第84話丑の刻の怪異



 日付が変わり、深夜2時の薄暗い階段を三中知羽は、兄の知努が幼少期から愛着しているオランウータンのぬいぐるみを赤子のように抱き、降りている。



 午前1時から3時は丑の刻と呼ばれている時間帯であり、3本のロウソクが立てている鉄輪を被った白装束姿の女性は、神社の御神木へ憎い相手に見立てた藁人形を釘で打つと言われていた。



 抱いているオランウータンのぬいぐるみは人の念が入りやすい人形ひとがたのため、この時間帯だけ、霊的な力を宿しているかもしれない。



 1階の廊下を歩く度、聞こえる床の軋みも霊障のような現象と結び付けてしまいそうだった。手洗い場の前に到着すると扉付近へぬいぐるみを置き、入っていく。



 水がある場所は、魍魎と呼ばれている鬼のような見た目をした物のが近づくそうだ。しかし、照明を点けている事であまり怖く感じない。



 用を済ませた彼女は廊下へ出て、またぬいぐるみを抱き上げる。外から自動車のエンジンらしき音が聴こえ、警戒した。深夜を狙った強盗の可能性もある。



 家の前で停まり、自動車の扉が開閉される音も聴こえ、あながち杞憂と思えなくなった。そして、足音は玄関へ近づき、インターフォンが鳴らされる。



 寝室から忠文が出て、知羽と鉢合わせてしまう。壮年の男性らしからぬ情けない声を上げて驚く。



 「わっ! 姑獲鳥うぶめだ!」



 難産で亡くなった女性の妖怪と勘違いしたまま、すぐ寝室へ戻ってしまう。痺れを切らした来客者はまたインターフォンを鳴らす。



 寝室から赤子はこの家にいないので見逃して欲しいと懇願する父親の声が聴こえた。娘の信頼はまた格段と失う。



 「この世には不思議なことなど何もないのだよ」



 存在しない妖怪に命乞いする中年を見限り、知羽は玄関へ向かう。意図して扉の鎖を外さず、解錠した。



 扉の隙間からぬいぐるみを抱いている知羽が見えた男は、先程の忠文と同じように驚いている。



 「姑獲鳥かと思ったら知羽か! 心臓に悪いだろ、それより、ジュディーユーディットはまだ引き籠っているのか?」



 ふと彼女は目線を下げると普段見慣れない靴が見えた。しかし、この家に両親と彼女以外、居るはずもない。



 ユーディットらしき靴はあるが、彼女の姿を見ていないと説明する。その意味を彼女の叔父が理解するまで数十秒かかった。



 娘の姿を確認しに来た彼は無駄骨を折らされている。このような回りくどい工作を施す人間は1人しかいない。



 「ジュディーとチー坊の失踪は繋がっていたか。お前の兄貴の居場所、分かんないか?」



 「もし、お兄ちゃんも錦糸きんし玉子と同じく家出なら多分、ダメ教師の家にいるよ」



 鶴飛千景の家に匿われていれば、迷惑が最小限で済む。貴史は彼女の住所が分からないため、向かえない。



 幸い、彼女が使っているスマートフォンの電話番号は電話帳に入っていた。軽く挨拶してから車へ戻る。



 扉を施錠し、2度も妖怪呼ばわりされた知羽が2階の部屋に向かう。ユーディットの居場所は彼女の性格を考えればすぐ分かるだろう。



 暗闇に包まれた部屋の床で置かれているスマートフォンから着信音が鳴り、ベッドの横から唸り声と共に女性の手が伸びる。



 スマートフォンを掴んだ手が毛布の中へ戻り、気怠そうな声で通話した。眠気が残っているため、目は開けていない。



 「もしもし? 三中知羽ですけど」



 『嘘を吐くな。お前は未成年者略取犯の鶴飛千景容疑者だろ。両親の同意なしに未成年者を泊める事は立派な犯罪だぞ、ボンクラ教師』



 寝ぼけていたばかり、背後で寝息を立てている人間の事はすっかり忘れていた。だが、警察官の脅迫など恐れるに足りない。



 千景がこの男がどういう意図で電話をかけたか気づいていた。就寝前、知努から伝えられた内容を教える。



 「ジュディーは今、ある人間が匿っている。ヘッポコポリ公もよく知っているぞ。だけど、連れ戻さない方が親子のため、だそうだ。」

 


 『親子喧嘩が原因だろ? どこの家庭でも大なり小なりある。お互い謝れば解決すると思うぞ』



 彼の妻が詳細を語っていないせいか、貴史は口論程度の親子喧嘩だと勘違いしていた。しかし、実際の親子喧嘩はもっと悲惨だ。



 一瞬、真実を語る事を千景が躊躇うもそうしなければ鈍感な貴史は気づかないと思い、話し始める。



 「母親と娘がする争いだから客観的に見れば親子喧嘩だ。しかし、



 「これは先に包丁を出した娘が悪いな。だけど、殴ったり、悪魔だの堕胎してやればだの言ったお前の嫁も悪いぞ。こんな状態で単身赴任して大丈夫か?」



 妻子にどのような態度で向き合えばいいか分からなくない貴史は、しばらく無言となった。思春期の娘が少し怖くなっているようだ。



 過去に刃物で顔を斬り付けられた経験から刃物は苦手となっている。娘が相手の場合、尚更だ。



 5年前は色んな人間の人生が狂ってしまった悍ましくも悲しい年だった。妻子と再会出来なければ恐らく貴史は自殺している。



 単身赴任の後、ユーディットを力で押さえ付けられるような人間が何人いるか千景に訊いた。



 「私の弟2人とお前の顔をドスで斬り付けた女の3人だな。ちなみにこいつらを制御している奴が夏鈴だな」



 最後に彼が苦手意識を持っている女の名前を出すところは千景の嫌がらせだ。今まで貴史は彼女を渾名呼びしかしていなかった。



 『そうかい、俺、眠いからもう寝るぞ。チー坊と仲良く寝ろよ』



 通話を終えて、床にスマートフォンを置こうとした途端、また着信音が鳴る。相手は姪だった。



 どうやら幼馴染が匿われている事を知羽が教えたのかもしれない。渋々、知羽は通話する。



 『バカゲー、私の知犬を返して。もうすぐアラサーのおばさんは大人しく街コンでも行って』



 「あ? もう1回言ってみろ、前髪パッツンク染子の内申点下げるぞ。教師様を舐めるな」



 当然のように彼女は姪の内申点を自由に操作する立場でないため、ハッタリだった。もし、授業以外の事柄で判断すれば懲戒処分を受ける。



 叔母が男子高校生の胸を枕にしながら通話していると染子は気づいていない。脅しに屈する事なく彼女の態度が変わらない。



 『今の発言、録音したから明日、教育委員会に提出するわ。どんな処分を受けるか楽しみね』



 「もし、提出したらチー坊と心中するからな。最期は心も体も一緒だ」



 染子の方から通話を終わらせた事でようやく千景は就寝に戻った。しかし、3時間程度しか彼女は眠れない。

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