第4話 とけた魔法

「牡丹、ぼたん、待ちあぐねたぞ」

 

 若殿のすぐ目の前にいるぼたにはちらりとも視線をくれず、


「どこにおるのじゃ、牡丹はいずこや」


 苛立った声を張り上げた。


「あいー」


 小さく返事をしたぼたを一瞥したが、殿はまたあらぬ方を見回した。


 それも無理からぬこと。


 何しろ歌会のときと違って、今ではすっかり魔法がとけてしまい、側につかえるぼたを献上品の米俵が置かれているものとばかり思っていたのだ。


「殿、お探しの姫君はそちらに」


 家来がおずおずとぼたを差し示した。


 殿が米俵に近付いてよく見ると、確かに盛り上がった頬の上に胡麻のようなまなこが、ようこれで呼吸がでけたものやと思われるちんまい鼻があった。

 きらりと輝く眼には確かに見覚えがあるのではあるが。


 着物は身幅が足りず、かろうじて布を巻き付けてるといった有様で、女相撲をとらせたら、さぞや活躍するであろうと思われた。


「やや、そちが、牡丹……か?」


 若殿はまだ信じられぬといった面持ちでいる。


 そやから最前さいぜんから返事しているやおまへんか、ほんまに若殿さんはけったいなお人ですな。


「う、う、歌会のときの字とくらべるのや」


 かくして、ぼたの前に硯と筆が置かれた。


 目の前で書かれた文字と、歌会のときの短冊の文字に、何度も幾度も視線を走らせ、殿は側近くに仕える家来に差し出した。


「殿、間違いございませぬ」


 家来の言葉は殿の望んだものではなかった。


「む、む、む、そちを探し出すのに、ちいと時を要し過ぎた、すっかり様変わりしてもうて」


「殿、いかがなされます、あのときとはあまりに見目が変わりすぎでございます。ここはいくばくかの金子を握らせて帰してしまいましょう」


 家来は声を潜ませることもしない。


 しかし、ぼたはその話を他人事のように聞いてもおらず、ただひたすら殿の御前に置かれた黒い漆塗りの高坏たかつきに盛られた饅頭が気になって仕方がないといった様子。


 あの饅頭はあの大きさからいって、あづま屋の団子のしみったれた餡とはちごて、ずっしりと仰山ぎょうさん入っているのに相違ない。

 いつまであのままにしておくつもりなのやろ。あのままやったら、ぱさぱさに乾いてしもて味が落ちてしまうやろに。


 などと饅頭の心配をしておった。


「いや、それはあまりにも気の毒や」


「いや、しかし、それでは殿、お世継ぎをあのものに……」


 まさかとは思いながら家来はお伺いを立てた。


「いや、あかん、あかん、それは無理というものや、戯れが過ぎる」


 季節は冷たい風が吹き抜けていく頃だというのに、殿は懐から扇子を出すと、むやみやたらに扇ぎながら思案した。


 しばらく座敷をうろうろと歩き回り、何か名案が浮かんだらしく、はた、と立ち止まった。


 ぱちん、という大仰な音を立て扇子を閉じ、そして、掌にぽんと打ち付けた。


「おお、そうや、確か文係が腰痛を訴えておったやないか」


 沈鬱だった殿の声が急に明るくなった。


「はあ、そのようなことを申しておりましたが、それが如何なされました?」


 確かに書簡の間の先生はかなりのご老体で、長時間のお勤めが難しくなっていた。


「かように美しい文字を書くゆえ、書簡の間に仕えさせるがよかろう」


「ほう、それは素晴らしきお計らい」


 殿の考えに家来たちは手を打ち合わせんばかり。


 かくしてぼたは天守閣のある本殿から少し離れた三の丸の書簡の間へ仕えることとあいなった。




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