第61話 勇敢な守り人③

「ディオ。――怪我は、大丈夫なの?」

「ぇ?あぁ……うん。平気だよ」

 炎に照らされた淑女の顔が心配そうに歪んでいるのを見て、横転させた馬車の車体に凭れた体勢のまま、安心させるようにヘラッと笑って答える。

 突然の魔物の襲撃。――伝説の剣闘奴隷は、噂に違わぬ実力で、主を徹底的に守っていた。

 ディオもまた、必死に全力を尽くしたが――そんな彼の力など、覚悟など、矮小なものだと知らしめるほどの、凄絶な男だった。

(あんなの見せつけられちゃ――送り出すしか、ないよなぁ……)

 つい先ほど、馬で炎の障壁を飛び越えていった二人の姿を思い出し、自嘲する。

 この世で一番安全なのは、間違いなくあの護衛兵の腕の中なのだ。この局面で、大切な主の命を託せるのは、疑う余地すらないほどに、あの男だけだったと断言できる。

「私にも、ミレニア様のような”おまじない”が使えるとよかったのだけれど――キスをすれば、いいのかしら」

「ちょっ――だ、大丈夫だよ!汚いし、血塗れだし、直接口なんか付けたら、おぇってなるって!気持ちだけで、ホント、十分だから」

 傷口に唇を寄せようとしたマクヴィー夫人を慌てて制する。血液に直接唇を触れさせるなどという不浄な行為を、生粋の貴族社会で生きてきた彼女にさせるわけにはいかなかった。

「そんな心配しなくても大丈夫だって!……きっと、ロロの旦那は戻ってくるし――いざとなったら、俺がアンタたちを守る。姫サンも、魔物の援軍が来るのは『最悪の想定』って言ってただろ。さっき、炎を飛び越えて行った先で、たくさんの魔物の悲鳴が聞こえてた。きっと、外にいる魔物のほとんどを旦那が倒して行ってくれたはずだ。三、四匹くらいなら、今の俺でも十分に凌げる」

 早口で必死にまくしたてる少年に、マクヴィー夫人はきゅっと眉根を寄せて目を眇めた。

 こんな幼い少年が、必死に、大人二人を励まそうとしている。その優しさが、眩しくて仕方がなかった。

「……ディオルテ」

「ぅん?」

「ここから無事に帰ることが出来たら、旦那様に、話してみます。――お前を、我がマクヴィー家に迎えることが出来ないか、と」

「ぇ――」

 ぱちくり、と鳶色の瞳が大きく瞬く。言われていることが一瞬理解出来なくて、呆けた顔で夫人を見上げた。

 四十の声を聴く淑女は、優しく、どこか苦みも混じった瞳で、微笑んだ。

「心配しないで。お前がミレニア様にお仕えするということ自体は変わりません。ただ――ミレニア様の”奴隷”では、戸籍の一つも作れない。将来、お前がどこかで、何かを成したいと思ったとき、不便でしょう。……旦那様は、由緒正しいマクヴィー伯爵家に奴隷を迎えるなんて――とおっしゃるかもしれないけれど。どこかの親戚や、知人の家ではなく、他でもない、マクヴィー家の養子として迎え入れられるよう、頑張って、時間がかかっても、必ず説得をするわ」

 少年は、呆けた顔のままただ淑女の顔を眺め続けた。

 奴隷は、買い上げられたときから、法律上は”市民”の称号を得る。正確には、、市民と同等の権利を享受する資格を得る。

 売買契約書には、契約者とは別に、期間限定の市民権を得る奴隷の身分を保証する責任者を書く欄があり、購入された奴隷は、責任者の家の養子として、期間限定で書類上の戸籍を得るのだ。そして、もし再び奴隷商人へと売り払われれば、戸籍は抹消され、再び”道具”として扱われる。

 おそらく、ディオもヴィンセントに買われた際、誰かの養子として登録されたはずだ。勿論、養子縁組をする者は、購入者と同じでも構わないが、帝国三大貴族たるカルディアス家がそんなことを許すはずがない。庶民の家の出の家人の誰かの名前を書いたのだろう。――基本的に、よほど溺愛されている性奴隷でもない限り、貴族が奴隷を養子として迎え入れることなどありえない。血統を重んじ、穢れた血が入ることを嫌うからだ。

 だが、例外がある。――ミレニアだ。

 皇族である彼女は国家が家であり、彼女自身に戸籍がない。皇族は市民にとって雲上人と位置付けられており、皇族の前では顔を上げることすら重罪だ。――そんな彼女に、庶民との繋がりなど、あるはずがない。

 彼女の周囲には貴族しかおらず――彼らは皆、奴隷の血を入れることを嫌う。勝手にそこに名前を書くわけにもいかなかった。

 当然、戸籍を持たないミレニア自身のサインを書くわけにもいかない。

 故に、特例ではあるが――ロロは、法律上は奴隷という身分から解放されているにも関わらず、戸籍がないままである。

 そして、ヴィンセントからミレニアに買い上げられたディオもまた、一度得たはずの戸籍を失ってしまった。

「い、いや、そんな……すっごいありがたいけど、さ。でも――さすがに、奴隷が伯爵家に入るなんて、無茶だ」

「そうかしら。……皇族が、奴隷を従える時代よ?」

「ぅ……いやそうだけど……」

「戸籍がなくては、資格試験を受けられないの。これからお前が心血を注いで努力をして、どれほど有能な召使になろうとも、いつまでたってもフットマンどまり――資格がなければバトラーにはなれないわ。お前が大好きなミレニア様のお世話ができる範囲が限られてしまうのよ。それでもいいの?」

「ぅ、ぅぅ……」

「それに――戸籍がなくては、将来素敵な女性と出逢っても、結婚の一つも出来ないのよ?……ミレニア様は、近い将来、奴隷解放を成すとおっしゃっていたわ。もしも、そんな夢みたいな世の中がやってきたときに――伯爵家の養子という肩書があれば、お前はきっと、引く手あまたよ。望んだ女性とすぐに結ばれるわ」

 ぱちぱち、と鳶色の瞳が瞬かれる。

 それは――そんなものは、夢物語だ。

 法律上で奴隷解放が成ったとして、人々の中から差別意識が法改正と共になくなるわけではない。他の奴隷と違って、大きく目立つ奴隷紋が頬に刻印されている剣闘奴隷には、たとえどんな法が制定されようと、迫害が続くだろう。そもそも、彼女の夫も、彼女の家族も、汚らわしい血を伯爵家に入れることに拒否を示すに決まっている。良くても、知人や遠縁の、自分たちとは無関係の家に入れさせるくらいだろう。

(そもそも、生き残れるかすらわかんない、こんな絶望的な状況で何を――)

 怪訝に眉を顰めそうになって、気が付く。

 ぎゅぅっと淑女が握り込んでいる手の中に、小さな温石がある。こんなに轟々と燃える炎の中、寒いはずがない。むしろ、額にはじっとりと汗がにじむような気温だった。

 それでも、その手はしっかりと温石を握り締め――カタカタと、小さく震えていた。

「――――……うん。うん。へへっ……そっか。家族が、出来るのか。俺にも」

 真っ赤な炎に照らされる淑女の頬は、どこか青白かった。――きっと、今にも恐怖で叫び出したいのだろう。気を失いたいのだろう。

 それを、必死に、温石を握り締めて――少年に、”夢”を見せようと、してくれている。

 実現不可能に思える”夢”を褒美に、己を奮い立たせ、少年を奮い立たせ、生きることを諦めまいと――万が一の時も、誇り高く最期の瞬間まで生きようと、強いメッセージをくれている。

 ――”人”として、認めてもらえて、いる。

「でも、伯爵家って、貴族の中では結構地位が高いんだよな?」

「えぇ」

「じゃあもしかして――頑張れば、俺、将来、姫サンと結婚とか、出来るかな?」

「!?」

 流石に驚きに目を見張って少年を二度見する。しかし少年は、あっけらかんと笑って、白い歯を見せた。

 どうせ、夢物語を騙るなら――飛び切り素敵な、荒唐無稽な、奇跡みたいな夢を語りたい。

「……それは……そうね。お前の頑張り次第ではないかしら」

「お!?マジで!?頑張ればいける!?」

「ミレニア様はお優しいから――今の状況では、貴族の中に、ミレニア様との婚姻関係を結びたいと申し出る者はいないでしょう。そんな時に、お前が本当に素晴らしいバトラーとなって、頼りにされて、ミレニア様のお心を射止めることが出来たなら、あり得るかもしれないわね」

 あまりにぶっ飛んだ未来を語った少年に、思わず頬を緩めて、クスリと笑みが漏れた。

「でも、相当頑張らないといけないわよ?――少なくとも、ロロ殿以上の、信頼を勝ち得なければ」

「うわぁ、そりゃ大変だ。ハハッ……あんなバケモンと俺、戦わなきゃいけないのかー」

 まだ数刻しか共に過ごしていないディオですら、二人の間に流れる雰囲気が、他者が割って入れるようなものではないとわかっていた。お互いが、互いにとっての唯一無二の特別な存在なのだと知らしめるような、あの濃密な気配を纏う絆に割って入るのは、相当骨が折れそうだ。

「でも、ロロの旦那は戸籍、ないんだろ?――あの人、姫サン以外ホントどうでもいい、って感じだったから、誰かの養子になるとか、興味なさそうだもんな。養子になって変なしがらみが出来るくらいなら、無戸籍のまま一生姫サンの傍にいたい、とか言いそう。そもそも、姫サンをそういう対象として見ること自体考えたこともなさそうだ。奴隷ごときが視界に入るのも手を触れるのも烏滸がましい、くらいのこと考えてそうだし……ぉ?もしかしてこれ、ほんとにワンチャンあるんじゃねぇか?」

 余りに可笑しくて、喉を逸らせて天を仰ぎ、ケラケラ、と無邪気に笑って見せる。

 あぁ――あり得ない、荒唐無稽な夢だと、わかってはいるけれど。

 想像するだけで、なんて幸せな、夢だろう。

「……なぁ。もし、アンタの家に入れたらさ」

「えぇ」

「母ちゃん、って呼んでもいいのか?」

「――――」

 笑って見上げた空は、月明りの一つもない、漆黒の空。

 轟々と立ち上る、物騒な炎の壁によって切り取られたそれは、いつか部屋の中から見たのと同じ、狭い空。

 だけど――今まで見た中で、一番広く、希望に満ちた空。

「……お母様、ならば許しましょう」

「ハハッ……うん。わかったよ。練習しとく。――”母様”」

 ニッと白い歯を見せて、少年は晴れやかな笑顔を見せ――凭れていた馬車から、体を起こした。ブン……と軽く素振りをするようにして剣を振り、肩に担ぐ。

 ドクン……と、マクヴィー夫人の心臓が震えた。

「……さてと、母様。――時間みたいだ」

「「――――!!」」

 夫人とファボットが、そろって顔を青ざめさせ、息を飲む。

 ゆらゆらと、炎の障壁が揺らめき始めていた。

「ディオっ……!」

「ほら、馬車の中に入っていてくれ。……もしもの時は、俺が守るって、姫サンと約束したんだ」

 思わず身体を乗り出そうとした夫人を、ファボットがなだめるようにして馬車の中に引き入れる。

 ガチャンッ……と重たい鉄の扉が閉まる音が響いた。

 まるで、奴隷小屋にいたころを思わせるその音に、安心する日が来るとは思わなかった。

 この鉄製の扉が閉まる音は――どれほど開けたいと焦がれようと、決して開けられない物の象徴だったから。

「ふぅ……さて。ロロの旦那は、どこまで来てくれてるかな」

 ぎゅっと剣を握り締めて、震えそうになる足に力を入れる。

 先ほどまでは、人知を超える獣を相手にしていても、すぐそばに、圧倒的な世界最強の男が傍にいてくれると言う安心感があった。仮に自分が倒れても、馬車の中の愛しい存在だけは守られるという、不思議な信頼があった。

 だが今は――自分が突破されれば、それは即ち、この場の全員の死と同義だ。

「ハハッ……こえー……」

 軽口と共に笑い飛ばそうと嘯く頬は、ひくりと引き攣って、上手く笑みの形を作れなかった。ぶるり、と身体が大きく震える。

(大丈夫。大丈夫だ。旦那が駆けて行ったとき、獣の悲鳴が五つくらい聞こえていた。敵の残りが、五匹以下なら、俺一人でも、守れる。……それに、きっと、旦那のことだ。殺しきれなかった奴らにも、去り際に炎くらいぶちかまして行ってくれてるだろ。残ってる魔物が負傷してたら、ラッキーだ)

 腕から流れた血液のせいで、少しくらくらする頭を振って、弱気になりそうな自分を叱咤激励する。

 炎は目の前でゆらゆらと大きく揺らめいている。――今夜、何度も見た、その光景。

 ひと際大きく揺らめいたそれが――ふっ……と幻のように立ち消える。

「――――――」

 グルルルルルル……

 炎の向こうから聞こえる唸り声は、闇夜の中から絶望を連れてやってきた。

「――っ……ハハッ……ウケる。さっすが姫サン、ってことか」

 ひゅっ……と息を飲んだ後、軽口が口を吐いた。

 敬愛する主は、とてもとても優秀だったらしい。

 最後の最後まで――しっかりと、戦況を読み切っていた。

『これは、最悪の想定だけれど――もし、ここ以外の居住区も襲われていたとしたら、敵はそちらに割いていた戦力をこちらに投下してくる可能性がある』

「クソッ……!」

 頭の中に蘇った優秀な主の言葉に、どうしようもない思いが募って口汚く罵る。

 闇夜の中――大通りいっぱいに広がる無数の獣たちの瞳が、こちらを見つめて、爛々と輝いていた。

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