第六章  友達の喜び②


  「武者小路実篤と志賀直哉は友人でした。」


体育館脇、校庭との境目に位置する渡り廊下の端に座り込む。校舎や体育館の中からは絶えず生徒たちの賑やかな声が響いてくる。買い出し帰りの和香ちゃんを捕まえて座り込んだのが数刻前。今は二人膝を抱えて肩を並べている。私桜城莉子は今年の文化祭で有志のダンスに参加することになっている。いつもつるんでいる子達が高校生活最後に何かしようと提案してきたのが夏休み中のことだった。それから練習が始まったわけだけど、全然形にならない。私はやるならちゃんとやりたい。文化祭のステージなんてたくさんの人が見る場所で、中途半端にやって恥をかきたくない。それに力を入れれば入れただけいい思い出になると思うのだが、どうやらこの考えは他の子達と差があるらしかった。

ちょっと外の空気吸ってくると練習を抜け出し、たまたま目に付いた和香ちゃんを捕まえて「何か面白い話して」と無茶ぶりしたら、冒頭の切り口で話が始まった。武者小路実篤って誰?名前凄いね。私の感想はそのまま口から出ていたらしく、和香ちゃんは丁寧に武者小路実篤と志賀直哉について説明してくれた。


「武者小路実篤は、だいたい明治18年頃に活躍した小説家です。その活動は詩人・劇作家・画家など小説家にとどまらず多岐に渡ります。華族出身で一応上流階級に身を置いていた人です。」

「じょーりゅーかいきゅー…」

「今で言うとこのボンボンですかね。お坊ちゃんだったんですよ。」

「あー、道理で名前がすごいわけだ」


私の適当な感想に和香ちゃんはクスクスと肩を震わせた。その拍子に揺れる黒髪があまりにもサラサラしていて、シャンプー何使ってんだろ…と、かなり関係ないことを考えてしまった。どうやら何かとツボに入ってしまったらしく、和香ちゃんはしばらく笑い続けていた。手を叩いたり大きな声を上げたりするでもなく、ただ身体を震わせるその笑い方がなんとも彼女らしかった。


「志賀直哉も同時期に活躍した小説家です。「小説の神様」って聞いたことありませんか?」

「…あるようなないような気がする」

「それくらい多くの人に影響を与えた作家なんです。ちなみに武者小路実篤とは二回ほど通っていた学習院中等科を落第した後に出会いました」

「え、神様問題児じゃん」

「どうやら品行点が悪かったらしいので、本当に問題児だったみたいですよ」


神様と呼ばれた人が問題児ってなると、ちょっと人間味が増していいなと思った。それを和香ちゃんにそのまま伝えると、嬉しそうににんまりと笑う。和香ちゃんも出会った頃に比べるとだいぶ人間味が増したように思う。表情はコロコロ変わるし、好きなことについて話す時は妙に早口になるのがヲタクっぽくて面白い。それに何より、好きなことを楽しんでる姿は可愛い。「それでそれで」と続きを促せば、柔らかく揺れる黒髪を耳にかけてまた瞳を輝かせる。うっとりしてしまうほど綺麗だった。

それから和香ちゃんは語り始める。ふたりが沢山喧嘩した話。お揃いの杖を作った話。「これから君に怒るよ」の手紙の話。正直いうと、沢山聴き逃してしまったけどどれも楽しい話だったことには変わりない。たぶん和香ちゃんは説明するのが上手だ。ちゃんと私のレベルに合わせて言葉を選んでくれる。だからわかりやすい。


「明治四十一年、九月二十九日に武者小路実篤から志賀直哉に送られた葉書が面白いんですよ。実篤と約束をしていたのに、志賀が別の友人の家に行ってしまったんです。自分に電話をかけなかったことに腹を立てた実篤が 「僕は本当に怒っている。後で電話をかけて怒るが、今はハガキで怒る。」 とわざわざハガキを出したんです」

「そして八十歳を目前にして志賀直哉は自分の家の庭の木から二本の杖を作りました。そしてそのうちの一本を武者小路実篤に渡したんです。「歩く時この杖をつかうと志賀と一緒にいる気がすると思った」という武者小路実篤の言葉が残っています。二人とも当時の平均年齢を考えるととても長生きでした。学生時代からおじいちゃんになっても、そして死ぬ直前まで彼らはずっと「友達」だったんです」


いいなぁと、純粋に思った。そんな友達がいたら人生めちゃくちゃ楽しかっただろうなと。しばらく話しているとポケットの中でスマホが鳴った。表示されている名前は普段つるんでいる友達。きっと練習を再開するとかそんな連絡だろう。もしかしたらもう帰ろうという連絡かもしれない。後者だったらなんか嫌だなと思ってしまった。「行きたくないなぁ」と無意識にこぼした言葉は、周りの喧騒を潜り抜けて隣に座る和香ちゃんの耳へ届いてしまった。彼女はわたしの言葉に何かリアクションをするでもなく、ただジッとこちらの表情をうかがっている。何を騙るでもない黒く透き通った瞳に、「アハハ」と乾いた苦笑いを零すことしか出来ない。そんな私の笑い声を合図に彼女は口を開いた。ただただ純粋な「何かあったんですか?」という疑問の言葉。ここで何もないよと返すのは、なんだか謎の罪悪感がせりあがってきて出来なかった。


「ちょっと周りとの温度差がねぇ…」


 なんて思い話にならないように切り出しても、どうせ彼女は真剣に聞いてくれる。さっきの武者小路さんの話を聞いていて思った。もしかしたら私にとって、「友達」と呼べる存在は限りなく少ないのかもしれないと。だって私は今つるんでいる子達とおばあちゃんになってまでも友達でいようとは思わないから。せいぜい高校までの仲だろうと勝手に見切りをつけてしまっている。


「私は…、そうやってちゃんとやろうと頑張れるのは莉子ちゃんのいい所だと思うので、周りに流されずに莉子ちゃんがやりたいように頑張ってくれたらいいなと思います」


そう零した彼女の顔に表情はない。ただその真っ直ぐな瞳に、今にも泣きそうな私の顔が映っていた。自分がこんなに情けない表情をしていたなんて知らなかった。そんな表情を掻き消すように笑顔を作って、「えぇ、そうかなぁ」なんてお茶らけてみる。彼女はいたって真面目に、「そうですよ」と今度は笑った再びポケットの中でスマホが揺れた。それに気づいていて無視をした。だってあまりにも和香ちゃんの傍が、隣が、ここの居心地が良すぎるから。


「それと、単純に私が莉子ちゃんのダンス楽しみなので頑張ってください」

「え、和香ちゃん見にくるの!?」

 

大げさに体をのけぞらせて驚く私に、和香ちゃんは少し視線を彷徨わせてから視線を斜め下に落ち着かせた。照れくさそうに、少し居心地が悪そうに。ぎこちなく紡がれた言葉は温かかった。


「…友達を応援しに行くのは、ダメなことですか?」


本当に変わったなぁと驚いた。私が憧れた一人で戦っているようだった彼女はもういないけれど、今の彼女の方が全然好きだ。大好きだ。彼女から紡がれた「友達」という言葉が、ちゃんと意味を持って響いたもののような気がした。武者小路さんと志賀さんの間でも、「友達」という言葉はこんな風に響いたのだろうか。私からの返答を待って不安そうにそわそわしている姿が愛おしくて、彼女に勢いよく抱き着いた。「ダメなわけないでしょ~」と笑って、彼女ごと自分の身体を揺らせば、戸惑った声にならない声がくぐもって聞こえてくる。渡り廊下を通る人たちが何事かと視線を向けてくるが知ったことか。大きく一回息を吸って、そして吐いた。体の中が何だか軽くなった気がした。息が出来る。息がしやすい。ずっとここに居たいなと思った。


「和香ちゃんが来てくれるなら、もうめちゃくちゃ頑張れるわ!ありがとう!!とりあえず自分なりにやってみるわ!!」


腕の中から和香ちゃんを解放する。なおも崩れないサラサラの髪に、シャンプー名に使ってるの?と問えば、「親が買ってきているので分かりません」と返ってきた。あまりにも無機質で単調なお返事に、某スマホに搭載されている人工知能が頭をよぎり、自分で自分にツボってしまった。いきなり腹を抱えて笑い出した私に、和香ちゃんは怪訝そうに顔を顰めた。「ごめんごめん」を笑いながら肩を叩けば、「大変不快です」というように眉間に皺が寄る。多分いつもつるんでいる子達に会話の中でこんな表情をされたら、何か失言をしてしまったのではないかと心配になって顔色を窺いまくってしまうと思う。でも和香ちゃんに対しては妙に雑な私が顔をのぞかせる。ひとしきり表情に不快感を醸し出し、首を傾げたのちに彼女は深いため息を零した。その表情は少し呆れているような、でもやはり優しい笑顔だった。


「まぁ、莉子ちゃんが元気になったのならよかったです」


本人に直接言うのは恥ずかしいから、心の中で呟いた。私は和香ちゃんとなら、この先沢山喧嘩したいし、沢山笑いたい。何なら杖をお揃いにするのも可愛いと思うし、そうやっておばあちゃんになっても、和香ちゃんと友達でいたいと思うようよ。そして何より、和香ちゃんといると息がしやすいんだ。


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