第52話

「レト、その、まただ」


「え?あら本当ね。悪いんだけどヨナ?また、頼まれてくれるかしら?」


「わかった」


ヨナは、座り心地が良さそうで、最も安定していて、尚且つちょうどいい高さを持ったものの上にブルーカラーの妊婦の一人であるレトを座らせた。


レトは、ゆっくりとそこへ腰を下ろして、やはり今度も肌を擦れる布の痛みで表情を僅かに曇らせた。自分の身体が思い通りに制御できないというのはいったいどれほどの苦痛をもたらすのか、ヨナには想像もできないことだった。


彼女が服に付いた染みを気遣うように肩回りの布を直したので、今更になってヨナは、あえてそれに気が付かないふりをした。体に触れる布の位置が定まるとレトは何事も無かったかのようにほほ笑んだ。まるで太陽のような笑顔だ。


「少し遠くまで来ちゃったけど、さっきの場所にまだ二人くらいいたわよね?」


後ろで束ねたものから滑り落ちたいくつかの髪を耳にかけなおしてレトが言った。この場所は暖かい場所で、彼女は極めて健康そうにしていたが、額に浮かぶ汗は体にかかる眼に見えない負荷が絞り出されて具現化しているかのようだった。

ヨナは彼女に持たされた触り心地の良い小さな布切れで、その汗を拭いた。

言いつけ通り、強く擦らず、押さえつけるように、ゆっくりと。


「あの場所には、さっき連れてきた者の他に3名いて、そのうち一人はすでに別の者が対処していた」


「そう。じゃああの場所はあとひとりで終わりかしらね?」


「君の仲間の対応にもよるが。時間的にそうかもしれない」


「ヨナ?私たちはね、とっても働き者なのよ?」


「そうだな、誰もいなければ別の場所から連れて来よう」


「お願いね」


「わかった」


たった数十秒にも満たない簡単なやり取りだった。そんな短い間にも、レトの服に発生した染みはみるみるうちに広がっていた。あれは本人の意思を無視して滲み出て来る母乳によるものだ。

ヨナは何度目かにもなるレトの頼みごとをこの時も快諾した。




「すまない。レトの言いつけで来た」


「レトさんのね?まああなた、どうもありがとう。じゃあこの子、まだ足りないみたいだからお願いできる?」


「わかった」


形だけの屋根があって、薄暗いその場所には苦しそうな喘鳴と、生まれたばかりの幼子の鳴き声と、女のうめき声がこの時も聞こえていた。

ヨナが幼子の一人を受け取ると、触り心地の悪いがさつく布の中でそれは、一度縮んで声を上げ、その様子を見守っていた2名が思わず身構えたのをよそに、再び安らかな眠りに付いた。


「じゃあ、よろしくね」


「ああ」


彼がその場を去ろうとした時、暗がりで横たわる一人の女が痛々しうめき声をあげた。すでに数回もこの場所を訪れていたヨナは、レトから言いつけられる作業におおむね慣れていた。簡単な言いつけならばヨナは彼等と同じに、問題なく遂行できるのだ。


「何か他に必要なことはあるか?」


ヨナは自分の発言が図々しかったり、思いあがった発言などとは微塵も思わなかった。

あの、暗がりの隅で苦しそうに横たわる者の腹の中には6名の子がいるという、6名だ。幼子とは言え、彼女はあの痩せた細い体で6名分余計に食事をし、水を飲み、呼吸をしなければならないのだ。考えるまでもなくそれは壮絶である。


世話係の女がヨナの視線を気にして「もう十分よありがとう」と言った。

彼女たちが精神的に不安定になりやすいという事を事前にレトから聞いていたヨナは、自分の罪悪感を苦しむ彼女たちへ押し付けて誤魔化すような行為を一切やめて、レトの元へ向かう事にした。

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