38. なつなんです

「今、キザキナツのこと話してました?」

 ひかるはバスタオルで適当に頭を拭きながら沿島たちの会話に加わってきた。

「ぼくもだいたい沿島くんと同意見で、嗣形さんはこのペンションにキザキナツを隠していると思います。まあ、先生は確証がないとおっしゃるかもしれませんが、キザキナツでないとしても嗣形さんが誰かを隠しているのは間違いないですし。先生はどう思われます?」

 白澤は関心なさげにひかると沿島の顔を見やり、低い声で言う。

「おまえたちの主張はわかった。だが、それでおまえたちはどうしたいんだ? 誘拐されたとキザキナツ人物がこのペンションに監禁されている、などと警察へ言いにいくつもりか? おまえは警察がそんなことに取り合ってくれるほど暇だとでも思っているのか、沿島」

「いや、それは……」

 口ごもる沿島を尻目に、白澤は布団へ寝転がった。

「わたしは眠いんだ。おまえたちもとっとと寝ろ。明日もまだその話をわたしに聞かせるつもりでいるなら、確たる証拠を得てからにしろ」

 そしてすぐにまぶたを閉じてしまう。ひかるは肩をすくめ「とりあえずお風呂入ってきなよ」と沿島に笑いかけた。

 浴槽には湯が溜められていたが、沿島はどうにも浸かる気になれなかった。軽くシャワーを浴びつつ目をつぶったとき、ふと彼の脳裏をポスターの中のキザキナツがよぎった。ここで何度か見かけた姿と同じく、こちらに顔を向けているようでありながら、どこをも見ていないようでもある。ぼんやりと靄がかかったように、その表情の細部は判然としない。

 そういえば、あのポスターを貼り出しているのは誰なのだろうか。もちろん家族か近しい間柄の人間だろうとは思うが、それにしてはなんだか妙であるような気もする。その感覚の理由について思考を巡らせようとした瞬間、浴室の扉が数回ノックされ、ひかるの声がした。

「沿島くん、寝ちゃってない? 大丈夫?」

「は、はい! すいません、大丈夫です」

 かなりの間シャワーの水を出しっぱなしにしていることが気にかかったのだろう。沿島は考えることをやめ、手早く体を洗って浴室を出た。

 部屋はすでに消灯されており、入口の扉の横に設置された小さな照明だけが薄明かりを放っている。沿島はできるだけ足音を立てないようにして歩き、部屋の隅の空いている布団にもぐり込んだ。隣の布団にいるひかるが、ちらりと沿島を見て「また明日考えようか」と小声で言う。

「そうですね。……おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 あくまで普段と同じような調子で挨拶を交わしたものの、真相を明らかにできないままで東京へ帰ることになるのではないか、という危惧はどちらの顔にも表れていた。

 しかし、そんな彼らの懸念をよそに、翌朝早く事態は動いた。

 午前五時、突如として鳴り響いた火災報知器の大音声に飛び起きた沿島、白澤、ひかるの三人が目にしたのは、呆然とした顔のみことが吸いかけの煙草を手にトイレから出てくる姿であった。

「なしたの……兄さん」

 声にならない声でそうつぶやいたひかるに、みことはしどろもどろの説明をする。二日酔いで回らない頭がここを自宅と勘違いし、普段のように煙草に火をつけたところ、その煙が火災報知器のセンサーに届いてしまったのだそうだ。

 状況を把握した白澤が苦言を呈しかけたとき、廊下のほうから激しい足音が聞こえてきたかと思うと、部屋の扉が勢いよく開いた。顔面蒼白の嗣形と、その後ろには髪の長い人物の姿があった。嗣形は室内を見回し、その目にみことの持つ煙草をとらえた瞬間「ああ」とも「おお」ともつかない声をあげて床にへたり込んだ。

「嗣形さん、誰ですか、その人……」

 うなだれる彼におそるおそるそう問いかけたのは沿島だった。嗣形は絞り出すような声で答えた。

「……私の甥です。……城崎キザキ奈津ナツといいます」

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