第89話 最後の一年③
――知っている。この、感覚を。
何度も何度も、必死に手を伸ばして引き留めるのに、するりとすり抜けて、ふっと幻のように消えてしまうような錯覚。
「傍にいたい」と哀願しても、優しく微笑って突き放される。
「傍にいてくれ」と懇願しても、寂しく微笑んで、背を向けられる。
唯一無二の宝である少女はいつも、見慣れた”強い”顔に、全ての本音も弱音も隠し尽くして――
――慈悲の塊のような声で、この世の絶望を、告げるのだ――
しん……と、一瞬、部屋の中に沈黙が下りる。クルサールの紺碧の瞳が、驚きに大きく見開かれていた。
ギリッ……と小さな音がする。
――ロロが、奥歯を、噛みしめた音だった。
「……姫」
「だから、クルサール殿。……お願いですから、不用意に、私の護衛兵を刺激しないでください」
「姫……!」
「私は、もう、己の運命を受け入れています。だから――今となっては無益な争いの末、貴殿も、ロロも、どちらも血を流すようなことはあってはなりません」
「姫!!!」
ミレニアの言葉を遮るように、鋭い声が響く。
観念したように小さく嘆息してから振り向けば、怒りと苦悶に表情を歪めたロロが、ミレニアに厳しい視線を送っていた。
「そう睨まないで頂戴」
「睨んでいるわけではありません」
言葉に反して、視線が柔らかくなることは無い。
「私ではなく、ミレニア姫の方が、護衛兵殿を刺激しているようですね」
クルサールの皮肉にも、苦い顔しか返せない。ミレニアは嘆息して、ロロの視線から逃れるように再びクルサールへと向き直った。
「ロロには後でしっかりと言い聞かせます。……とにかく、そういうことなので――あと一年、クルサール殿のお手を煩わすことはないでしょう」
「ですが――」
「勿論、貴殿の立場を思えば、お兄様方の手前、ミレニアがそう言っているから、と与えられた任を放棄することなど出来ないでしょうが……そうですね。貴殿に抵抗が無いのでしたら、紅玉宮の中に部屋を用意しましょう。使用人はおりませんので、自分のことは自分でしていただくようお願いしますが……それで、よろしければ」
「姫!!!」
蒼い顔で、ロロが大声で遮る。
「それは、それだけは駄目です……!」
「あら、どうして?監視する、と言うのなら、紅玉宮の中に滞在させるのが一番――」
「貴女を!!っ……御守りできない……!」
絶望に塗れた慟哭が響く。
ミレニアは、困った顔で眉を下げた。ロロの主張も、わからなくはないからだ。
ミレニアが<贄>になると決定したならば、ロロが正攻法でミレニアを救うには、軍務に協力して魔物討伐に出るしかない。当然、その間のミレニアの護衛任務は、別の者に託すしかないが、先日のやり取りでゴーティスの不興を買ったことを思えば、軍人の派兵は望めないかもしれない。
その状況で、クルサールを、ミレニアのすぐ傍――紅玉宮の中に滞在させる、と言うのだ。
ロロからすれば、クルサールは謎の不快感を感じる、どこまでも信用のならない男。それも、ロロにも対抗することが出来る、と自信満々に言ってのけるような危険人物だ。
(それを、俺に、許容しろと――そう、おっしゃると言うのか――!)
ぞわりっ……と背筋が寒くなる。
何故かはわからない。脳裏に、まるで経験したことがあるかのように、リアルに光景が思い浮かぶ。
今目の前にいる少女が、クルサールの凶刃に倒れ、崩れ落ちるその瞬間を――
「っ――!」
ごぉっ!
「キャ――ロロ!?」
部屋中の蠟燭が不意に勢いを増したのに驚き、ミレニアは心当たりを振り返る。蒼い顔をしたロロは、構わずミレニアを背に庇うようにして前に出て、クルサールと対峙した。
冷静で穏やかとすら思える紺碧の瞳と、灼熱の怒りを燃やす紅玉の瞳がしっかりと交わる。
「随分と、信頼がないようですが――ご安心を。私に与えられた任は、ミレニア姫を<贄>として恙無く捧げること。この一年、彼女の命を脅かす全てから彼女をお守りするのが、私の努め。紅玉宮では、どちらかと言えば、普段の貴方のお仕事に近い働きをしますよ」
「ふざけるな――!」
「ふざけてなどおりません。貴方は、一年、正攻法でミレニア姫を助けるよう尽力するのでしょう?その間、姫を御守りするお役目を、私に預ければいい。――これでも、エラムイドでは一番の剣士の自負があります。私の実力は、誰より貴方がよくご存知なのでは?」
冷静なクルサールの言葉に、ギリッ……と奥歯を噛み締める。
「ミレニア姫に抵抗の意思がないと言うなら、紅玉宮に使用人らを雇い入れられるよう、私がギーク陛下らと交渉しましょう。……人生で最期の一年です。我が国でも、心安らかにその日を迎えられるよう、<贄>は大切に匿われ、"その日"まで、不自由ない生活を約束されます。謀反の恐れのある、馴染み深い使用人を入れることは難しいかもしれませんが――せめて、日常で困り事がないように」
「そう。――助かります」
最期の一年――などと言われても、ミレニアは穏やかに返事を返した。
「ひとつだけ、聞かせてください」
「えぇ、なんなりと」
クルサールの言葉に、優雅にカップに口をつけながら、ミレニアは平然と返事をする。
ロロがどれだけ怒りの炎を燃やそうと、クルサールが淡々とミレニアの最期を語ろうと、何一つ動じぬその姿は、彼女の決意が堅いことを容易に想像させた。
「貴女はどうして――この
「ふふ……運命、ですか。あまり好きな言葉ではありませんね」
カチャリ、とカップをソーサーに戻し、ミレニアは口元に苦笑を刻む。
「何も、おかしな事はありません。以前、申し上げたとおりです」
ミレニアは悠然と顔を上げて、王者の風格を漂わせる笑みを浮かべた。
「私は、民と臣下を救うため、全てを擲つ覚悟があります。……私の命で、沢山の人々が救われる。命も、心も。――どうしてそれを、拒否することがありましょうか」
「っ……あんな、如何様な儀式を、信じるというのですか!」
カッとロロが怒りに顔を染め上げるのを、ミレニアは頭を振って穏やかに制す。
「儀式が如何様だろうが、私に<贄>の資格があろうがなかろうが、関係ないのよ。民は、新たな<贄>が送られると知り、安心する。半信半疑だった者も、これから一年、魔物の脅威が無くなれば、この制度が有用だったと信じる者も出るでしょう。……でも、ゴーティスお兄様もザナドお兄様も、決してそれを認めないから、この一年、我武者羅に討伐部隊を派兵するでしょうね。私が東へ行かずとも、きっと、大陸最強の誇り高い帝国軍が、帝都を守ってくれるわ」
「ならば、貴女が赴かずとも――!」
ロロの言葉に、もう一度緩く首を振る。
「今、国民は、頼るべき寄す処を持たない。今までは確かに自分たちを導いてくれたはずの、皇族の手を取ることを躊躇している。……このまま、ギークお兄様が皇帝を続けることは無いでしょう。きっと、他のお兄様の誰かか――臣下か、貴族か。誰かはわからないけれど、皇帝を廃して、玉座を手に入れるはずだわ」
そしてそれは、今が格好のタイミングと言えた。
カラクリはわからずとも、帝都が安全に保たれている。いつまたあの大規模襲撃があるかと脅える必要がなくなった今、政治的な根回しや権力拡大に全力を割けるのだから。
「だけど私は、やはり、家族が大切。次の皇帝がお兄様の誰かなら――皇族が、民のために死地に赴き、命を捧げたと言えば、「皇族も捨てたものじゃない」と民衆も新しい皇帝を好意的に受け止めてくれるかもしれない。お兄様方でないとしても――私が国のために命を捧げたことに同情して、残った私の血族を、無闇矢鱈に首を刎ねるのは反対だと、民意が味方してくれるかもしれない。私の死は、私の死後の家族を守るの」
「そんな――そんなのは、全て、可能性の話でしかない!そんな、確証のない希望に縋って、姫が命を落とすなど――」
「いいの。――いいのよ、ロロ」
優しく慈愛に満ちた笑みで、ミレニアは優しく言葉を重ねる。
「このまま生きていても、私は何の価値もない、ただの無力な女。国の毒にも薬にもなれず、激動の歴史の波に流されて、国と共にこの命を散らすだけ。でも――クルサール殿が現れて、この無価値な命に、意味と価値を付けてくださった。国家のためになるならば、命乞いの一つもせず、誇り高く命を散らす――それが私の、譲れない信条なのよ」
翡翠の瞳の意志は強く、僅か十四年しか生きていない少女とは思えない。
「……ミレニア姫のお気持ちは受け取りました。少し――数日、時間をください。貴女のこれからの扱いについて、協議する時間を」
クルサールは、何かを考えるように目を伏せて告げる。紅玉宮での暮らしを支える従者たちの用意などを、ギークらに交渉するのかもしれない。
「ふふ……ご無理はなさらずに」
今更、贅沢を言うつもりはない。ミレニアはふわりと余裕のある笑みで微笑んで、遠い血縁と告げた男を見やる。
今日話すべきことは話したのだろう。クルサールは、立ち上がり――ふと、思い出したようにミレニアとロロを振り返る。
「そういえば――儀式について、如何様を疑われているようでしたが」
透明感のある美丈夫の横顔は、少し影になっていて、細かい表情が読み取れない。
「あれに、如何様などありません。ミレニア姫は、確かに<贄>の資質をお持ちです」
「貴様、今更何を――!」
「<贄>の効果は、だいたい数ヶ月から長くて一年ほど。ですが、ミレニア姫のあの光の強さならば――きっと、五年から十年ほどは、効果が続くのではないでしょうか」
思わず、二人が絶句する。
チラリ、とクルサールは真夏の空色をした瞳を向けて、ふっと口の端に苦笑を刻んだ。
「私の人生でも、ここまでの強さを持った光を見たことはありません。伝承に残る、神の化身と謳われた<贄>くらいではないでしょうか。――それが、我が国ではなく、帝国の皇族に生まれ出たことは、とんだ神の気まぐれに頭を抱えたくなりますが」
その伝承に残る者が捧げられた時に、五年から十年も効果が持続したと言うのだろうか。俄には信じられず、ミレニアは何度も目を瞬く。
クルサールは、くるりと踵を返した。
「貴女が<贄>になるならば、間違いなく、命を賭して国家を救った、救国の女神となるでしょう。……仮にどのような結果になろうと、この国の歴史において、貴女の名誉は守ると、お約束しましょう。エラムイドの代表の名と――貴女と繋がったこの血に賭けて」
「そう……ですか。あまり、ご無理はなさらずに」
ミレニアは苦笑して先程と同じ言葉を繰り返す。
死後の名誉など、何の意味もない。仮に、国民を不幸に叩き落した元凶として汚名を着せられて首を討たれようと、関係はない。
ミレニアが望むのは、ただ、残された者の幸福だけなのだから。
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