第109話 運命の夜③
黒い風が視界の端でうねり、白刃が闇夜に光る。
ガキィンッ
「っ――!」
「やはり――貴様はあの時、殺しておくべきだった――!」
一直線にクルサールの首を落としに向かった刃が、いつかの日をなぞるように、薄皮一枚ギリギリのところで阻まれる。ギリッ……と悔し気に歯噛みして、ロロはうめき声を漏らした。
ずっと――ずっと、感じていた『形容しがたい不快感』。
ミレニアの縁談が持ち上がり、彼女の顔を立てて、彼女が後腐れなく嫁げるようにと、必死にその不快感を無視するように努めてきた。
その判断を、今ほど後悔したことはない。
「ロロ!」
ギリギリと鋼同士が耳障りな音を立ててこすれ合う。
「さすがに――っ……速い、ですねっ……!一瞬、首が落とされたかと錯覚しましたっ……!」
「ほざけっ――すぐに現実にしてやる!」
全体重を掛けて押し込むと、研ぎ澄まされた刃がクルサールの首の皮を切り裂き、一筋の紅い血が細い首を伝った。
「ぐっ……く……」
「「クルサール様!」」
我に返った周囲の兵士から声が上がり、加勢に押し寄せる気配がした。真後ろの空気が動き、兵士が放った殺気が背中に触れる。
一瞬、炎でそれを迎撃しようと、視線を外しかけて――
ぞわりっ……
背筋を一瞬、得体のしれない不快なものが駆け下りた。
それは――あの、悪夢のような夜に、魔物の襲撃を悟ったのと同じ、”嫌な予感”。
「っ――――!」
この予感が外れたことはない。
本能に従い、あと少しで押し込めそうだった体勢から、即座に身体をのけぞらせて飛びのく。
カッ――
視界の端で、一瞬、明滅する光。
幻のように光ったそれの正体を確かめる間もなく――
「ぁ……ぅ……」
ドサッ……
ロロが飛びのいた先――今にも背中から切りかかろうとしていたはずの兵士が、小さな呻きを漏らして一瞬でその場に昏倒する。
「な――!?」
「おや……今のを、避けますか。これはこれは……少し、貴方を侮っていたかもしれませんね」
どこかのんびりとした口調で言いながら、クルサールはゆっくりと体勢を立て直す。
一瞬、緊張を走らせ――男の顔を見て、ロロは一瞬、目を見開いた。
「――なんだ――――それは――……」
「?……あぁ……もしかして、コレですか?」
紅い瞳が一点を凝視する視線の先に思い至り、ふっ……とクルサールは微笑を刻んだ。
そして、その一点を――己の額をそっと撫でて、告げる。
「これは――”神”より賜いし”聖なる印”ですよ」
「な――……」
慈愛に満ちたような笑みを湛えて言ってのける男は、気が触れてしまったとしか思えない。
しかし、青年の額には――謎の光の紋様が夜の闇夜に煌々と浮かび上がっていた。
「”聖印”――……」
ぽつり……とミレニアがつぶやく。
それは、かつて彼女の筆頭侍女を務めた伯爵夫人が、娘からもらったと胸にかけていた銀細工と同じ紋様をしていた。
「ある日、私は”神”の声を聴きました」
「何……?」
唐突に話し始めた男に、怪訝な瞳を返す。額に浮かんでいた光の紋様はふっ……と時間経過とともに掻き消えた。
「”神”――”エルム様”はおっしゃいました。暴君の圧政に苦しむ民を救え、魔物の脅威を晴らせ――と」
「何を――馬鹿げたことをっ……!」
どこか芝居掛かった仕草で、妄言としか思えぬたわごとを垂れ流す青年の言葉など、まともに取り合うだけ無駄だ。
そうは思うが、ロロはすぐに飛び掛かることは出来なかった。
(さっきの光は何だ――?大の男が、手を触れられたわけでもなく、一瞬で昏倒した――!?)
クルサールの得体のしれない力を受けた結果、地面に倒れ伏してピクリとも動かなくなった屈強な身体を持つ兵士を視界の端に捕らえ、ギリッと奥歯を噛みしめる。
昏倒しているだけなのか、命を落としてしまったのか、ここからは判断がつかない。どちらにせよ、未知の攻撃手段であることは確かだった。
(迂闊に飛び込むのは危険だ……!)
ぎゅっと剣を手に神経を最大限に尖らせる。
周囲に控えるのは、たくさんの水の魔法使い。目の前には、謎の力を使う妙な光の模様を額に宿す男。
「エルム様は、私に啓示を与えました。この国を救う使命を与えたのです。そして、その見返りに――と、神の御業を行使する力を、特別に賜ったのです」
「何を――」
「さぁ、問いましょう。――貴方は、神を信じますか?」
ぞくり……
いつもの”完璧な”笑顔を湛えたクルサールは、もはや、ただの気が狂った男にしか思えない。
剣を握るのとは逆の手を差し伸べ、まさに”神”の声を聴く聖人のように問いかけた。
「信じるわけが――ないだろう!」
「そうですか。残念です。――では、貴方は、異教徒なのですね」
一喝したロロに、物憂げなため息を残し、手を降ろす。代わりに――剣を握る手を、ゆっくりと持ち上げた。
「エルム様の名のもとに――すべての異教徒を、殲滅します」
「――――!?」
カッ――
一瞬、青年の額が光り、あの模様が浮かぶ。
再びあの人間を一瞬で昏倒させる技が放たれるのかと、咄嗟にその場を飛びのいた。
「な――!?」
ガキィンッ
大きくその場を飛びのいたはずのロロの目前に、あるはずのない刃があった。
「驚きましたか?――神の御業です」
「っ――!?」
先ほどと、全く逆の体勢に押し込められる。薄皮一枚のところで、何とか敵の刃を押しとどめていた。
「”伝説の剣闘奴隷”は――どこまで、神の御業に対抗できますか?」
フッ……
目の前のクルサールが、掻き消える。
「な――」
文字通り、掻き消えたとしか思えない速度で、移動したのだ。
ぞわりっ……
「っ!」
ギィンッ
「ほぅ、これも耐えますか。素晴らしい。人の身で、よくぞ」
「クソが――!」
死角から放たれた一刀をしのぎ、自由な方の剣で敵を襲うが、およそ人の動きではないとしか思えぬ速さでその場を飛び退り、再び猛攻が始まる。
「っ――!」
「ロロ!」
「ハハハハ!!!素晴らしい!!!素晴らしいです!異教徒であることが惜しまれます!」
嵐のような猛攻を必死に二振りの剣で捌く。神の声を聴くという男の、狂った声がこだました。
(なんだ、これは――!人間の、動きじゃない――!)
どこまで鍛錬を繰り返そうと、人体の構造上の『限界』は必ずある。
だが、今のクルサールは、その限界をはるかに凌駕した動きを見せてロロを楽し気に襲って見せるのだ。
(ただ速いだけじゃない――力も、尋常じゃない……!化け物か、こいつは……!)
煌々と輝く光を額に湛えながら、爛々と蒼い瞳を輝かせて迫る得体の知れぬ存在に、一時たりとも気を抜くことが出来ない。
ジルバやたくさんの奴隷たちが、致命傷を負ってなすすべなく倒れ伏した理由がわかり、ギリッと奥歯を噛みしめた。
(炎――だめだ、この速度で動かれたら、的が絞れない……!距離を取って辺り一帯を焼き尽くそうにも――姫や、捕らえられている虫の息の奴隷たちを巻き込む――!)
「ほぅ、素晴らしい。何かを考えていますね?人知を超えるこの猛攻に耐えながらその余裕……!常にミレニア姫を背に庇い、決して敵を彼女へと近づけさせぬその気概も素晴らしい」
「チッ――クソッたれ!」
ガキィンッ
冷静に値踏みするような物言いに悪態をつき、一瞬の隙をついて相手の剣を跳ね返し、距離を取る。
ゼィ、ゼィ、と息が上がっていた。
「ロロっ……!」
「動かないでください、姫……!すぐに、蹴散らしてみせます」
悲痛な声に振り返ることなく答えて、大きく息を吐き、無理矢理呼吸を整える。
必死に脳内でこの窮地を切り抜ける算段を考えた。
「ほぅ……どのように――と聞きたいところですが……どうせ、虚勢でしかないでしょう」
「貴様――」
「誤解をしないでいただきたい。私はただ、ミレニア姫に、最後の慈悲を与えたいのです」
「慈悲……だと――!?」
ギラリ、とロロの灼熱の瞳が怒りに燃え上がる。
クルサールは、対照的な真っ蒼な瞳に笑みを湛え、ゆっくりと諭すように言葉を紡いだ。
「仮にも、かつて愛を語り、将来を約束した女性です。無様な死にざまを晒すよりも、堂々と、王者の風格を持って、民の前で首を刎ねられる――そんな、誇り高い死を与えて差し上げたいのですよ」
「ふざけるな――!」
「ふざけてなどいません。――それとも、貴方は、まさか、その高潔な少女が、無様に死に抗うさまを見たいのですか?……汚泥に塗れ、ただ息をするためだけに、心の臓を動かし、利己的に生きる――奴隷のような様を晒させたい、と?」
「――!」
思わず一瞬、息を飲む。クルサールは、笑みを湛えたまま、悪魔のような言葉を紡いだ。
「もう、貴方たちに逃げ道はありません。――ありがとうございます。貴方が教えてくださった逃走経路は、全て余すことなく、私の兵の突入経路として使わせていただきました。……今も、襲われた皇族の残党の一人も許さぬという気概で、兵士たちがその道で守りを固めています。貴方がどの道を通ろうと、その自力ではまともに走ることも出来ない少女を連れて、精鋭部隊を切り抜けることなど出来ないでしょう」
「クソが――!」
まさか、自分が授けた情報が敵の手引きをしてしまったとは思わず、口の中で吐き捨てて唾を吐く。
「紅玉宮の監視役の特権を行使して、奴隷たちの”仕様書”を共有してもらえたのは、とても幸運でした。――今日、計画遂行の脅威になるような人間を、不意を衝いて最初に全て無力化することが出来ました。そこの、三日月刀の男のように」
「っ……」
「魔法を使える者たちは皆、男女問わず最初に捕らえ、枷を嵌めました。屈強な身体を持つ労働奴隷も、皆無力化しました。残るは数名、最後まで屋敷に残っていた無力な女の奴隷たちですが――それも、時間の問題。もうまもなく捕まることでしょう」
淡々と、クルサールは逃げ道を全て塞いでいることを知らしめながら、ザッ……とゆっくり足を踏み出した。
その昔――この男の祖国からやってきた皇妃のために造られた庭園の花が、固く無骨なブーツによって踏みしめられる。
「さぁ――わかったでしょう。どれほど抵抗しても、無意味です。貴方たちに残されたのは、誇りある死か――無様極まりない死か。その、二択のみ」
ザッ
ザッ
花が、草が、踏み荒らされる。
ミレニアは、茫然とそれをただ、言葉もなく眺めていた。
ジリ……と剣を構えたまま、ロロは後退る。……いつでもミレニアを抱えて走り出せる距離まで。
「まさか――ここまで言われて、まだ逃げようと?」
フッ……と嘲笑に近い吐息を漏らしたクルサールを、鋭い紅い眼光が射抜いた。
「俺は奴隷だ。無様な死に様も似合いだろう。貴様の手にかかるくらいなら――最後の最後まで醜く足掻いて、姫を命尽きるその瞬間まで守り抜く――!」
「そうですか。それは残念です」
すぅ……と再び剣を持ち上げる。
再び、得体の知れぬ嵐のような猛攻を覚悟して、ぎゅ……とロロも剣を握り――
それは唐突にやってきた。
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