第9話情緒不安定なアラサー
昼休みの食堂は何か特別な事がある訳でも無く、ごった返している。受付からラーメン、チャーハン、カレーといった人気料理を注文する男女の声が聞こえた。
いつでも食べられる料理を敢えて3年間しか通えない学校の食堂で頼む事が、生徒達の楽しみなのかもしれない。
今朝の台所で４人分の弁当を作った知努は２人分の弁当箱を持って、窓側の座席へ向かっている。
知り合いの教諭から早朝に依頼され、運んでいた。生徒達の様に教室で昼食を食べない教諭は窓際の座席で食べている。
染子の為、手間暇かけて作った弁当と同じ内容を２つも作らされた事は知努にとって不愉快だった。
知努の両親が知り合いの縁で半強制的に関わらされている人物な為、知努は悪縁と思っている。窓際の中央に位置する席で見慣れた後ろ姿を見かけ、観念して隣へ行く。
「チー坊、あれだけ早く持って来いと言ったのに遅いだろ。遅漏の精力枯れたジジイの方がまだ早いぞ」
軽く皮肉が込められた挨拶をして、ふてぶてしく腕組している彼女の前に２つの弁当箱を置いた。
「ごめんなさい、それより春休みに京都の安井金毘羅宮でしっかりお願いしてきました。もちろん
どこか棘がある知努の優しい笑顔と声根に、高圧的な態度を取っていた鶴飛千景はすぐ謝る。幼馴染かつ複雑な関係性を知努と築いている鶴飛染子は、彼女の姪に当たる親族だ。
背がある程度高く、凛々しい顔立ちをしており、彼女の性格は厳格そうに見える。もう１つの弁当箱を千景が対面で座っている１年生の学年主任教諭に渡して、２人は食べ始める。
男性学年主任教諭は知努の父親と同級生で一昨日、妻にキャバクラ通いが知られ、弁当を用意して貰えなくなったと語る。
彼が困っている時に千景は２人前用意すると知努へ相談する事無く、安請け合いしたようだ。
見栄の為に作らされたと知り、知努は隣の椅子へ座ってから千景の横腹を力強く抓る。彼女に振り回されない生活を望んでいた。
しかし、距離を取れば取る程、接近する変質者な為、それはストーカー規制法が適応されない限り、難しい。優しさと厳しさを使い分けて接し、なるべく千景を暴走させないように心掛けている。
甘やかしすぎれば支配欲が強くなり、突き放せば少女のように泣きじゃくる扱い辛い女だ。
愛情表現と取れる以上の暴力、暴言は知努に限り、彼女をよく知る人間から念を押して禁じられている。
千景が最も信用している人間は知努であり、彼女と年が近ければ間違い無く
いつも当たり前の様に使っている知努の粗暴な口調も、彼女の前では仕方無く封じている。
「さっき言った安井金毘羅宮で祈願した事は千景先生、大好きなカゲねぇが元気で長生きして欲しいだよ」
美味しそうに作った弁当を千景が食べている時は怒っていないという意思表示で肩を寄せた。
乳繰り合うため、ストッキングを穿いた左足で知努の足と絡み合わせる。他人に見えていない為、我慢した。
人目がある食堂である事を忘れ、口付けしようとする千景の唇は微笑みながら人差し指で止める。
次に何を要求するか分かっている知努は、渋々と千景に大好物のミートボールを食べさせた。どこか依存して貰える千景が憎めず、やはり、嫌っていても優しく接している。
愛情が時として心を深く抉る刃へ変わる事を理解しているが、彼はそれに依存していた。険悪かと思えば仲が良い
互いに暴力を振るった後、怪我の心配する異常な夫婦と形容する事が適切かもしれない。
弁当箱の２段目にある白飯は食べ辛いという理由で、知努が容器と口の間を何往復もさせながら食べさせる。
食事が終わった後、スリッパを脱いだ足で器用に知努の上履きも脱がせてから足の指を擦り、戯れ合う。
「昨日、お義父さんとお義母さんにチューしたって聞いちゃった。千景、とても嫉妬してしまう」
「旦那様と熱くて甘くて蕩けるようなチューしたい。だから具合が悪くなった事にして保健室、行こ？ 旦那様のしたい事いっぱいするから、ね？」
耳元で囁き知努の頬に手を添え、こちらへ向かせ媚びた目付きで見つめていた。男勝りの口調や切れ長の目から威圧が消え、人前で見せられない状態に変わっている。
普段から千景に厳格で凛々しい印象を持っていたのか、学年主任教諭の目が丸くなっていた。
彼女は元々賢くも手の施しようの無い凶暴さを持っており、高校生時代に親子喧嘩で数人が何度も止めに入っている。
物心付いた時は傍にいない彼女の兄、過度な期待を押し付ける彼女の父親が千景の心を荒ませた。
その当時、近所で弁慶の生まれ変わりは彼女の通り名となっていた。しかし、ある時期を境に反抗期が終わる。
「したいけどまだ学校だから後でいっぱいしよう。保健室だって保健の先生いると思うしね」
彼女が知努を旦那様と呼び出した状況は大変危険だが、保留でその場を凌いだ。２０代後半でこの性欲だと、女性の絶頂期の４０代は交尾し終わったオスカマキリのように殺されかねない。
しっかりと知努の唇を見つめ軽く舐める。これでしばらく疼きや寂しさが治まるようだ。
「鶴飛先生が三中をそんな風に呼ぶ程、好きな理由って何ですか？」
他愛ない質問が引き金となり、千景は知努の膝へ座りながら過去の辛い出来事を思い出し
「千景は誰からも必要とされていない、愛されていない、無価値な人間」
この言葉は過去に知努が言ってしまった言葉だ。しかし、彼自身、覚えていない。
彼の父親の考えで、反抗期の千景に息子を引き合わせ仲良くさせるやり方が功を奏して大人しくなる。
しかし、ある日、穏やかだった彼女は取り返しの付かない失敗を冒し、深い心の傷が出来ている。
どれだけ知努に優しくされても千景の心のどこかでまだ過去の刃は深く抉り込み、痛みが這っていた。
彼女の心を修復出来ない程、破壊してしまったという罪悪感が蘇り、知努は
その日の出来事は所々、記憶が抜け落ちており、居間で彼に暴力を振るっていた彼女は気づけば、割れた皿の破片が散らばった床へ流血しながら蹲っていた。
彼女が生命の危機を感じたらしく、防衛本能の１つである幼児退行は時折、起きる。過去に２人の間で何があったか分からない学年主任教諭は茫然としていた。
「予想通り、誰かが地雷踏んだな」
騒めく中、黒いジャケットを着た超高身長の若い強面男が食堂へ来る。しばらく宥め、泣き止んだ千景にスリッパを穿かせてから強面男は抱き上げ、周りの注目が集まった。
そして当然の権利の様に烏合の衆がスマートフォンを向けて、撮影しようとする。
先程まで物腰優しそうだった男は、周りをサングラス越しから睨み付け、一喝した。
「おい！ 何勝手に撮ってんだゴラァ！」
知努は立ち上がり、千景へ口付けしようとして従兄がいきなり額に口付けし、思わず突っ込んでしまう。
明らかに青年の認識を持っていないと悟る。彼は冷ややかな目線を向けた。
「間違えた。さあ、もう1度、仕切り直して」
髪を梳くように撫でながら口付けし満足したのか、彼女がまたおもねるような目つきへ戻る。
「ありがとう、格好良くて可愛い旦那様、優しく撫でてもらうと蕩けそうで狂っちゃう」
片腕で千景の背中を支えて従兄は向き直り、優しく知努の頭を撫でた。
「聞いたぞチー坊。可愛らしい見た目して随分手回しが早いというかなんというか」
「は、早く帰れ！ もう絶交だからな！」
両親か染子かが隠しておきたかった昨夜の出来事をこの男に話していると分かり、狼狽えてしまう。
彼の従兄に抱き上げられたまま、千景は食堂から去り、ようやく知努の気分が落ち着く。
唖然としている学年主任教諭に挨拶し、知努は２つの弁当箱を持ち教室へ戻る。泣いてしまった事が染子に耳へ入らない事を願うばかりだ。
隠れて交際している三中知努と鶴飛千景が、食堂で痴話喧嘩したという事実を湾曲させた醜聞は、瞬く間に校内へ広がる。
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