第43話月夜のリサイタル



 知努は玄関の扉を軽く開け、居間へ向けて帰る事を伝えると酔っている鶴飛火弦が呼び止めた。面倒事に絡まれそうだ。



 「何だよおっさん、俺、帰って探偵物語とアニメを観たいんだけど? 今日はジョー山中が出る回なんだよ」 



 「うるせぇよ、オカマのチー子。お前が帰ったら染子の演奏を聴けなくなるだろ」



 今からピアノの演奏をすれば就寝時間が遅くなるため、やる可能性は極めて低い。ゆっくりと扉を閉める。



 月は太陽から受けた暖かな光で夜の世界を照らしていた。どれだけ文明が発達しようがこれだけは誰も変えられない。



 ふと夜空を眺めていると死者の世界について思い浮かべる。天国と地獄の狭間に存在する煉獄は一体どのような景色が広がっているだろうか。



 知努が想像した煉獄はピアノが置かれている所だけ月光に照らされている寂しい場所だった。消える事を許されず永遠と閉じ込められなければならない。



 天寿を全うしたかどうかも分からない人生の残滓にすがり、他の囚人も刑務官もいない檻で終身刑に服する。



 煉獄という単語で思い浮かべたその光景はある曲を聴いた時に出来上がったものだった。そのピアノを弾くにふさわしい女性がいる。



 「いつもワガママばかり言ってごめんなさい。でも、私の演奏を聴いて欲しいの。ダメ?」



 玄関の方へ振り向くと目を伏せている染子が立っていた。彼女の父親とこの場所で傷つけ合った時に着けていた彼の装飾品が彼女の魅力を引き立てている。



 三中知努のためだけにあつらえているような美しい女性の誘いは断れない。無意識に彼女へ近づき手の甲へ口づけしていた。



 染子に普段使っている部屋へ案内されるとアップライトピアノが置かれている。自家用車並の値打ちがある代物だ。



 グランドピアノと比べて連打性能が決定的に劣っている。しかし、家庭用としては十分だった。



 鶴飛染子にとって2つ目の肉体といえる。家族以外で彼女の部屋へ招かれた人間はあまりいない。



 ピアノの前に置かれている椅子へ彼女は座り、演奏が始まる。三中知努に煉獄の概念を教えた曲だった。



 現世から精神が分離し、彼女と彼しか存在しない旋律の世界へ引き込まれていく。美しくも悲しみを帯びた音色は全てを包み込む。



 好き、愛しているといった温かい感情はないが1つに繋がっている事は紛れもない事実だ。鶴飛染子は三中知努であり、逆もまた然り。



 彼女の名前通り、黒く染まっていた。彼女の美しさを尊敬し、愛し、求め、嫉妬し、独占している。



 もし、彼女と彼の性別が逆になって生まれても同じように求めるだろう。目を閉じようが彼女の姿は瞼の裏へ焼き付けられていた。



 鍵盤へ纏わりつくように叩いている白く細い指、3つのペダルを何度も踏む足、冷たく鋭い目つき、それら全てが芸術だ。



 彼女の演奏を聴いている時だけは立場を忘れてしまい、どこか孤独を染子という母親に優しく抱き締められる事で満たして貰っているような錯覚へ陥る。



 暗く重々しい孤独を表現していながらも照らしてくれる月光のような優しい音色が精神を狂わせていた。



 連続する絶望に包まれた煉獄の中で2人は指を絡め、見つめ合っている。性欲や愛が無くとも満たされていた。



 何もかもがこの享楽に遠く及ばない。三中知努は鶴飛染子の演奏に精神を支配されていた。



 一瞬の出来事だったかのように演奏が終わってしまい、染子は椅子から立ち上がる。彼の後ろで彼女の両親は拍手していた。


 それに追従し彼も拍手する。演奏の良し悪しを超えた感情が湧き上がっていた。すぐさま彼女が駆け寄り、抱き締める。



 「小さい頃、お前に毎日いじめられて胸が切り裂かれそうな程、辛かった。でも、林の時は1番辛かったけど、ちゃんと謝って隠した物を返してくれた」



 「だから許してあげる。その代わり、私の所有物である事は忘れないようにして頂戴」



 彼は頷き固く抱き締めていると外から車のエンジン音が聴こえ、火弦が苦虫を噛み潰したような表情になった。



 玄関の扉が開いて、厚かましく彼の妹が空腹を訴えながら居間に向かう。冷蔵庫の中身を漁られたくない鶴飛夫婦は急いで追いかける。



 招かれざる客のせいでせっかくの雰囲気が台無しだった。彼女と顔合わせしたくないため別れの挨拶をしてから玄関に行く。



 「チー坊に色仕掛けでもして何か作って貰えよ。いい年して1人で飯も食えないのかスベタ」



 「子宮を潰そうとされたから嫌だ。寝る度にいつ潰されるか怖くて体が震える」


 

 癪に障った知努は居間へ行き鶴飛兄妹の頭を叩いた。手間だと分かっているが仕方なく千景の夕食を作る。



 キャベツ、玉ねぎ、コーンビーフを入れた焼きそばを作り、彼女に食べさせた。つまみが減って恨めしそうに火弦が食べている様子を眺めている。



 来月の小遣いが5000円になる彼の数少ない楽しみが、コーンビーフのつまみを食べる事だ。



 「今度から飯を食う時は忠文のところか夏鈴の所に行けよな。所帯持ちパパの楽しみ奪うなよ」



 食事を終えた千景は食器を流しに持って行き、後片付けしている知努の尻を軽く撫でる。



 40歳代のお尻より弾力があると失礼な事を言った彼女が義理の姉から尻へ回し蹴りされた。



 用事が済んだ知努は再度、玄関に向かうと彼の顔見知りの人間が集まっている。呼んだ犯人は無表情で部屋から出て来た。



 「今から三中知努くんがピアノの演奏します。みなさん、500円を払って下さい」



 三中親子、知努の祖父、次男家親子、白木姉妹、慧沙、ポーから彼女は500円を徴収していた。



 来月の彼女の生理痛が1割増しで辛くなる事を彼は願う。観念して彼女の部屋に行った。



 椅子に座ってから何を演奏しようか考える。練習した機会がこの部屋と中学校の体育館しかなかった。



 一瞬、目を閉じ手足へ神経を集中させて演奏し始める。ピアノの演奏が多少出来る事は染子と親族以外に隠していた。



 不屈の精神を表現しているようなこの曲が好きなあまり、弾けるようになるまで何度も練習している。



 染子のためなら命を投げ打ってもいいと思っている気持ちを彼女へ伝えていた。握っている手は2度と離さない。



 演奏を終えて立ち上がり、振り返ると彼女が笑顔を向けてくれる。心から演奏して良かったと彼は思えた。



 「チーちゃん、俺達もう、終わっちゃったのかな?」



 「馬鹿野郎、まだ始まっちゃいねぇよ」


 

 鶴飛染子と三中知努の掛け合いの後、拍手が巻き起こる。今の服装と髪形を思い出した彼は急に恥ずかしくなり、顔が赤くなった。

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