第93話 最後の一年⑦

 去っていく華やかなシャンパンゴールドの頭を見送っていると、ぽつり、と低い声が小さく響いた。

「……よろしかったのですか、姫」

「あら。……お前は、私にクルサール殿と結婚してほしかったの?」

「…………それが、姫をお救いするのに最適な方法だと言うならば」

 すぃっとロロの瞳が左下に移動する。

「まぁ。……あれほど、敵意をむき出しにしていたのに?」

「ですが、姫を救うのに有効なことは事実です。姫も、あの男を、憎からず思っていたではありませんか」

 ”幸運を運ぶ妖精”が導いてくれた出逢いなのだ、と言って特別視していた。専属護衛のロロが警戒すべきだと進言するのも退けるほどに、彼女にとって、クルサールは『特別』なのだと思っていた。

「それに――ああして、熱烈に愛を囁かれるのは、一般的に、嬉しいことではないのですか」

(……俺にはよくわからない感覚だが)

 心の中で付け足して、尋ねる。

「あら。私、これでも、十歳までは、歯が浮くような詩的な表現で褒めそやされて、是非とも将来は我が家の嫁に、妻にと引く手数多で、”第二の傾国”と言われていたのよ?……少々情熱的なことを言われたくらいで浮かれるような安い女だと思われるのは心外だわ」

 呆れたように鼻で嗤って言うミレニアは、どうやら本心で言っているようだ。

 クルサールの美貌とステータスをもって、世の中の女性百人にあの求婚をすれば、九十九人が目をハート型にして迷いなく頷くだろうが、残念ながら、クルサールは残りの一人に出逢ってしまったらしい。

「私にとって、結婚というのは、家同士の取り決め事。己の意思が入り込むような余地がないものだと思っていたから、判断をゆだねられて、とても困惑したけれど――でも、やはり、彼と結婚は出来ないわね」

「……何故ですか。条件を考えれば、決して悪い縁ではないはずです」

 ミレニアが生き残れる可能性があるなら、一つでも選択肢を残しておきたいロロは静かに問いかける。

 ミレニアは静かに嘆息して、クルサールが去った方向を見る。

「皇族は、全てを与えるものよ。己の恋も愛も、優先することはあり得ない。歴史を見ても、賢帝と呼ばれた皇帝が愚帝に成り下がる要因は、大抵女が原因だもの。お父様だって、少し形は違うけれど、お母様にうつつを抜かして政治を疎かにしてしまったことは事実でしょう」

「ですが――」

「自分の恋愛感情を無視するとなれば、あとは損得勘定だけ。それにしては、この婚姻で得るものが少なすぎるのよ。……せいぜいが、私の命が助かるくらいでしょう」

 ふ、と疲れたような笑みと共に言うミレニアに、ぎゅっとロロが眉根を寄せる。

 それは――何より大きな、利ではないのか。

「前にも告げたでしょう。これは、私の我儘なの。彼の申し出は、それを覆すほど魅力的ではなかった。それだけよ」

 既に影も形も見えなくなった方角を見やり、ミレニアはそっと指で首飾りを辿る。

「まっすぐな愛を向けられて、真摯な言葉を説かれて、とても困惑したのは事実よ。今の私に、そんな価値があるとは思えないもの。だけど――やはり、魅力的ではないわ。彼は私を幸せにすると言ってくれたけど、そんなことは不可能よ」

「そうでしょうか。少なくとも、愛されて、望まれて結婚するのなら、姫を大切に扱うことでしょう。どこぞの公子のような男と結婚するよりも、幸せになれる確率は上がります。それに、あの男は身分も帝国貴族と同等の――」

「まぁ。……お前、どうしたの。やたらとクルサール殿の肩を持つのね」

 クスクス、と笑ってミレニアは肩を揺らす。

 飾り気のない漆黒の髪がふわりと舞い、翡翠の瞳がロロを見上げた。

「でも、嫌よ。――お前に苦労を掛けるような結婚は、もう二度と結ばないと、決めているの」

「――――……」

 紅玉の瞳が、数度、速い速度で瞬きを繰り返す。

「だって、お前ときたら、クルサール殿が傍にいる間、ずっとピリピリした空気を纏っているんだもの」

「それは――……いえ、そうではなく……まさか、そんなことで――」

「あら。そんなこと、だなんて心外だわ。私にとっては、何より重要な事よ」

 顔を顰めながら控えめに反論しようとしたロロを遮って、ミレニアはふわりと笑う。

「私がクルサール殿の元へ嫁いだら、お前は四六時中ずっとピリピリすることになるでしょう。年中ずっと、『形容しがたい不快感』とやらを抱かせてしまうわ」

「それは――」

「お前は、そんなものは耐えると言うのでしょうけれど。――私が、嫌なの。お前のためではないわ。私のためよ。この美しい瞳が、いつも鋭く厳しい光しか宿さなくなるなんて、私は決して耐えられないと、そう言っているのよ」

 そっと少し背伸びをするようにして、長身のロロの頬へと手を伸ばす。

 困惑するように、ロロの瞬きが早くなった。

(あぁ――やっぱり、美しいわね。何よりも)

 表情が乏しい彼の感情を、一番よく反映するのが、この紅い宝石なのだ。

 自由と生きる使命を得て輝く光も。困惑して揺れる光も。何事かを思案するように愁いを帯びた光も。主の傍にいたいと懇願する切ない光も。幻のように不意に宿る、穏やかで優しい光も。

 全部――全部、美しい。

 生涯ずっと、傍に置いて、余すことなく堪能したい。

 この光が多様性を失い、ただ毎日厳しく敵を睨み据えるようにして眇められているところを眺めるだけの日常生活など、ミレニアに耐えられるはずがないのだ。

「今の私に、失うものなんて何もないわ。お父様ももういない。紅玉宮の従者もいない。富も名誉も、必要ない。いつ死んでもいい無価値な命だと思っているけれど――でも、そうね。やはり、一番最後まで、お前にだけは、傍にいてほしいわ」

「それは――勿論……最後まで、お供いたしますが……」

「約束よ。――ずっと、ずぅっと、傍にいて。私が傍にいるうちは、宝石みたいに美しいその瞳を、決して曇らせないで」

 蕩けるような笑みを漏らす主に、ロロは視線を伏せて瞬きを速くする。――何と返答すべきか、わからない。

 困惑している様子の護衛兵に、くすりと一つ笑みを漏らして、そっと添えていた手を離すと、ミレニアは口を開いた。

「第一、好きでもない男に求婚されても、微塵も心が動くはずないでしょう」

「は……」

「何を言うか、ではないの。誰が言うか、なのよ」

 ふふっ、と悪戯っぽく笑うミレニアは、魔性の美しさを持っている。

「心から愛する男に言われたならば、どんなに拙い言葉でも、女は胸を焦がすものよ。私も、私が恋する愛しい男性に熱心に口説かれたら――もしかしたら、全てを擲って、国も民もすべてを捨てて、男の手を取ってしまうかもしれないわね。……言ったでしょう?どんな賢帝も、恋愛にうつつを抜かせば、愚帝に成り下がるものなのよ」

 ぱちぱち、とロロは目を瞬く。

「姫に――そんな男が、いるのですか……?」

 いるなら、今すぐ連れてきて、剣で脅してでも求婚させたい。

 怪訝な顔で尋ねるロロに、ミレニアはくすくすと可笑しそうに笑い声をあげる。

「私を愚帝にさせたいの?嫌よ。私は最後まで、名誉ある死を遂げた姫として歴史に名を残すの。女の皇族が歴史に名を遺すなんて、帝国史上初でしょうね。とても楽しみだわ」

 笑いながら踵を返して自室へと向かう主に、ロロは渋面を返す。――完全に、茶化された。

 吹き抜けていく風は、少しずつ夏が近づいていることを感じさせる温かさだった。

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