えですか?」
「こ、こんにちは桃井さん。大斗か? 大斗は今……」
虎子は考えた。
(なぜ、今ここに桃井さんが?)
次の原稿の締切は来週だと大斗は言っていた。それなのに何故……。
というか、そもそも大斗の言う事などオカルト雑誌並の信憑性しかない。むしろそれを信じるほうがどうかしている……まさか、我々はとんでもないミスを犯してしまっていたのか!!
虎子の背筋が凍りつく。その凍りついた背中に、あの男の野太い声が響いた。
「おーい、昼飯まだぁ? お腹すいちゃったよぉ〜」
緊張感のまるでない声に、桃井の笑顔が張り付く。
「おーいリュー? メシメシ〜っつーか、いねぇのかぁ?」
昼前なのに寝間着姿の大斗。そんなダメ親父の重量を感じさせる足音が玄関の方へとやってくる。
「なあなあ虎子、リューは? 昼飯は?」
虎子は自分の顔が引きつっていくのをつぶさに感じ、目の前のうら若き女子が闇落ちしていく様を肌で感じていた。
「おい虎子ぉ、無視すんなよぉ〜って、なんだ? お客さんか……」
視線の先で闇のオーラを放つ、いるはずのない(と、大斗が勝手に思い込んでいた)人物の眼光に、大斗は石化してしまったかのように硬直した。
「先生、こんにちは」
そして邂逅してしまった桃井と大斗。
「も、桃井さん……なんで……」
「なんで? 締切、今日なんですけど」
「え? 来週じゃなかっ」
「今日なんですけど」
「来週じゃ」
「今日なんですけど」
「ら」
「今日なんですけど」
その瞬間、居間から窓ガラスが乱暴に開く音がした。そしてまさしく逃走といった感じの足音がして、それがすぐに遠くなっていく……。
その音と気配から察するに、修羅場確定を予感したアキが全力で屋外へと緊急脱出していったのだ。
(アキよ、見事な危機管理能力だ!)
「大斗! 死ぬなよ!!」
虎子も振り返ることなくその場を離脱。目の前の桃井をひらりと躱し、外へ出た。
「え?! お、おい虎子?!」
大斗の叫びを最後まで聞くことなく戸を閉め、施錠。そのままダッシュで逃げるのみ!
(できるだけ遠く……遠くへ!!)
閉めたはずの戸から吹き出す闇のオーラと大斗の絶叫に飲み込まれまいと、虎子は一之瀬家から離脱したのだった。
「……大斗、お前の事は決して忘れないぞ……!」
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