第5話:運命の出会い
「昨日の今日の嵐の後じゃ流石に釣れないねえ」
岩の上から釣り糸を垂らしながら
足元では濁った水が白い泡を立てながら流れ、真っ赤な髪と褐色の肌が嵐の後で晴れ渡る陽光にキラキラと輝いている。
「まあ元々釣れないんだけどね」
そんなことを呟きながら釣り糸を引き上げる。
他に聞く相手がいないことは当の本人がよく分かっていた。
数百年という長い幽閉生活ですっかり独り言が癖になってしまっているのだ。
「今日も干し肉と山菜のスープかな……?」
その時、対岸の岩陰に何かが見えた気がした。
濁流の中に白い服のような塊が見える。
「嵐で流されてきた土左衛門かな?よっこいしょっと……」
イリスが釣竿を振りおろすと糸がするすると対岸まで伸びていった。
岩陰の白い塊に針が引っ掛かると糸が縮んでいき、イリスの元まで引っ張って行く。
「新鮮だったら食べられるか……」
引き上げたものを見てイリスは眉をひそめた。
「こいつは……?」
それは崖から落ちたルークだった。
血の気を失い真っ白な顔をして呼吸もしていない。
しかしイリスには別のものが見えていた。
ルークの胸の奥に尚も燃え盛る魔力の炎だ。
「……とんでもない拾い物をしたもんだね」
イリスは軽々とルークを担ぎ上げると飛ぶように岩の上を渡っていった。
◆
「う……」
目を覚ましたルークが初めて見たのはごつごつとした灰色の天井だった。
「ここは……」
ぼんやりとした頭であたりを見渡しながら身を起こす。
そこは家の中ではなく巨岩の隙間にできた洞窟だった。
後ろにある入り口から日の明かりが差し込んできている。
体の下にはふかふかの干し草が敷かれ、上には鞣した動物の毛皮がかけられている。
(誰かが助けてくれた……?)
そんなことを考えながら視線を下に移した時、その眼に自分の左腕が飛び込んできた。
包帯は巻かれているものの、肘の上からすっぱりとなくなっている。
その時ルークは自分に何が起きたのかはっきり思い出した。
暗殺者に狙われ、左目と左手を斬られて濁流の中へと落ちていったのだ。
「うぐっ……」
唐突に襲ってきた吐き気をなんとか堪える。
命を狙われた、それも実の叔父に。
その事実が実態を持った闇のような現実感となってルークを押しつぶそうとしていた。
「ぐ……ぐぐ……ううううう……」
堪えようとしても涙が零れ落ちてくる。
理不尽な扱いは今まで何度も受けてきたし堪えてきたが、今回ばかりは無理だった。
身を折り曲げ、体を震わせてルークは泣いた。
「お、目を覚ましたんだ」
入り口から声が聞こえた。
目をこすりながら振り返ると逆光の中に立つ影が見えた。
「腹減ったろ。今準備するから待ってろよ」
そう言いながら洞窟の中に入ってきたのはこの世のものとは思えないくらい美しい女性だった。
豊かに波打つ燃えるような赤い髪、褐色の肌、髪の色よりも濃い深紅の双眸が彫像のように整った顔の真ん中で煌めいている。
額の両端からは牛のように緩く曲がった角が突き出している。
明らかに人間ではなかった。
「あ……あなたが僕を助けてくれたのですか?あなたは一体?」
「あたしの名前はイリスってんだ。確かにあんたを助けたのはあたしってことになるかな。それにしても大変だったんだぜ?なんせあんたは心臓が止まってたんだから。あと数秒遅かったらあの世に行っていたかもな」
イリスはカラカラと笑いながら器用に兎の皮をむいていく。
「あ、ありがとうございます。僕の名前はルークといいます。本当になんてお礼を言っていいのか……」
「良いって良いって、久しぶりの客だから大歓迎さ。なんせここに人が来るのは800年ぶりだからね」
「800年?」
ルークはその言葉に耳を疑った。
イリスと名乗る女性はとてもそんな年齢には見えない。
どうみても二十代中盤、下手したらそれよりも若いくらいだ。
同時に800年とイリスという名前に何か引っかかるものを感じてもいた。
確か……学園で歴史書を読み漁っていた時に見た記憶が……
「まさか……あなたは
「おやよく知ってるね。まだ若いのにずいぶんと勉強熱心じゃないか」
驚くルークにイリスが笑顔を向ける。
「まさか……あなたがあのイリスのわけが……」
ルークにはとても信じられなかった。
イリスと言えば800年前に時の大帝国を混乱に陥れた末に封印されたと言われる魔神の名前だ。
「ま、信じられないのもわかるよ。んじゃま、ちょっと証拠を見せてあげようかな」
イリスはそう言うと天井に手を向けた。
同時に重い音と共に周囲の巨岩が浮かび上がっていく。
「こ……これは……?」
今や全長十数メートルはあろうかという巨岩がまるで風船のように幾つもルークの周りに浮かんでいた。
「そろそろ模様替えしようと思ってたんだよねえ」
イリスの言葉と共に巨岩が次々と割れていった。
四角く割れた巨岩が積み木のように重なり、みるみるうちに小さな家へと変わっていく。
ルークは完全に言葉を失っていた。
その力は完全に人間に使える魔法の範疇を超えていた。
ルークその光景を見ながら学園の講義で聞いた話を思い出していた。
この世界の隣には人間には感知できない世界があると言われている。
その世界は魔法があらゆる理となっていて魔法を使うのに必要な魔素もその世界から来ているのだという。
そして魔神もその世界からこちらに来たのだと考えられていた。
魔神の力は人知を遥かに超え、一晩で巨大な城を築き上げた、山を真っ二つに斬り裂いた、砂漠に三日三晩雨を降らせ続けたなど、様々な伝承として残っている。
そしてその中でも最強の魔神と呼ばれていたのがイリスだ。
その力は絶大で性質は傍若無人、神をも恐れぬ態度に人々はその名を口にすることすら恐れ、
様々な悪行に困り果てた大帝国が全国力を傾けて遂に封印に成功したものの、そのせいで国が傾き今ある幾つもの王国に別れたのだと言われている。
そのイリスがこうしてここにいるというのは俄かには信じられないことだったが、目の前の光景を見てしまうと信じるよりほかになかった。
「どう?これで信じた?」
「は……はい」
ルークにはそう返すのが精一杯だった。
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