水曜日 その一

はっと目が醒めたマスオは自分の部屋を見回した。結局、一晩中、黒い影は来なかったようだ。窮屈な体勢で眠ってしまったので、体がうずうず痛んできた。マスオは猫みたいに背伸びをして体の筋肉を和らげてからベッドから降りた。


時計を見ると、もう六時になっている。まだ六時と思ったほうがいいかも。


外からは食材を炒める音がかすかに聞こえてきた。母はいつも朝が早い、と感心しながらマスオを部屋を出て厨房へ行き、フミヨの後ろ姿に向かって「おはよう」と言った。いまさらながら、マスオは世界中の母はなんで一年中、早起きできるんだろう?と不思議に思った。やっぱり、家族を思う気持ちが強いからじゃないかな。


「おはよう、マスオ。……そうだ、昨日の夜、マスオのお友達が来たよ」


フミヨは振り向きもせずに話した。


「友達って誰?」


マスオは『友達』という単語に疑問を感じた。友達と呼べる人はアツコしかいないからだ。アツコはくるなら絶対前もって知らせてくれる人なので、昨夜、訪れた人が誰なのか、さっぱり見当がつかなかった。


「綺麗な女の子だよ」


この言葉にマスオはますます五里霧中になった。アツコはきれいなタイプの女の子ではないからだ。どっちかといえばかわいい方の女の子。


「名前は?」


「あら、名前を聞くの忘れてた。でもね、とっても綺麗で長い髪を持っているの。あんなに長い髪をみたのは生まれて初めてなの。今まで一度も切ってないみたいなきれいな髪なの。あんな髪の毛をみたら、私も髪を伸ばしたくなっちゃった」


マスオは記憶の中で自分の知っている髪の長い女の子を捜してみた。しかし、ママの言ったとおりの一度も切ってないと思われるほどの髪を持つ女の子はいなかった。一体どんな人なんだろうと気になった。


「髪の長い女の知り合いなど、いないけど……」


「でも、すぐ分るよ」


「えっ!どうして?」


「だって、うちに泊まったから」


どんな人なのか、気になった同時に、怪しい人じゃないかとも心配し始めた。ぎょとんとしているマスオの顔をみたフミヨは話し出した。


「大丈夫。とてもいい子だよ」


「でも、いい人かわるい人かは見るだけでは分らないじゃない、母さん。もうちょっと人を疑ってよ」


マスオの不満にフミヨは聞かないふりをした。


「母さんには分るの。人を見る目は今まで間違ったことは一度もなかったから。だから、マスオのお父さんと結婚して、マスオを産んだんじゃない。母さんの見る目は確かでしょう?」


例えられないこととマスオは思った。でも、あえて反論はしなかった。お父さんの事を口にしながら、母の顔がぼうっと、幸せの色に染まったからだ。


そもそも、母さんのこの自信ぶりはどこから来ているのか、マスオには分らない。ただ、母さんがそういうからには、問題ないと、自分を納得させた。今のどころ、なにも事件が起こらなかったからよしとしよう。


「あの女の子、今どこで寝てるの?」


言ってからマスオはバカな質問をしたと思った。ソファーにいない、自分の部屋にはいるはずがない、なら残った部屋は母の部屋だ。


「母さんの部屋で寝てるの。まだ起きてないと思うけど」


マスオはわかったとうなずいてから厨房を出た。


そんなマスオを待っていたかのように、母の部屋から長月が出てきた。二人はしばらくお互いを見つめあっていた。


マスオは目の前に立っている長月を見つめた。確かに悪い人には見えない。それに、母が言っていた長くてきれいな髪をしている。


先に沈黙を破ったのは長月だ。マスオを見た瞬間、長月は確信した。目の前にいるこの人が、今回の運命の人だってことを。


「やっと会えた!」


マスオは何事かと戸惑っているが、長月はそんなマスオにかまわず、彼の前までまっすぐ歩いていった。もうすぐでぶつかりそうになった。


「顔は変わったけど……生まれ変わったから当たり前なのね、でも、私にはちゃんと分る。だって、同じ香りがするんだから。私の一番好きな香り」


こう言って、長月は鼻で香りを吸って、じっくり味わっている表情を顔に表した。マスオから見れば、変人に見えるのも同然でしょう。慌ててフミヨを呼んだ。


「母さん!母さん!早く出てきて!」


マスオの叫びにびっくりしたフミヨは、すぐ厨房から姿を現した。


「どうしたの?」


フミヨは厨房から出てきながら尋ねた。


「何があったの?マスオ。あんな大きな声を立てて」


マスオは段々自分に近寄ってくる長月を避けながら、話し出した。


「僕、この人のこと全然知らないよ。うちのクラスの人じゃないし、うちの学校にもこんな人いないよ。そもそも、見たこと全然ないよ。学校にこんな人がいたら絶対忘れないんだもん」


マスオは器用に長月を避けながら、最後の砦であるフミヨの背中に身を隠した。


「あらっ、そうなの!でも、これから友達になったらいいんじゃない?」


マスオはフミヨの言葉を聞いて一瞬、自分の耳が信じられなった。母の口からこんなにも楽観的な言葉がでてくるとは思わなかった。


「母さん、そんなのを簡単に口にしないでよ。素性も全然知らない人と友達になれるわけないでしょう。しかもいきなり僕の体を嗅ぐんだから。絶対変だよ」


こんなマスオの文句を聞いてもフミヨはいやな顔をせず、微笑みながら話し出した。


「みんなそうでしょう。知らない人から知り合いになるんだから、問題など何もないよ。それに……ごめんね、まだ名前を聞いてなかった」


長月はかしこまった態度で自分の名前を教えた。


「長月ね。きれいな名前ね。もしかして九月生まれだから?」


「あっ、は、はい。そういうものです」


フミヨはマスオを自分の前に引っ張り出した。


「ほらマスオ、今は名前も分ったから、友達になれるでしょう」


そして、フミヨは長月に向かって言葉を続けた。


「この子ね、とても人見知りなの。中学校に通っていても、友達といえる人はアツコという女の子しかいないの。だから、とても心配したんだけど、長月も友達になってくれるんだから、少しは安心したね、マスオ」


「母さんがそういうと、僕の人間関係がとても、悲しく聞こえるよ」


「だって、それは事実でしょう」


フミヨの話は事実なので、言い返す言葉を失ったマスオはやつあたりを長月にぶつけた。声は厳しかった。


「長月と言ったよね」


フミヨは長月の事を完全に信用していると知ったマスオは、自分だけでもしっかりするべきと思って、長月に対する警戒をすこしも緩めなかった。


「うん、そうだよ」


「あなたはなぜうちに来たの?」


「あなたに会いに来たよ」


「だって、私達は今日始めて会ったよね。それなのに、僕に会いに来たって、やはりどこかおかしい」


マスオは今の言葉が長月の怪しさを証明したと思いフミヨの顔を伺ったのだが、フミヨは別に気にもしていない様子だった。


「おかしくない。あなたと私は運命の糸で結ばれているから、めぐりあうのは決まっていたの」


長月は聞いている人側が恥ずかしくなる『運命の糸』という言葉を平気で言った。


運命なんか信じないし今まで思ったことさえなかったマスオがそれについて冷やかそうとしたところ、フミヨが割り込んだ。


「運命ね!とてもいい響きよ。……マスオ、長月によくしてあげてね。運命の人を見つけることはなかなかできないことだよ」


「もしかして母さん、この情況を楽しんでいる?」


マスオは母のこんな対応に機嫌を害された。顔にすぐ感情が現れた。


「もちろんよ。だって、マスオに新しい友達ができて、母さんはとても嬉しいんだから。……それより、朝ごはんの準備がまだだった。二人で仲良くしてね」


フミヨはすぐ、厨房へ入った。


気まずい空気がマスオと長月の間に漂っている。そもそも、気まずいと感じているのはマスオだけで、長月はやっとであった運命の人であるマスオをじっと見つめている。愛情が込めた両目で。


その場にいづらくなったマスオは洗面所へ行った。まず顔を洗ってこれから取るべき行動を考えようとしたが、いいアイデアが浮かばなかった。


マスオは自分の後ろに立っている長月を見ぬふりをして厨房に入った。


「はい、朝ごはんだよ」


食卓の上には朝ごはんが置いてあった。


「あっ、そうだ。新しい歯ブラシとタオルを用意したから、長月はそれを使っていいよ」


「はい、ありがとうございます」


「早く済ませてご飯食べましょうね」


フミヨの声を聞いた長月は『はい』と答えてから洗面所に行った。


長月の姿が見えなくなって、マスオは声を低くしてフミヨにきいた。


「母さん、少しは疑ってよ!あの姿のどこがいい人なのよ。絶対怪しいって」


「マスオ。母さんを信じて。大丈夫だから」


フミヨは真剣な顔で言った。


これ以上何かを言っても、ママの耳には入らないと思って、マスオはやめた。


歯ブラシを持っている長月の手は震えていた。やっとあの人に会えた興奮からだ。


顔立ちは毎回違うけど、香りですぐ見分ける。これこそ、運命だ。何度生まれ変わっても、二人は強い赤い糸でむすばれているので、必ず出会える。


厨房に入ると、マスオはもう食べ終わって席からたっているところだった。


「ご馳走様でした」


「ゆっくり食べてもいいのに、なぜそんなに急ぐの?」


「学校に早く行かないといけないから。……それでは、行ってきます!」


こう言って、マスオは厨房を飛び出し、ソファに置いたカバンを掴んで家を飛び出した。正直のところ、長月という女の人から逃げたかった。運命の人だとと言って変な視線でみられるのが、いやだったから、マスオは家から逃げ出したのも同然だ。

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