第60話 勇敢な守り人②

「っ……てぇ……あんの、クソ野郎……毎日毎日、思いっきり殴りやがって……」

 ジャラリ、と鎖の音を響かせながら、苦悶の声を響かせる。

 新たな主の名前は、ヴィンなんとか、とかいうらしい。長ったらしくて覚えにくくて、聞いた傍から忘れ去った。

 黒い軍服に身を包んだ屈強な男だ。職業軍人なのだろう。荒事にも慣れていて、家人と一緒になって、ストレス発散のためのサンドバッグとして少年をいたぶる趣味があるようだ。

「これじゃ、労働奴隷のころと一緒じゃねぇか……チッ……クソが……」

 特に、今日蹴られたわき腹の少し上あたりが痛い。――きっと、この感触は、骨が折れているか、ヒビが入っているか。

 与えられたのは、簡素な傷薬を一つだけ。――これで、どうやって骨折を治せと言うのか。

「はぁ……まぁでも、寒くはないし、猛獣と毎日戦わされることもなさそうだから、奴隷小屋よりましなのかな……」

 傷を庇いながら億劫そうに体を起こし、傷薬を手に取って乱暴に痛みを発する箇所へと塗りたくる。鞭で叩かれた箇所はところどころ皮膚が裂け、痛々しい生傷を呈していた。

 ぱちぱちと、暖炉が爆ぜる部屋に入れられているのは、生まれて初めての体験だ。――もう、冬が来るたびに、凍死する心配に怯える必要はないのだろうか。

「――――……」

 少年は、少し考えて――そっと、手荷物の中から温石を取り出した。

 それを暖炉の火の傍にかざし、温める。しばらくして、ふわりと心を緩める熱が手を伝わってきた。

 もう、この石は必要ないのかもしれない。

 だけど――いつだって、少年の命を守ってくれたのはこの小さな石ころだけで。

「ふぅ……あったけぇ……」

 口の端には、思わず笑みがこぼれる。

 手の中に石ころを握り込んで、少年は窓へと近づいた。

(――鉄格子が嵌ってない、窓)

 なんだか妙な気分だ。外を見上げれば、美しい夕焼けが空いっぱいに広がって、黒い鳥がすぅ――と空を横切っていく。

 ぴたり、と手を当てると、冷たいガラスの感触が伝わってきた。

(命の危険が少なくなったとはいえ――やっぱり、”自由”はないんだよな……)

 ジャラッと耳障りな音を立てた鎖に、自嘲の笑みを漏らして、微かな痛みを発したわき腹を抑える。

 どこまで行っても、この枷から解き放たれて、自由に手足を動かすことは出来ない。

 いつだって、こうして四角く切り取られた空を、光の射さない陰の世界から羨ましそうに眺めるだけの日々。

 四季と時間帯とで、くるくると表情を変える空が、好きだった。奴隷小屋の小さな窓から、鉄格子越しに、外に広がる無限の世界に想いを馳せていた。

 絶対に手に入らないものだとわかっているから――だからこそ、強く、強く、焦がれた。

(死ぬときは――空の下で、死にてぇなぁ……)

 屋敷の中で、暴行の末にくたばるのではなく――せめて、屋外で、あの広々とした空を見て、死にたい。

 見飽きた汚泥にぬかるむ地面ではなく――広々とした高く美しい空を見て――



 そして――とある、雪が降りそうな、曇天の午後。

 今日の空は美しくないなと思っていたら、いつものごとく呼び出され、家畜のように鎖を引かれて連れられた先で――


 ――女神に、出逢った。


 生まれて初めて、枷から解き放たれる”自由”を知った。

 首も、手足も、羽が生えたように、軽かった。

 ――このまま、世界の果てまでだって行けるような気がした。


 この女神に仕えたい、と思った。

 女神のために命を使いたい。女神のために生きて、死にたい。


「期待しているわよ、ディオルテ。――ディオ」


 ”宝物なまえ”をもらった。キラキラ輝く、宝石みたいな、自分だけの宝物。


 遠い昔に捨てたはずの”心”が叫ぶ。



 ――嬉しい。



「お前の荷物はそれだけなの?」

 屋敷を出るとき、女神は驚いたように少年――ディオの手の中に視線を落とした。

 簡素な最低限の着替えと、温石。ここへ来た時に与えられたひと振りの剣。――それだけが、ディオの持ち物の全てだった。

「あ、そうだ。今日は寒ぃから――これ、二人で使ってくれ」

 少し擽ったい気持ちで、そっと、自分の命を長年支え続けてくれた石を手渡す。

「汚い石でごめん。でも、ないよりマシだと思うから――」

「ふふっ……ありがとう。大切に使わせてもらうわ、ディオ。……ねぇ、マクヴィー夫人」

「はい」

 優しく、淑女が微笑む。――母のように慕って良いと言われた、慈母のような女性だった。

 『母』の記憶などどこにもないが――この、慈愛の塊のような笑みをたたえる女性が『母』となってくれるなら、一体どれだけの幸せだろうか。

「――――……」

 御者台に乗り込もうとして、ふと、いつものように空を見上げる。

 今にも雪が降りだしそうな、鈍色の曇天は、今朝見たときと同じく、決して綺麗とは言い難かったが――

 どこまでも、広くて、近くて――手を伸ばせば、届きそうで。

 ふっ……と手をかざす。枷を外された両手は、羽が生えているかのように軽かった。

(――飛べそう……)

 空を自由に飛んでいく鳥の姿を思い出す。もう、今の少年には、鎖を引いて無理やり地面へと引きずり戻す者はいないのだ。

 今朝と変わらない曇天は――今のディオには、まるで虹色にキラキラと輝いているかのように思えた。

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