第74話
☆☆☆
不意に梓の視界は回転して廊下につっ立っていた。
キュッキュッと上靴で歩く足音が上の方で聞こえている。
梓は自分の意思とは関係なく、階段を上がり始めた。
そこで初めて自分がズボンをはいていて、男子生徒になっていることに気がついた。
(これってもしかして、厚彦の追体験……!?)
気がついた瞬間、火がついたように恥ずかしくなった。
自分は今好きな人と同じ体に入っていて、同じ体験をしているのだ。
それは通常の人なら絶対に体験できることではない。
梓は自分の心臓の早さを、この頃の厚彦に感づかれるのではと不安になった。
だって、それくらい早鐘を打っていたから。
どれだけ緊張しても追体験は終わらない。
厚彦は階段を上り、そこで足を止めた。
視界に入ったのは大きなダンボールを抱きしめるようにして運んでいる、ひとりの女子生徒だった。
その瞬間、梓は気がついてしまった。
これはたぶん、厚彦の好きな子だ。
この子へ告白することで厚彦は成仏できる。
そう思うと、チクリと胸が痛んだ。
厚彦は心配そうに女子生徒を視線で追いかけている。
(好きな子がいるのに、どうしてあたしの前に現れたの?)
梓の気持ちに関係なく、厚彦の足が女子生徒へと近づいていく。
(最初から、その子のそばに現れればよかったじゃん)
厚彦が女子生徒に声をかける。
(もう、いや……!)
思いっきり目を瞑りたいけれど、それも許されない。
追体験は残酷に梓に真実を伝えてくる。
厚彦は女子生徒からダンボールを奪うようにして、受け取った。
その影から出てきた女子生徒は驚いたように目を丸くする……梓だったのだ。
(え、あたし!?)
「これだけの荷物を一気に運ぶなんて無謀だなぁ。誰か手伝ってくれなかったのかよ」
厚彦は呆れた声を出している。
過去の梓は照れ笑いを浮かべて「ごめんね。ありがとう」とほほ笑む。
その瞬間、梓は自分の中にも同じ記憶があることを思い出していた。
(そうだった。これは確か1年生のころのことだ)
先生から頼まれた教材を教室まで運んでいた梓だが、まさかここまで重たいとは思っていなかったのだ。
厚彦の言うように無謀だった。
重たすぎて、ちょっとどうしようかと悩んでいた時に声をかけてくれた男子生徒がいる。
それが、厚彦だったのだ……。
(でも、厚彦とあたしは別のクラスなのに)
厚彦は教材を梓のクラスに運ぶと、そのまま自分のクラスへ戻って行った。
「今の子可愛かったなぁ」
呟く声に、中にいる梓はまた顔が赤くなった。
もしかして、厚彦はこの頃から自分のことを?
軽く期待しながらも1年生のころの接点はただそれだけだった。
すぐに忘れてしまうような記憶。
現に梓はあの出来事をすっかり忘れてしまっていた。
そして2年生に上がったとき……。
「ラッキー。広中さんと同じクラスじゃん」
クラス票を確認した厚彦が呼び跳ねて喜んでいる。
(厚彦はあの日のこと、忘れてなかったんだ……)
ジワリと胸に暖かな感情があふれ出した。
厚彦がずっと自分の存在を認識して、好意を抱いてくれていたということが嬉しくてたまらなかった。
それからの厚彦はどうにか梓に近づこうと必死だった。
どう声をかけようか。
どうやって仲良くなろうか。
教室内でムードメーカーの役割をしていたから、きっと向こうも自分のことを認識してくれているはずだ。
簡単に声をかけてもきっと大丈夫。
仲良くなってそれから距離を縮めて、告白をして。
そんな思いを募られていたある日のことだった。
親に頼まれてお弁当に入れる卵を買いに出かけた。
夜だったけれど、自転車で1分ほどの場所にあるコンビニまでた。
厚彦は男の子だし、もう高校生だし、そのくらいの頼みごとはいつものことだった。
言われたとおり卵を買い、ついでに夜食にするお菓子を買ってレジを済ませた。
後は帰るだけ。
自転車に乗って横断歩道が青に変わるのを待つ。
ここを渡れば家はすぐ目の前だった。
赤信号が終わり、青が光る。
ペダルを踏みしめる足。
買い物袋が籠の中でカサカサと音を立てた。
そうだ、帰ったら録画していたアニメを見よう。
そんなことを考えた瞬間だった、スピードを出したままの乗用車が厚彦めがけて突っ込んできたのだ。
すべては一瞬の出来事だった。
自転車ごと跳ね飛ばされた厚彦。
空中に高く舞い上がる体。
空中でクルリと反転し、厚彦はコンクリートに叩きつけられた。
体の中から複数の骨が折れる嫌な音が聞こえる。
自転車はグニャリと曲がり、買い物袋から卵がはみ出していた。
殻は割れ、黄身が飛び出しているのがわかった。
(あぁ……怒られるなぁ)
ぼんやりとそんなことを考えた後、厚彦の意識は消えた。
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