第七章 いちご姫⑤

夕方と夜の中間の空。青空の終わりと夜空の始まりの中、誰もいない国語科準備室に風と共に校庭から生徒たちの声が届いてくる。現在校庭では閉会式が終わり、毎年恒例のフォークダンスが始まろうとしていた。基本的に任意参加でルールなんて会ってないようなもの。決まった振り付けも存在しない。だいたいが仲のいい友人か恋人と踊る。私も去年までは凛と踊っていた。国語科準備室から校庭を一望することは叶わないけれど、聞こえる歓声の量から相当盛り上がっていることが伺えた。

彼女も誰かと踊っているのだろうかと、脳裏によぎるのは今日の借り物競争での光景だった。見学の私のもとへ遊びに来てくれた彼女。見ているだけでも楽しいと言った私に、「夜永さんも楽しめているようで何よりです」と笑った彼女。その笑顔がテント内へ降り注ぐ陽の光と相まって、とても眩く美しく見えた。私も笑って彼女も笑って、賑やかな体育祭の一角に出来たとても幸せな空間。ずっとこのままでもいいなと思っていたら、彼女は強引に連れ出されてしまった。白峰君が彼女のことを好きだということには気が付いていた。気が付いていて、見て見ぬふりをしていた。自分に都合の悪いことだったから。

彼女を連れ出す際に目が合った。彼の瞳は熱を持っているのに、その輝きは冷たくて、彼もまた気が付いているのだなと確信した。彼女の手を引いて引き止めればよかった。行かないでと一言言えばよかった。もしもそうしていたら、今この瞬間こんなにも胸が苦しくなるなんてことなかっただろうに。彼女のことを思うと胸は熱を持つのに、手先は酷く冷たくなる。両手の指先を擦り合わせて温度を保つ。そうしていると、背後でドアの開く音がした。振り返るとそこには先程からずっと頭の中にいる彼女がいた。


「ここに居たんですね」

「うん」

「負けちゃいましたね」

「まさかビリになるとは思わなかったなぁ」


私の隣に立って同じように窓から外を覗く。風になびく黒髪はもう解けていて、いつも通り美しく靡いた。「そろそろフォークダンスだよ」と声をかければ、「正直興味ありません」と無表情に世界を見下ろす。入学してから一度も参加していなかったらしい。軽快な音楽が校庭から聞こえてきた。その音に弾かれるように彼女へ手を差し伸べる。いまいち意図を理解していない彼女は、心底不思議そうに首を傾げた。その仕草すら可愛らしくて笑ってしまう。


「少し踊ってみない?」

「…踊れません」

「教えるから、…ね?」


おずおずと手が重なる。ステップだって正直曖昧で手の運びもあまり覚えていなかったけれど、音に合わせてとりあえず彼女と自分の体を運ぶ。「本当にこれ合ってるんですか?」と訝しげな彼女に対してただ笑って誤魔化した。普通は色んな人と代わる代わるに踊るものだから、二人だけで踊る一曲はなんだかとても長く感じた。制服のスカートが揺れるのと比例して、風と共にカーテンが動く。涼しい秋風は音楽の中にうっすらと虫の鳴き声も連れてきた。青空が完全に夜空になって音楽が終わる。二人とも動いたのと笑いすぎたのとで息が上がっていた。自分の手と繋がれた彼女の手を見て今日のことを思い返す。彼に手を引かれた彼女の背中を思い出す。


「白峰君との事、聞いてもいい?」


突然切り出した話題に彼女は数回瞬きをして、それから柔らかく微笑んで「どうぞ」と許可を出した。踏み込みたかったのに踏み込みたくなくて、踏み込んだら自分が公開すると分かっていたのに踏み込んだ。彼女と彼の関係は私が想像しているよりも長く、複雑に絡み合ったものになっていた。彼女は彼を「嫌い」だと言った。しかし彼女の表情を見ていると、本当はそんなことないのではないかと疑ってしまう。それくらい砕けた顔をして彼の話をする。彼女は言った、彼が「嫌い」だと。そして言った、「彼が友人」だと。嫌いだとキッパリ告げてコテンパンに振ったくせに、今も尚彼から向けられている気持ちを知っていて知らないふりをしているくせに、「友人でいたい」と笑う彼女の残酷さが静かな夜に染み渡る。自分はなんて、なんて人を好きになってしまったのだろうと。この恋があまりに無謀であることに気が付いてしまった。


「星野さんはズルいね」


思ったままに口にすれば、彼女は何も分かっていない風にすっとぼけた顔をする。自覚がないのが最高にタチが悪い。一体これから何人の人が彼女に恋をして、何人の人がその無謀さに打ちひしがれることになるのだろう。私ももれなく打ちひしがれた一人だ。そして今日彼女を連れ去った彼も、例外無くその仲間入りを果たすのだろう。あの恨めしく大きな背中に心の中で合掌をした。

校舎の中が騒がしくなってきたことで、終わりの時間が近づいているのだと気が付く。祭りの終わりを告げるようにチャイムが静かに強かに鳴り響いた。それに答えるように虫の声が返って来る。はっきり聞こえていたその返事が途端にぼやけて聞こえにくくなった。彼女が窓を閉めたからだ。「帰りましょうか」という言葉に頷いて扉へ向かう。窓を閉められ電気を消された国語科準備室に、もう先程のダンスホールとしての面影はない。靡く黒髪とスカートの裾。その余韻を追うように暗い廊下へ歩みを進めた。残酷でズルい、どこまでも美しい彼女の背中を追って。

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