Report 2 術師界へ(4)

「悪いな、小田。何から何まで用意してもらって」


 風呂から上がった賢治は、イソマツにコットンのパジャマ上下と下着一式、そして布団を貸してもらった。


「いいって。あんな目に遭った後でこのくらいの労わりじゃ、お釣りが出るくらいだよ」


 イソマツの部屋は、六畳の和室だった。

 部屋の中はシンプルなインテリアだった。勉強机にマンガ本でいっぱいの本棚が二つ。服を引っ掛けるパイプハンガーに収納ボックス。ほかには、これといって目立つものはなかった。

 最初は空き部屋を拝借しようと考えていたのだが、イソマツが強く誘ったため、一緒の部屋で寝ることになった。

 賢治は正直なところ、ほとんど話したことがない相手と同じ部屋で寝るというのはどうかと考えた。だが着替えを貸してくれた恩もあるし、誘いに乗ることにした。

 賢治の方も友だちの家に泊まったことなどなかったため、何かしがの高揚感もあったのかもしれない。

 ――しかし、であった。


「ねーねー、なんだか修学旅行みたいだと思わない? まーでも僕、参加したことないからわかんないんだけどさぁ。ねぇ青梅くん、寝ちゃった?」


 イソマツが、賢治の腕を引っ張ってくっちゃべる。


(……そういや旅行とか林間学校とかでいたな。やたら話しかけて、人を寝かせないの。寝てるのに関わらず絡んでくるの。……まあ、オレは誰にも相手されなかったんだけど)


 賢治は寝始めて十分ちょっとで、早くもこの判断を後悔し始めてきた。


「なぁ、小田……」

「うん?」

「お前はなんで、汎人界こっちの学校に通っているんだ?」


 賢治は、そのことをさっきから不思議に思っていた。

 話によるとイソマツはサラマンダーの血を引いていて、〔バクチク〕という超能力を持っている。それなのにどうして、術師界で教育を受けずに汎人界の学校などに通っているのか。


「僕、あそこで見せた能力――〔バクチク〕しか使えないんだ」


 予想外の返答に、賢治は動揺した。


「……どういうことだ」

「小さい頃、頭に大怪我をしちゃってね。後遺症で、この能力以外の術を使うことができないんだ。ホラ、ここんとこ触ってみ」


 そういってイソマツは、頭を賢治の前に差し出した。

 手を伸ばして赤毛の中をさぐる。イソマツの髪の毛は柔らかくて気持ちがよかった。剛毛の癖っ毛である賢治は、少し羨ましいとさえ思った。


「あ、ホントだ」


 たしかに、右耳上8センチあたりのところが半月を描くように盛り上がっていた。


「……やっぱり、術師界で普通に魔術が使えないってのは、将来の選択肢が狭まるのか?」

「はっきり言ってそうだね。まともな魔導教育が受けられなるし、専門職の幅も狭まるから、給料が安くてきつい仕事とかにしか就けなくなるね。だから涼二先生の勧めもあって、五色高に通っているんだ」


 それからイソマツは「欧米の術師界みたいに、個性を認めるってワケにはいかないんだよね」ってつけ加えた。


「……ごめん。ヘンなこと訊いた」


 賢治はしょげた声で謝り、それきり黙ってしまった。


(「普通に」……少しでも他人と違う存在が排斥されてしまうのは、どの世界でも同じなのか。普通。普通ってなんだ。普通なんてのは自分で自覚するもので、他人に押し付けられたそれは既にその人の主観――「特殊」じゃないか。そんな曖昧な根拠で、他の人と同じことはできなくても異なる力や考え方を持っている存在を外側へ追いやるなんて、そんなこと理不尽すぎる……!)


「……ちょっと、¡Noノ・ pidasピダス disculpasディスクルパス! (謝らないでって!)」


 賢治が考え込んでいると、イソマツがやや慌てたようにそう言った。


「しんどい話をしてるときにしんどい顔をされると、余計につらくなっちゃうよ。僕は今の生活に満足しているからさ。

 そうだ! 趣味の話しよ! 青梅くん、いっつも本読んでいるよね」


 賢治は「ああ」と答えた。


「見た感じなんか硬そーなものばっかり読んでいるようだけど……やっぱり、リチャードソンの本?」


 賢治はこの手の質問が、結構苦手である。賢治の哲学の知識は、高校の倫理や世界史のレベルを完全に超えており、具体的なタイトルや著者の名前を出してもまずわかってもらえない・・・・・・・・・。そこで会話が止まってしまうのだ。

 賢治は、どう合いの手を打つべきか少し考えた。


「うーん……。まあリチャードソンだけじゃなく、哲学系の本いろいろ。小説とかも読んでる」

「どんなん読んでるの?」

「芥川龍之介、太宰治、星新一、ウェルズ、オーウェル、オー・ヘンリー、ポー……、短編が多いな」

「へえ。半分くらいは名前だけしか知らないなあ。僕ァ、そもそもあんまり本読まなくてさ。さっきポーって言ったけど、中二まで江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポーが違う人だって知らなかったくらいなんだ」

(……元ネタにするほど敬愛する作家と混同され、江戸川先生もさぞ光栄に思うやら、それとも困惑しているやら)

「あ。でも中一のときにさ、先生が買ってくれた『アホウドリのホナタン』っていう本は好きで何回も読んだな」

「70年代に世界中の若者の間で絶大な支持を受けたっていうラテンアメリカ文学か……。実はそれ、まだ読んでないんだ」

「青梅くんでも読んでない本あるんだ!」

(あたり前だろ。オレの頭は国立国会図書館につながっているわけじゃねえ)

「えーとね。ホナタンってアホウドリの一生を描いた物語なんだけど……。ホナタンはね、他の鳥みたいに速く飛べなくて強くもないアホウドリに生まれたのが、イヤで仕方がなかったんだ。だから、他のアホウドリがエサを獲ったり冬を越す支度をしているのに、ホナタンだけひたすら飛ぶ練習をして、鉤爪を磨いてばかりいた。それである日、他のアホウドリと衝突して群れから出てっちゃったんだ。それから、タカとかハヤブサとか他の鳥たちと手当たり次第にスピードとパワーで競う武者修行の旅に出るんだけど、毎回コテンパンにやられちゃうんだ。それですっかりやさぐれていた時にね、ザカリアスっていうおじいさんのアメリカヤマシギに出会うんだ。アメリカヤマシギは飛ぶのが滅茶苦茶遅いかわりに、踊りはすごく上手いんだ。それで踊りに見惚れていたホナタンは、ザカリアスに諭されるんだ。『ワシらに「踊り」があるように、ハヤブサのように速く飛べなくても、タカのように強くなれなくても、お前にはお前の取り柄があるだろう』って。それでホナタンは考え方を変えるんだ。『アホウドリの自分だけができる飛び方を探そう』って。そしたら、少しずつホナタンに個性豊かな仲間たちができるようになって……」


 賢治は、イソマツの話す『アホウドリのホナタン』のあらすじにじっと耳を傾けていた。

 こんな風に友だちが自分の好きな小説の話をしてくれる経験は、賢治にとってとても稀少なことだったからだ。

 あらすじを語り終えたイソマツは、少し気恥ずかしそうに笑ってこう言った。


「……僕はね。読み終えたとき、涙が出ちゃった。この世界に生きているものには、それぞれの個性があるんだよね。だから、他の人と比べて『自分はダメだ』なんて思うことはないんだ。自分の個性を大切にして、他人の取り柄を認めることができれば、互いに支え合いつつ生きていくことができるんだ、って――」

(ああ、そういうことか……)


 賢治は最初、熱っぽく語るイソマツの様子が奇異に映っていたが、さっきの話を思い返すと得心がいった。

 イソマツはこの本を読んだとき、小説の主人公に自分を重ねたのだ。みんなとは違う自分。術師界で生きてくための、普通の・・・魔術が使えない自分。そんなイソマツはホナタンの生き様を読んで、思うところがあったに違いない。


(……そういうのって重要だぜ、小田。自分の存在を、小説の中の世界観や登場人物に照らし合わせるっていう原体験は。たとえ内容の詳細を忘れても、そのときに感じたこと、学んだことは、絶対に忘れないからな)


「それでキリちゃんの趣味はねー、ゲームなんだ」

「ゲーム? あの人が?」

「見た目優等生っぽいし、実際優秀だからね。キリちゃんの通っている魔導学校の偏差値はたしか、74とか言ってたよ」

「な……74!? 平均値だよな? 全国の最大値は!?」

「83くらいだね。模試の全国ランクで一桁を取ったことも何度かあるよ」

(そしたら、そっちの世界でトップクラスってことじゃないか。母数が違うから単純に比較できないけれど、オレのダブルスコアに近いってことか……。かっくん)

「そういう人の趣味がゲームって、意外だな」

「そうかい? T大卒のプロゲーマーとかいるじゃない」

「そうか……」


 賢治は自分の無知さを恥じた。

 世界は自分が思うより広く、自分が如何に固定観念に囚われているのかを知った。


「そもそもキリちゃんがここに来たのってさ。グレて家出してゲーセンにいたところを、偶然涼二先生に保護されたからなんだよね」

「え、ちょっと待てよ。家出って、親には……」


 賢治はそこまで言いかけて、言葉を止めた。ある可能性を予見したからだ。


「僕もキリちゃんも孤児なんだ。現世ちゃんと同じ」

「……」

「キリちゃん、強い霊力を持っていたんだ。それで他の人には見えないものが見えて、ずっと親戚の家を転々としてそこで虐待ぎゃくたいされたり、学校でいじめられたりしてきたから、はじめは今以上にピリピリしててさ。ずっとひとりぼっちだったんだ。それで、現世ちゃんに優しくされたら実の妹のように――あ、これ言ったってバレたらキリちゃんに怒られちゃう! ナイショね」


 イソマツはウインクをしてそう言った。


「……大変なんだな、お前らも」


(こいつら三人は同じ屋根の下で暮らすみなしご・・・・同士、家族のような硬い絆が既に固まっているんだろうな。今日の戦いぶりを見ていればわかる。そんな中にオレという存在が入り込んでも、異物になるだけなんじゃないのか……)


「あーもー、だから話してる最中に考え込まないでって!」

「ご、ごめん」

「これから長い付き合いになるんだから、円滑なコミュニケーションをできるようにならなくっちゃ! ――あっ、Seセ・ meメ・ ocurrióオクリーオ・ unaウナ・ buena《ブエナ・》 ideaイデア!(いい事かんがえた!) それじゃね、まずは下の名前で呼び合うことから始めようよ」

「ええ? 何でそうなるんだよ」

「コミュニケーションが上手くなるには、まずフレンドリーな関係をつくることさ。だから、僕のことを小田じゃなくて『イソマツ』って呼んでよ。こっちも賢治くんって呼ぶからさ」


 賢治は迷った。

 今まで賢治は、下の名前で呼び合うような関係を作ったことがなかった。


「い、イソマツ……」


 しばらくの逡巡の末、軽く気恥ずかしそうにイソマツの名前を呼ぶ。


「――ZZZZZZZZ」

「……あ?」


 不審な息遣いに、まさかと思った賢治はがばりと起き上がる。

 そこには心地良い疲れに誘われ、気持ちよさそうな顔で熟睡しているイソマツの寝顔があった。


(……ありがとよ、イソマツ。他人ひとを寝かせないで先に寝るヤツが、マンガだけじゃなく現実にいるっていう、貴重な社会経験をさせてもらったぜ)


 賢治は、頬をひくひくとさせながら布団に入り直す。

 ボォーン、ボォーン……。

 遠くで時計の鳴る音がする。時刻は、もう0時を回っただろうか。

 賢治は、いやに寝付けなかった。泥のように疲れているはずなのに、精神が昂ぶって眠りに落ちることができない。


 ……ギシッ。


「!?」


 床がきしむ音。廊下に何かいる。音はだんだん大きくなる。――こちらに向っている!


 ……ギシ、ギシ。


(考えてみたら、ここは魔術師の家。よくある日本家屋で、もてなしのされ方もいたって普通で、オカルト的な現象を全然目にしなかったから油断していたけれど――何か人間でないものが、この家に居たっておかしくないんじゃないか? ありがちなところでは、しもべの妖精とか式神とか……)


 障子が開かれる。中に入ってきた。

 賢治の心臓は、はち切れんばかりに高鳴る。


 ……

 …………

 ………………


(足音が止んだ?)


「けーんーじー」

「ひいいいっ!」


 頭のすぐ上で、掠れ声。

 声にならない声をあげて、布団をがばりと跳ね上げる賢治。


「げ、げ、現世!? な、なんだよ、脅かすなよ!」

「ねむれないのだー」


 賢治の枕元に立っていたのは、パジャマの上に半纏はんてんを着た現世だった。


「はあ……。ちょっと、場所移すか」

 賢治は近くに畳んでおいた、風呂上りに羽織った半纏を着込んだ。




   ★


 二人以外誰も居ない茶の間は、少し肌寒かった。中央には『サザエさん』に出てくるような、大きな楕円の形をした卓袱台ちゃぶだいが置いてあり、いかにもといった雰囲気を醸しだしている。

 現世が湯飲みを二つ持ってくる。


「出がらしなのだ」


 それでも、温かいものがあるというだけでありがたかった。


「長い一日だったのだ……」

「そのなりで、ババくさい感想言うなよ……」

「ハハハ。だが賢治、私は正確な年齢が分からないのだから、実はお前より年上なのかもしれぬぞ。このなりで一万歳とかなのかもしれぬのだぞ?」


 それから「亀の甲より年の甲。おばあちゃんの知恵袋なのだ」と付け加えた。


「……なあ現世」

「む?」

「なりゆきでこんなことになっちゃったけど……。正直オレには、君の相棒でいる資格なんてないんじゃないかと思っている……」

「……何を言うのだ?」

「昼間も言ったけどオレ、あのとき本気でこのまま隠れていようかどうしようか迷ったんだ……。本当にゴメン、現世」

「……」

「だから、こんな情けなくて卑怯なオレは君に相応しくない――」


 現世は無言のまますっくと立ち上がる。

 そして、賢治の両頬をぎゅっとつまんだ。


「いっ――!?」


 予想外の行動に、賢治は戸惑った。

 現世は眉間に深い皺を寄せて、唇を尖らせながら、賢治の顔をつまみ続ける。


「いへっ、はひ、はひふんらへんへっ!」

「たわけたことをぬかすのは、この口なのだ?」


 それから、まっすぐ見つめ直して現世はこう言った。


「賢治は結局、逃げ出さなかったではないか」


「現世……」

「これでこの話はおしまいなのだ。もう二度と口にするでない」


 賢治は現世の高潔な態度を前にして、ただ感心するしかなかった。


(なんか……。出逢った時から、現世には諭されてばかりだな)


 スッ。賢治は、現世の前に右の拳を突き出す。


「……はは。さすがに一万歳のおばあちゃんの知恵袋は一味違うぜ」


 呼応するように現世もまた、拳を突き出した。


「おう、こちらこそよろしくな。十六歳児」


 二つの拳が、コツンとぶつかり合う。

 すると賢治は、その胸にたとえようもない優しい熱が宿るのを感じた。

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