第65話 動き出す歯車①

 カリカリ……と小さく羽ペンが羊皮紙を引っ掻く音が部屋の中に響く。

「ミレニア様。お茶の用意が出来ました」

「そう。ありがとう、マクヴィー夫人。この書類を書き終えたら、頂くわ」

 視線を上げることもなくミレニアは書斎の巨大な机に向かって筆を走らせ続ける。マクヴィー夫人は慣れたもので、何も言うことなく静かに控えた。

 最近のミレニアは、いつもこうだ。正式にカルディアス公爵家との婚約が破棄された後、待っていましたとばかりに、今まで日常に詰め込んでいたデビュタントに向けてのダンス練習も、貴婦人の嗜みとしての歌や楽器の練習も全て無くしてしまった。講師として雇っていた貴族たちも、全て暇を与えたという。

 空いた時間で、ミレニアは書斎に籠るようになった。何かの調べ物をしたり、どこかへ手紙を書いたり、何か難しそうな書類を書いたりしている。かつて、女帝になるためにと努力をしていたころの少女時代が戻ってきたかのような毎日だ。

「――……ふぅ。一旦、ここまでにしましょう。夫人、お茶を淹れて頂戴」

「はい、ただいま」

 書類から顔を上げて、ミレニアはマクヴィー夫人へと声をかける。夫人は、淑女らしい洗練された手つきで、ポットからカップへとお茶を注いだ。

 その様子を見ながら、ミレニアはそっとお茶を給仕する夫人の視界に入らぬよう、書類を伏せて脇へとどける。

 それは――紅玉宮に務めている従者たちの、来年の進退を指示するための書類だった。

(次の春までには、紅玉宮の皆に暇を出して、ギークお兄様への上申を完了させなければ……)

 既に季節は年末だ。あっという間に、春が来てしまう。

 ミレニアの婚約が破棄されてからというもの、ギークを筆頭として、反ミレニア勢力とされる皇族たちからの当たりは目に見えて厳しくなった。皇族内で当たり前に共有される情報が伝達されないのは勿論、生活必需品を卸す業者の出入りすら制限されて、従者たちが酷く困っているのもしばしば目の当たりにした。

(次の四半期の予算も削られるでしょうけれど、年度途中では、露骨な予算削減は叶わないでしょう。きっと、この間暇を出した淑女教育の講師陣の人件費で十分吸収できるはず……でも、来年度、一年分の大幅予算削減は、それだけでは乗り切れないわ)

 マクヴィー夫人からカップを受け取って礼を言って、ミレニアはそっと桜色の唇をつける。ふわり、と花の香りにも似た華やかな匂いが鼻腔を擽り、ほっと一息を吐いた。

「そういえば、夫人。末娘は商家に嫁いだと言っていたわね。商売は順調なのかしら」

「えぇ、おかげさまで。……先日の魔物による帝都大規模襲撃の復興作業の余波を受けて、地方でも何かと物入りらしく、忙しくあちこち行ったり来たりしているようですわ」

 そう告げる夫人の顔は、複雑そうだ。「……そう」とミレニアは言葉少なく返し、もう一口、カップに口をつける。

 ミレニアたちが遭遇したあの晩の悪夢は、夜が明けて、情報が精査されるにつれて、とんでもない事態だったことが明らかになった。

 被害状況をまとめれば、昨年壊滅したという区画の倍近い領域が魔物による被害に遭っていた。ちょうどミレニアたちの馬車を襲撃された地域は、どうやら最初に襲撃に遭った地域だったらしく、あの晩予想した通り、生存者は皆無。あの地域を中心に、放射線状に被害が拡大していったようだった。

(途中、私たちの襲撃に戦力を投下してくれたおかげで、帝都の半壊が免れたというのは、皮肉なことね)

 ふ、とカップに視線を落とすと、ゆらり、と水面が揺らめく。

 ロロがド派手に炎の火柱を上げて、そのあと幾度も襲撃を凌いでいたせいだろう。東の救援部隊も動いていたことも手伝って、帝都を蹂躙しようとしていたらしい魔物の群れは、踵を返して最初の襲撃地点に戻って行った。

 最初の襲撃時刻とされるときから、彼らが踵を返したところまでの進軍速度を鑑みれば、あの晩だけで、帝都の半分が壊滅していたとしてもおかしくなかったという。

 それほどに大量の魔物が一斉に襲い掛かった、敵としても心血を注いだ進軍だったのだろう。

「人も物資も足りないでしょうから――ただでさえ年末の繁忙期に重なって、きっと、商人たちは、忙しい盛りでしょうね」

「はい。地方に配備されている軍隊も、帝都に集結させられていると聞きます。あれほどの大規模な襲撃があれば当然ですが――地方の魔物の脅威が去ったわけではありませんもの。私の実家の領地でも、領内の安全確保をどうするか、父が頭を悩ませておりました」

「そう。……そうよね。当然の悩みだわ」

 翡翠の瞳が物憂げに揺れる。解決策を提示してやりたいが、良い案が浮かばない。

 今回の襲撃でかなりの人口を失った帝都だが、それでも元々の数が多すぎるのだ。地方の領地と比べても、まだまだ帝都の方が圧倒的に人は多い。

 何より、国政の中心地であり、経済の要でもある。この地が痛手を被れば、国家としての体裁を保つことすら難しくなるだろう。

(軍隊を引き揚げさせたのは、ゴーティスお兄様とザナドお兄様の指示でしょうね。その判断に間違いはないわ。異議を申し立てるつもりはないけれど――)

 人口が少ないから、被害を受けたときの影響が少ないから――

 ――だからと言って、そこに暮らす人々は、ゼロではない。

 有事の際、痛手を被り、哀しみに沈む人々は、確かに存在するのだ。

(こういう時、執政者というのは、本当に嫌になるわね……どんなに綺麗事を言っても、この判断は大を生かすために、小を切り捨てる、というもの。”小”だと言って切り捨てられた健気に毎日を生きていた者からすれば、理不尽だと不満がたまるのは仕方がないわ)

 ぐ……と下唇をそっと噛みしめる。己の無力が悔しい。

「地方では、最近、魔物の脅威だけではなく、奴隷商人らしきやその息のかかった荒くれ者たちの姿も見かけるようになったとか。……治安の維持も、死活問題のようです」

「そう……」

 苦し気に歪む頬で、言葉少なく返答する。

 あわや帝都の半分が壊滅するかと思われるほどの襲撃だったのだ。復興のための人出は、昨年の襲撃の比ではないだろう。

 そして、季節が最悪だ。冬の到来で生活が苦しくなった貧困層が、口減らしを兼ねて子供を奴隷商人に売り渡す者が増えるだろう。荒くれどもがいるということは、人攫いが横行している可能性もある。

「あれ以来、とても、他人事には思えなくて――……奴隷に身をやつす前に、幼い子供を保護できるよう、旦那様に、うちの領地の中に孤児院を建設したいと申し出たのですけれど、なかなかすぐには……」

「そうでしょうね。……でも、それ自体は素晴らしい行いだわ。伯爵夫人として、誇らしく正しい進言よ。胸を張ってよいわ」

「ありがとうございます」

 ミレニアの言葉にそっと頭を下げた。きっと、脳裏には、左の頬に奴隷紋刻んだ鳶色の瞳をした少年が浮かんでいることだろう。彼が、カルディアス公爵別邸で受けていた酷い仕打ちを目の当たりにして、あんな扱いを受ける子供を減らしたいと思ったのかもしれない。あるいは――どこまでも心根の優しい少年の供養のつもりなのか。きっと、その両方だろう。

「……このお守りがあって、本当に助かりました」

 ぽつり、と呟くマクヴィー夫人は、そっと服の下に入れている首飾りに手を当てた。あの、悪夢のような晩に、彼女たちを救ってくれた”聖印”と呼ばれる首飾りがそこにはあった。

「末娘が嫁いだ家では、このお守りを卸売りする権利を買ったようで、最初の投資を回収しても余りあるほどの利益が出ているそうですわ。今や、国中で飛ぶように売れているとか」

「まぁ……そうね。帝都を救った、奇跡のお守りだものね」

 皮肉げに顔を顰めて、ミレニアはつぶやく。魔物の帝都襲撃を退けた謎の光の存在は、尾ひれはひれを付けて、瞬く間に国中に噂が広まっていった。

 あれ以来、夫人はふと気が付けば聖印に手を触れることが多くなっていた。熱心に聖印の加護を説いてきた末娘の話に耳を傾けるようになり、新しい別の効能を持つお守りも購入したらしい。ミレニアの手前、表立ってお守りやそれに付随する”神”や”救世主”といった考えを口にすることはないが、もはや新興宗教とも言えるそれに傾倒しているといっても過言ではないだろう。

 そんなものは詐欺だペテンだ、と豪語していたミレニアだが、マクヴィー夫人が傾倒することに苦言を呈したりはしなかった。

 未だに、ミレニア自身は、新興宗教もどきの教えなどこれっぽっちも信じていない。”救世主”も”神”も、今も変わらず眉唾物だと思っている。

 だが――八方ふさがりになった人々が、そうした存在に縋りたくなる気持ちは理解できる。ひとえに、この新興宗教が凄まじいスピードで流布しているのは、イラグエナム帝国の執政が誇れたものではないせいだ。

 国家の要である帝都を、みすみす魔物の襲撃の危機に晒し、それに対して根本的な打開案を提示することも出来ていない。重くなるばかりの税金、ほとんど機能していない腐敗しきった政治の世界。

 人々は、暴君による悪政に加えて、今や、深刻な命の危機に脅かされているのだ。八方ふさがりの状況で、縋るべき寄る辺を探している。

 その結果が、今だ。本来、真っ先に頼る先となるべき皇族が不甲斐ないせいで、人々は見たこともない”神”などという謎の生命体に希望を託す。

 まして、マクヴィー夫人は、実際にそれによって命を救われた経験があるのだ。彼女がそうした思想に傾倒していったとしても、それは人々に安心感を与えることのできていない己の一族の不徳の致すところと受け止めるべきだろう。

(とはいえ、あの”お守り”というのも、何か、きっと、カラクリがあるはず。魔を払う、何か特別な――未知の、力があるはずよ)

 そう考えるミレニアの脳裏には、幼いころにギュンターから教えてもらった、亡き母の故郷の風習があった。

 神に守られし地エラムイドと名付けられた集落で、古くから継続されてきた、<贄>の儀式。

 謎に包まれたその儀式だが、魔物の巣に囲まれた絶体絶命としか思えない地域を守り続けてきた歴史だけは事実だ。

 ”奇跡”や”偶然”は、めったに起こらないからこそ価値がある。

 何十年、何百年と続く国防システムとして機能してきた儀式が、”奇跡”の御業などという一言で片づけられてよいはずがない。そこには必ず、法則や仕掛けがあるはずだった。

(お守りの出所は、誰に聞いてもわからない。巧妙に隠されているとしか思えないほど、不自然に情報が出てこないけれど――魔物を退ける力を持つと言うならば、エラムイドと関係している何かであることは間違いないでしょうね)

 ミレニアは、あの晩の後も、ロロに命じて時折城下へ情報収集をさせていた。何よりもまず、明らかにしようと躍起になったのは、あの”聖印”という謎のお守りだ。

 その正体が明らかになれば、国防の要となることは火を見るより明らかだった。

(ロロ言う”情報源”の情報は、今のところ信頼がおけるもののようだから、この仮説に当たりを付けて、もう少し調査を進めてもらいましょう。――帰ってくるたびに、あの独特の匂いをぷんぷんさせているのはどうかと思うけれど)

 ぎゅっと我知らず眉間に皺が寄るのが分かった。

 寡黙で表情筋をピクリとも揺らさない美丈夫は、相変わらず自分にそんな匂いが付着していることに気づいていないのか、気づいていても無頓着なのか、当たり前のような顔をして、甘ったるい移り香を漂わせたまま、着替えもせずにミレニアの部屋に直行して報告に来る。

 毎度毎度、鬱陶しいくらいのその匂いに、ぶち切れそうになるのを、必死に紅玉の首飾りを握り締めて堪えているのだ。

 男を誘うような甘ったるい香水を振りかけた女と、ほんの少し話をしてきただけ――というのは苦しすぎる言い訳だろう。服にも髪にも肌にも、余すところなく付着しているそれは、情報屋と客、という関係性でのビジネスライクな会話で移るようなものではない。明らかに、香水をつけた女とべたべた過剰なスキンシップをしない限り、そんな匂い方はしない、という匂い方だ。

(いえ、いいのよ。言い訳も何も、主である私に、ロロがそんなことをする義理はないもの。彼の交友関係に口を出すつもりはないし、焼け木杭には火が付き易いというわ。いくら私が命じた仕事の途中とはいえ、普段、休みも全て返上してあらゆる物を捧げてくれているロロが、恋人と逢瀬を重ねられるのはその時くらいだものね。多少、業務外のことをしていたって、文句はない。文句なんてないわ、そう、ないのよ、ミレニア)

 ぐっと、無意識で首飾りを握り締める。金の細工が掌に食い込み、痛みで何とか冷静さを保とうと努力した。

 ――彼が匂いを纏わせて報告に来るたびに、ともすれば叫び出しそうになる。

『お前は、自覚がなさすぎる』『自分を一体、誰のものだと思っているの』『私の許可なく、べたべたと他人に手を触れさせないで』――

 そんなことをヒステリックに言い募りそうになるのを、必死に堪えているのだ。

 もしそんなことを口走れば――奴隷根性の染み付いたロロは、あっさりとその”情報源”と縁を切るだろう。

 自惚れと言われてもいい。

 自分たちの間に、恋愛感情の惚れた腫れたなどという関係を超越した絆が結ばれていることは疑いようがないのだ。

 ロロは、どれほど相手が心から愛した女だったとしても――ミレニアが『お前は私の物だから、決して手を触れさせるな』と命令すれば、あっさりとそれを受け入れるはずだ。

 ミレニアへの献身を捧げることこそが、ロロにとっては至上の命題であり――それは、愛する女であったとしても、決して妨げることのできない唯一のものなのだから。

(今、貴重な”情報源”を失うことは出来ない――し、そもそも、ロロの恋路を、私の我儘で邪魔するようなことをしてはいけないわ)

 だから今日もミレニアは、眉間に深いしわを刻むだけで我慢する。募る苛立ちを必死に隠して、従順な護衛兵の報告を聞きながら。

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