第80話 “神”に選ばれし<贄>⑤

「……我が国、では」

 ぽつり……とミレニアは小さな桜色の唇を開く。

 クルサールの言葉はいつも、自分の至らなさを突きつけられるようで、胸が痛む。

 だが、それでも、授ける。――理想の『君主』だと言ってくれた、彼の言葉に応えるために。

「”神”に縋る者はいません。――我ら皇族が、”神”の代わりに、民の心の支えとなります」

「……ほぅ……?」

「己の道に迷い、苦しみ、悩んだ時――人は、無意識に、手を伸ばします。誰かに救いを求め、手を伸ばします。ですが、哀しいことに――余裕がない人間には、その伸ばされた手を取ることが出来ません」

 例えば、飢饉が起きたとき。

 例えば、大災害が起きたとき。

 例えば――魔物に命を脅かされているとき。

「己の命を守るのに必死で、毎日息をすることに必死で、心臓を動かすことに必死で――他の誰かを気に掛ける余裕などありません。自分の利だけを優先し、他者を信じることなど出来ず、治安は悪化し、人々の生活はより苦しくなります」

「なるほど。……間違いないですね」

「だから――そういう時は、我ら皇族が、”神”の代わりに、手を取ります」

「ほぅ……?”手”を取る……」

「はい。……救いを求めて伸ばされた手を、誰も取らないその手を、見返りを求めず救い上げるのは、民を導く皇族の役目です。民が困窮したときは、真っ先に、何の利も求めず、彼らを救う存在となる。生活を、心を支え、民が穏やかに、周囲の者と手を取り合う余裕を持つことが出来るようになるまで――彼らを決して見捨てません」

 クルサールは、じっと何かを考えるようにして顎に手を当てて考え込む。

「祈りをささげたところで、”神”とやらは、飢えを満たしてはくれません。雨露をしのげる場所を与えてくれません。魔物の脅威から守ってくれるわけでもありません。……そうでしょう?」

「ふっ……そうかもしれません」

「ですから、私たち皇族が、与えるのです。――皇族は、惜しみなく全てを与える者。飢える民には国庫を開き、食料を。家を失った者には、人と資源を投資して、温かな寝床を。魔の脅威には、命を守るための武装した兵士を」

 少女の言葉に、クルサールはゆっくりと瞬きをしてから口を開く。

「ですが――いくら皇族とは言え、その”手”は有限です。人は弱い。差し伸べられた手を掴まれ、離さない民もいるでしょう。……そんな時、別の地方で、同じように助けを求める民がいたら、貴女はどうするのですか」

 こちらの比喩をそのまま使って問答を重ねるクルサールに、ミレニアは一瞬目を伏せる。

 幼いころから、何度もギュンターと交わした問答に似ていた。

 かつては――問いかけるのはいつも、ミレニアだったけれど。

「……皇族は、手を、握り返しません」

「――――?」

「必死に縋りつこうと手を伸ばす人々の手を、誰も取ろうとしないその手を、自ら取ります。仮に『そんな助けは要らない』と突っぱねられても、無理にでも手を伸ばします。――彼らは、我らが守るべき民だから」

「それは高潔なお考えです。ですが、綺麗事ばかりでは――」

「ある程度、余裕が出れば、人は周囲を見回します。人の支えがなくても、自分の足で立って歩けるようになる。――そうすれば、手を、離します」

「……離す……?」

「はい。我らが手を伸ばした結果、その手を民が取って縋ったとしても――いつでも離すことが出来るように、皇族は、決してその手を握り返しません。一人の手を握り返し、特別に厚遇すれば、『特別扱いだ』と別の民に指を差されます。故に、皇族は、手を握らせることはしても、握り返すことはしません。――特定の民を、地域を、特別扱いはしません。同じ事が起きたとき、必ず同じことが出来ると思うことしか、いたしません。そうでない行いは、全て皇族としてではなく”個人”の行い。……ですが、”個”を持ち、優先する者は、皇族として優れているとは言い難いでしょう。まして、君主として立つ者なら、なおのこと」

 ミレニアは瞳を伏せる。漆黒の睫毛が白い頬に影を作った。

「平和で、安寧が続く治政では、皇族は疎まれます。金食い虫だと言われて、蔑まれます。……ですが、それでいいのです。民が、民同士で、手を取り合って困難に立ち向かうことが出来るのであれば、何より望ましい。その時、我ら皇族は、その平和を守るためだけに知恵を絞ります。有事に備えて、いつでも動けるように」

 ふわ……と春の風が吹いて、薔薇の香りを運ぶ。

 見合いの席に臨むかのように着飾られたミレニアの黒髪と耳飾りを揺らした風は、ゆっくりとクルサールへ向けて吹き抜けていった。

「皇族は、民からの見返りを求めません。彼らは、庇護すべき対象であるからです。彼らに崇められることを心地よいと思い、玉座でふんぞり返ることに快感を覚える者は、皇族に向きません。……近く、近しい者の手によって討たれるでしょう」

「ほう……」

「皇族は、民を選べませんが、民は皇族を選べます。主従の関係も同様です。……我らがイラグエナム帝国も、過去、そうした血なまぐさい歴史がなかったとは言いません」

 長く国が続けば、当然賢帝もいれば愚帝もいた。圧政に苦しんだ臣下は、我慢がならぬと主を弑逆した。正義の心をもって、剣を振るった。皇帝の首をすげ替え、傀儡として操った臣下もいた。そうして哀しい歴史が何度も繰り返された。

「不思議なものですね。民には、手を取ることを推奨するのに、己は手を握り返さない――ですか」

「えぇ。……君主として立つならば、そんなものは、ただの枷でしかありません」

「枷――?」

 疑問符を上げたクルサールに苦笑して、ミレニアはカップを両手で包み込み、水面へと視線を落とす。風を受けた水面が、波紋を作ってゆらゆらと揺れていた。

「皇族は、君主は、『与える者』です。知恵も、金も、労力も、武力も、食料も――時に、己の命も、与えます」

 目の前の青年が、驚きに目を見張って息を飲む。

 ミレニアは苦笑して、静かに目を伏せた。

「昔、私の父が言っていました。臣下や民の悪感情を煽り、弑逆されるその時に――醜く足掻くような皇族になるな、と」

「それは――」

「臣下の反乱は、主の不徳の致すところ。己の悪行の清算を、己の命で賄えるなら、安いものです。うっかり誰かの手を握り返しなどしたら――その”誰か”が”未練”に代わり、”枷”になります。国が惑い、民が悲しむ世の中で――己の首一つで、民が、臣下が、真に救われるならば、喜んで差し出しこそすれ、どうして命乞いなど出来ましょうか」

 目を伏せるミレニアは気づかない。

 ――視界の外で、黒衣の護衛が、静かに拳を握り締めたことに。

「皇族にとって戦うべきは、民でも、魔物でも、敵国でもありません。ただ――己の孤独と、心と、戦え、と……父は、常に言っていました」

「孤独と、心……?」

「はい。――民の手も臣下の手も握り返すことのできぬ皇族は、この世で唯一、他者に救いを求めることが出来ない存在です。……心を許せるのは、本当に近しい、家族だけ。常に孤独と戦い続ける一族です」

「――――……」

「孤独を恐れた瞬間に、我らは為政者としての資格を失います。政の公平性を保つためにも、己の孤独と向き合い、心を強く持ち――死すら恐れず、持ちうるすべてを民のために擲てる者が、真に皇帝にふさわしいものでしょう」

 言い切った後、ミレニアは顔を上げる。

 ふわり、と翡翠が笑みの形に緩んで、青年の真夏の空色の瞳を見つめた。

「――ですからきっと、近いうちに、私の一族は滅びるのでしょう」

 ひゅ――とクルサールが息を飲む音がする。

 穏やかな笑みを浮かべたまま、ミレニアは春の陽気の中で、優しい声音でつづけた。

「我らに出来るのは、せめて最後まで気高く、誇り高く、毅然とした表情で――民の悪感情の全てを背負って、首を討たれることだけです。そうして私の一族が滅びれば、次の誰かがこの国を治めるのでしょう。遠い昔、そうして我が一族が、他の誰かから玉座を奪った様にして」

 ザァ――

 春の風が一陣、二人の間を吹き抜けていく。

 いつも完璧な笑みを浮かべている青年は、その紺碧の瞳を苦しそうに歪め、そっと口を開いた。

「もしもそれが、理想の君主の在り方だと言うのなら――それは、もはや、”神”の行いです」

 口の端から、絞り出されるような声が低く苦く響く。

「その理論ならば、”神”にしか、理想の国家を作ることが出来ないと――私は、そのように、民に伝えるしかできなくなる……」

「ふふ……それで、良いのではないですか?――貴殿の国には、”神”がいらっしゃるのでしょう?」

 何せ――<神に守られし地エラムイド>と名付けられた国なのだから。

「我らは我らのやり方で――貴殿らは貴殿らのやり方で、国を治める。それで、良いではありませんか。……すべては、民が、幸せかどうかです。国の政の良し悪しなど、それ以外に測る指標を持ちません」

 ミレニアは優しい微笑みを湛えて告げる。

 青年は苦悶に歪めた顔を俯かせた。

「とても、残念です。――どうして帝国は、女帝を認めなかったのでしょうか。人でありながら、”神”の思想を持つ貴女を失うなど、人類すべての損失です」

「あら。……今日は、いつにもまして、ずいぶんと褒めていただけますのね」

 クスクス、とミレニアは笑う。

 つい四年ほど前まで、ずっと――ずっと、幼いころから、憧れていた。そうなるのだと決めて、血の滲む努力をした。

 こうしてかつてギュンターと交わした問答をクルサールとなぞる度に思う。

 もしも、あの時、あの夢を諦めなかったら――今ごろ、ギークによる横暴を止められていただろうか。

(ふふ……無意味な仮定ね。――きっと、私は、逆らえない)

 瞳を閉じれば、姿は見えなくても、すぐそこに、いつも傍にいてくれる黒衣の青年の存在を感じる。

 あの日、不思議な光の粒に導かれた先で――世界で一番美しい、紅玉の瞳を見つけてしまったら――

(何度繰り返しても――きっと、何度だって、何を擲っても、手に入れてしまう)

 それは、”個”を持つべきではないと教えられたミレニアが、人生でただ一つだけ、と願った、生まれて初めての、”我儘”だったのだから――

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