大切な傷に

 俺は洗面所にて悶々とした思いを抱えながら、パーカーの裾に手をかけていた。ツカサはすでにすべてを脱ぎ捨てて、風呂場で身体を洗っている。蛇口をひねる音がして、シャワーが流れ始めた。


 ツカサは今朝のように迫ったりはしないと言っていた。ツカサはくだらないことで俺をおちょくるのは大好きだが、自分から言い出したことを翻すような人間ではない。


(けれど、それとは違う不安感があるというか……)


 一緒に風呂に入ろうと提案してきたときのツカサの様子を思い出す。どこか思い詰めていて、いたいけに見えた。


(ツカサは何か無理をしているんだろうか)

 

 風呂場の中のシャワーの音が止まった。いつまでも洗面所で突っ立っている場合ではない。

 

(ツカサもそろそろ湯船に入るだろうから、俺もいいかげん行くべきだ)


 目を閉じ息を止めて、インナーごとパーカーを脱ぐ。それから、ベルトの剣先に手を伸ばした。この先に何が待ち受けているのだろうという若干の不安はまだある。それでも、ツカサとかわした約束は守りたかった。

 

 

 

 中折れドアを開くと、浴室に籠もった湯気が洗面所へ抜けていった。

 

「やっとかよ、祐護さん」

 

 全身を洗い終えたツカサは湯船に入らずに、白いタイル張りの洗い場に立ったまま、薄い湯気を纏って俺を待ち構えていた。胸から腹に連なる、無数の小さな傷跡を指さして、うっすらと微笑んでいる。ツカサの頬も、傷跡も、熱を帯びたみたいに朱色に染まっていた。

 

「あのさ、俺の傷に触ってよ」


 この痛々しい傷は過去にツカサが交通事故に遭った際に、ガラス片やコンクリート片が刺さってできたものらしい。事故に遭ったときの話をするツカサの表情は怯えていた。それでも自分の身体を抱きしめて、泣かないように我慢して。泣いてもいいよという思いを込めて俺が頭を撫でたら、ツカサは涙ぐんだ目で俺を見上げたが、決して泣かなかった。

 

(そんな繊細な傷に、俺が触って良いのか……?)


 意図せずともツカサを傷つけたり不安にさせたり、自分の都合で近づけたり遠ざけたりしている俺が。乞われたからといってツカサが大切に抱える傷に簡単に触れてしまって良いのか。


 過去のことだって、それ以上聞こうとしなかったくせに。

 

「……いいのか?」


 正直に口にする。俺の質問に対して、ツカサは首を縦にも横にも振らなかった。代わりに俺の右手を取って、自分の胸の傷に強く押し当てた。縫い合わされた肉が盛り上がっているのが伝わるほど、俺の手のひらとツカサの傷だらけの胸が密着する。


(暖かい。心音までしっかりと感じ取れる。とても力強くて、早い)


 ツカサは泣きそうな笑顔でまっすぐ俺を見上げてくる。潤んだ瞳と、手のひらから伝わるすべてに、俺の心臓もドクドクと動きを早めた。

 

「祐護さんにこそ、触ってほしかった」


 まだ一緒に風呂に入っていた頃、ふざけて洗いっこに発展したときも、傷だけはツカサが自分で洗うよう言い聞かせていた。どう触れて良いのか、わからなかったから。


「それがツカサの気持ちなのか?」


「うん。ずっと、そう思ってた」

 

 そんな傷に人生で初めて触れた俺は、無性に彼を愛しく思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る