第40話紛い物にはご注意を
2人が一通り布団の中で戯れた後、身なりを整え居間へ向かう。8時を回っており、ユーディットの母親がもうじき帰宅する時間だった。
ワイシャツ姿の知努が部屋の照明を点けると奥に置いていたケージの中でクーちゃんは寝ている。まだ見違える程、成長していない。
彼が台所へ進み冷蔵庫から夕食に使う材料を取り出して調理の準備へ取り掛かる。その間、ユーディットが食器を机に並べた。
今日の夕食はそれなりの技術を要するカニ鍋だ。これが自宅の食事の場合、カニの脚や甲羅を上手く剥けない人間がわざと損するような下処理で良い。しかし、ユーディット相手だとそうはいかなかった。
なるべく彼女の中で三中知努が良い人間でありたいと彼は思っている。ユーディットを悲しませてしまったり、泣かせてしまえば彼の心は痛む。
カニの下処理と起きた子犬の面倒に2人が勤しんでいる中、金髪の女性と白い着物を着た老婆が居間へ入ってくる。
くたびれた表情の女性が着ていたグレーの上着と制服を脱いで机の背もたれにかけて座った。この女性はユーディットの母親だ。
金色で長く波打った髪とどこか憂いを帯びているような目が娘と似ている。しかし、あまり優しそうな女性に見えなかった。
「ママ、おかえり。あっおじいちゃんも来ているのね。こんばんは」
ユーディットの言葉を聞いた彼は素っ頓狂な声を上げながら振り向く。目元に皺が刻み込まれた老婆の正体は彼の祖父だった。
親子3代続いている女装習慣を歌舞伎の女形のように息子、孫へ継承させている奇矯人。女性らしい美を未だ追及している。
いずれ忠文もこの男同様、老いに抗いつつも出来る美を貫いていくはずだ。だからこそ、彼はまだ生き方に執着する手段が残っている。
それすら出来なくなった時は、幸いノーベル文学賞を獲った小説家のようにガス自死する気力や体力すらない。
何故なら病状に伏せる時か、認知症へなっている時が順当に年を取れば考えられる女装の終わりだからだ。
父、祖父の振る舞いを見ていれば、三中知努が送る女装の麗人としての人生で困る事はなかった。
深い溜息を吐き心底落胆している彼の心情が表情に出ている。祖父と食事する予定はない。
「どうしてジジイ来てんだよ。しかもよぉ、何だその格好、極妻か? せめて、婆さんが臨終した時に着ろよな」
「たまには孫の家に来てもいいでしょうに。ああ、あの忠文の
黙らなければ擂り粉木で叩いてつみれにするという脅迫を孫から受けた老人は苦笑しながら着席する。
脚から身を引き出しやすくするため切れ目を入れたりなどといった作業に彼は集中していた。
クーちゃんを抱っこしているユーディットは祖父に知努の粗暴な口調になった理由を訊く。
「小学校辺りだと思います。でも、大体の男子はああいう話し方です。別段、それでチー坊が悪くなっていません」
更に彼女が知努は今でも正しい人間か訊くと答えに困っていた。しかし、彼女はそれ以上、何も聞かない。
しばらくの間、無言が続きクーちゃんをケージへ戻したユーディットは手を洗うため台所へ行く。
ミトンを装着している知努は鍋を居間の机に運んでいる。見慣れている背中がどこか不気味だった。
「正義と悪の2つで表現出来る程、この世界は単純じゃない。やるかやらないか、ただそれだけ」
手を洗い終えたユーディットは彼の暗い声を聞き少し戸惑いながらも隣へ座る。不安のあまり彼の足と絡め合わせしまう。
娘の心情などお構いなしに彼女の母親は彼へ瓶ビールの酌をさせていた。なかなか見られない光景だ。
2人の祖父も彼へ頼むも空の瓶を頭上から逆さに向けられる嫌がらせを受ける。知努はあまのじゃくな節があった。
「演じてこの行動をしている所が性悪ですね。チー坊の手綱を握っている染子はなかなかすごいと思いますね」
「私から見たらどっちも同じに見えるわ。生意気なところとか凶暴なところとか」
当の彼は飄々とした態度で食事している。時折、隣の彼女がカニの食べ方に苦戦していないか確認していた。
容姿が似てなくとも姉か妹だと思って接している様子はとても演技に見えない。それ程、彼の大事な人間だった。
嫌がらせを受けた2人の祖父がその様子を見て微笑んでいる。しかし、机の下で誰にも見えないように硬く拳を握った。
粗方、鍋の中に入っていた具材が無くなり、うどんを入れるか雑炊にするか4人は決め兼ねていた。
効率を考えた知努はうどんを入れた後、雑炊にすれば両方叶うと提案する。もし、雑炊が残れば明日の朝食の1品となるだろう。
雑炊を希望していた金髪親子は賛成し、ラーメンを入れる案を急に出した耄碌人の頭は孫に叩かれてしまった。
「あのなぁ、鍋にラーメン入れたらヌメリ出来るっちゅう事、知らんのか」
「今のは冗談ですから早くうどんを入れて下さい、オカマのチー子」
うどんの後にジジイのつみれを入れると言い残した知努が鍋を持って台所へ行く。
酔って顔が赤いユーディットの母親は義理の父親に対し姥捨て山へ捨てられる年だと言って嘲笑する。
姥捨て山の話を知らない娘は不法投棄は犯罪だと指摘し祖父の精神へ追い打ちをかけた。
「さっきからつみれにするだの、姥捨て山へ捨てられるだの、不法投棄だの酷いですね」
老人の悲痛の叫びは周りの人間から無視される。しばらくし知努が茹でたうどんが入った鍋を持って来た。
隣の老人が食べさせて欲しいと要望する声を無視して彼は食べる。生憎、介護職員でなかった。
知努が幼少期に行った染子のいじめをユーディットへ教えると脅された事で仕方なく食べさせる。
いじめ被害者から口にせずとも許して貰っていると分かっているが未だ罪悪感を抱いていた。
ユーディットにもねだられ、彼は息で軽く冷ましてから口に運ぶ。多少、過保護だった。
夕食が終わり、帰宅しようとする祖父へ不良の薪狩りに気を付けるように軽く促して彼は後片付けする。
その後に机へ伏せて寝ているユーディットの母親の肩へ彼女の上着をかけて帰り支度に取り掛かった。
「また明日、ディーちゃん。バイバイ」
玄関で頬に彼女の唇と抱いているクーちゃんの濡れている鼻を押し当てられた彼は嬉しそうな顔でそれぞれの頭を撫でる。
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