第40話 忍び寄る影③

 ギュンターの崩御から三ヵ月が経ったころ――

「姫様、他に何かご用命はございますか?」

「いいえ、大丈夫よ、マクヴィー夫人。今日も一日ご苦労様」

 寝つきの良くなる茶を淹れたティーセットをいつもの位置において、マクヴィー夫人は穏やかに微笑んだあと、すっと優雅に貴婦人の礼を取った。

 頭を下げた拍子に、キラリと夫人の首から何かが覗いた。

「……あら?」

 有能な筆頭侍女の首元に、彼女にはあまり似つかわしくない銀色のアクセサリーが光ったのが見え、ミレニアは疑問符を上げる。

 マクヴィー夫人は腐っても中伯爵の家の人間だ。年齢も、既に四十を超えようかという夫人である。

 淑女にふさわしく、上等な素材で造られた、派手派手しくはない落ち着いた細工物を身に着けるならば理解が出来るが、彼女の首元に、安物の筆頭でもある銀細工を身に着けている違和感は強烈だった。

(銀に見えたけれど、実は白金だとか……?いえ、白金があんなにくすんでいるとは思えないわ)

 マクヴィー夫人は、物静かだがよく気が付く優秀な侍女だった。自分が身に着けるアクセサリーの手入れを怠るようなずぼらな性格をしているとは思えない。

「ねぇ、夫人。――最近は、銀細工が貴族の女性たちの間で流行しているのかしら」

「え?……あっ……!」

 賢い侍女は、すぐにミレニアの質問の意図を悟ったのだろう。ハッとした顔で首元を抑え、礼をしたときに外に飛び出てしまったらしき鎖の部分をササッと服の中に仕舞い込む。

「も、申し訳ございません」

「ふふっ、何を謝ることがあるの。アクセサリーは個人の趣味でしょう。職務に支障をきたさない物であれば、何を身に着けても構わないわ。……ただ、夫人の好みとは異なる気がしたから、気になって。貴族の女性の流行であれば知っておきたい、と思ったから尋ねただけよ。他意はないわ」

「は、はい」

 何やら気まずそうにうなずいた後、夫人はそっと首元の鎖を引き抜く。

「実は、末娘からのプレゼントなのです」

「まぁ、それは素敵ね。半年前くらいに成人して、お嫁に行ったお嬢さんかしら」

「はい。その節は、誠にありがとうございました」

 結婚の祝いを贈ったことを言っているのだろう。夫人は丁寧にもう一度頭を下げる。

「その、末の娘ですので、貴族の家ではなく、領地の中で一番大きな商家に嫁がせたのですが――」

「えぇ、聞いているわ。行商が多く家を空けることが多いけれど、堅実な商業を営む家の、勤勉な男性との素敵なご縁だったと」

 ミレニアに自由にできる金は少ないが、それでも心ばかりの贈り物を贈った記憶がある。貴族の暮らしから、裕福とはいえ平民の暮らしへと変わる戸惑いや苦難もあるだろうと、若い少女の不安を慮ったためだ。

「はい。その娘が、お守りとして夫から勧められて身に着けるようになった、というのがこの首飾りなのです」

「お守り……?」

 じっとミレニアは興味深げにマクヴィー夫人の首に下がっている銀細工を眺める。

 ややくすんだそれは、お世辞にも高価とは言えないだろう。貴金属としての価値はほぼゼロに近いはずだ。円形の中に、不思議な紋様が刻まれたそれは、手の中に握りこむことが出来る程度の小さなものだった。

「はい。元々は、娘の夫が、行商の途中で見つけたもののようです。持っていると、魔を払うと言われるお守りらしく……」

「魔を払う……とは?」

「魔物が襲ってこなくなるらしいですわ」

「!?」

 驚きのあまり、ミレニアは思わず夫人の顔を勢い良く見上げる。

 マクヴィー夫人も、困ったような顔でミレニアを見返した。

「そんな眉唾物を……と思う姫様のお気持ちはわかります。ですが、行商は危険と隣り合わせ。様々な地方に赴くこともあり、土着の信仰には詳しくなるそうです。その中で、そうした縁起を担ぐこともあるのだと」

「ま……まぁ……それで、心が軽くなるのであれば、別に、責めはしないけれど……」

 基本的に、ミレニアは非科学的なものをあまり信じていない。唯一、自分が薬師として治療を請け負う際に、『おまじない』をすると、薬の効きが早くなる――こともある、というのを、半信半疑で聞き流しているだけだ。

 おまじないなど、結局は思い込みの力でしかない。ミレニアの『おまじない』で傷の治りが早くなった、などと言われても、それは患者本人の治癒力が高かったか、薬が効きやすい体質だったのか、あるいはミレニアに忖度しておべっかも込みで告げているかのどれかだと思っている。

 しかし、人間の思い込みの力は、時に思いもよらない力を発揮することがあることも知っているため、ミレニア自身は信じていないが、ミレニアの『おまじない』で傷や病が早く治った、という者をあえて否定したりはしない。

 マクヴィー夫人がもらったというお守りも、そうした類の、思い込みの産物だろう。

(何を信じるかは人それぞれだから、好きにすればいいけれど――金額が気になるところね)

 帝国が、公式の宗教を認めていないのは、宗教というのは弱い心の拠り所になった末に、悪事に利用されることが往々にしてあるからだ。

 神の教えがどうだのと言って、詐術を働く者は古来からどれほど弾圧してもどこかに必ず沸いてくる。最もよくあるのが、お守りだのなんだのと言って、何の変哲もない石ころや像や壺や絵画などを法外な額で買わせるという手法だ。

 ゆえに、帝国は公式の宗教を持たない。神が存在するとすれば皇族こそがふさわしい。皇族は、税金という形で民から金品を献上させるものの、それを必ず国政という形で還元する。その使い方に納得がいかない場合もあるだろうが、詐欺師のように己の懐に入れられてしまうことはない。必ず帳簿が残り、不正があればどこかに記録が残る。

 イラグエナム帝国は、神に見放された国だ。人々を脅かす魔物が蔓延るこの大陸で、決して優しくはない自然を相手取り、生きていかねばならない。存在自体が怪しい、誰も見たことのない”神様”とかいう謎の生命体に縋り、何の足しにもならないお祈りだの儀式だのに頼るのではなく、皇族という確かな存在が、徴収した税を元手に様々な施策を講じて国を運営し、そこに住まう人々を救い、恒久の幸せへと導いていく。

 故に、皇族たるもの、決して己の欲を優先させてはいけない。常に民を想い、民のために、己を擲つ心構えを持たねばならない。

 飢饉のときは、己が飢えても民に国庫を開いて食物が行き渡るようにする。他国からの侵略や魔物の襲撃の報があれば、いの一番に駆けつけて、自国の民を守らねばならない。戦乱で荒らされた大地の復興も、戦後経済の混乱の立て直しも、全てを請け負うのは皇族の責任だ。

 幼いころから、女帝になるため、骨の髄まで染みわたらせた父からの教えを思えば、ミレニアはどうしてもマクヴィー夫人の首元にかかる銀細工に懐疑的な感情しか抱けなかった。

「ミレニア様のお気持ちはわかります。詐欺に遭っているのではないか、ということですよね。私も最初、疑いました」

「あ……ご、ごめんなさい」

 つい、考えが顔に出ていたのだろう。気まずそうに謝ると、ふるふる、と夫人は優しく頭を振った。

「大丈夫です。……ですが、ご安心を。このお守りは、本当に安値で手に入れたらしいですわ。娘の夫は商人ですから、貴金属の価格の相場は知っています。その知識から考えても、購入したときの金額は、原価にほんの少し付け足した程度しかないのでは、と言っていたそうです」

「え……?」

 再びミレニアの眉が怪訝そうに寄せられる。

 今度は、経済の観点での不信感が募ったからだ。――こんな安物の貴金属を、原価と変わらぬ値で販売するなど、それはそれで、その売主は何で儲けていると言うのか。

「そんな価格で手に入れたので、仮に効き目がなくても仕方がない、何かのご利益があれば幸い――という程度の、とても軽い気持ちで手に入れた物らしいのですが」

「?」

「どうやら――かなり、効き目があったようで」

「……ぇえ……?」

 今度こそ、ミレニアの美しい面が思い切り怪訝に歪む。

「行商の途中の街道で、小さな魔物に襲われてしまったらしいのですが、今にも食われる、という状態のときに、こう――このお守りから、ピカッと光が放たれたかと思うと、魔物が怯んで、踵を返して逃げて行ってしまったそうですの」

「――――……マクヴィー夫人。私は今、何を聞かされているのかしら……?」

 今時、子供でもそんなおとぎ話で喜ばない。いたって真面目な夫人が、幼稚で非現実的な創作絵本並の物語を紡ぐことに頭を痛め、ミレニアはふるふる、とこめかみを抑えて頭を振った。

「私も、娘からその話を聞いたとき、同様の反応をいたしました。しかし、娘の夫はそれを本当に熱弁して、嘘を言っている様子ではないらしく、一族分の首飾りを手に入れて帰ってきたとのことで、私にも、と」

(……なるほど。その、”一族分の首飾り”の購入代金で儲けているわけね。――結局、ペテン師じゃない)

 ミレニアは呆れながらも一つの謎が解決したことに、はぁ、とため息を吐いた。

 何を信じるかは個人の自由だが、いつも良くしてくれている筆頭侍女の末娘が嫁いだ家の人間が、そんなペテンに騙されるような男だと言うのが心配でならない。

「どうやら、魔を払うだけではなく、それぞれに効果が異なるお守りがあるようです。傷や病の治りを促進したり、疲労を取ったり、憂鬱な気分を晴らしたり――一番売れているのは、商人や旅人の旅路の無事を祈る退魔のお守りらしいですが」

「ますます胡散臭いわね……」

 そんなものに効果があるなら、街の防衛にあたる軍隊は要らないし、薬師も必要ない。

「まさか、夫人もそのお守りの効果を信じているのかしら?」

「いえいえ、とんでもない!……ですが、どれだけ彼女らに、要らない、そんなものは身に着けない、と突っぱねても、末娘もその夫も、『お母さまのためだから』としつこくて……ついに根負けして、身に着けているだけです。さすがに、この年齢で、このような安物を堂々と身に着けるのは恥ずかしく、職務中はこのように隠しているのですが」

 伯爵夫人がそんな安物を身に着けているとなれば、家計事情が悪化しているのでは、と変な勘繰りをする者もいるだろう。マクヴィー夫人としても、迷惑極まりない話だろうが、そこはやはり末娘への愛が勝ったのだろうか。邪険にすることも出来なかったようだ。

「とりあえず、夫人の気が確かなようで安心したわ。――どんなからくりがあるのか、インチキなのかはわからないけれど、もしも本当に魔物に襲われそうになって救われた、などという体験をしてしまったら、行商人や旅人の間で、そのインチキなお守りが瞬く間に広がりそうね」

 そして、旅人や行商人は領地から領地を移動し、国内を隅々まで歩いていく。

 そのうち、庶民の間で、爆発的な流行が起きないとも限らない。

「ここ数十年、新興宗教に関する詐欺の話題など、とんと聞かなくなっていたはずだから、民もうっかり信じてしまいそうだわ。……あまりに酷くなってきたら、その首飾りの購入を禁ずる法律を作らなければならないかもしれないわね」

「そうですね。そういわれてみれば、このお守りにも、様々なエピソードが付与されて売られているらしいですから、まさに新興宗教になりかねませんね。――この首飾りは、”神”の声を聴く”救世主”が授けたお守り、だそうですわよ」

「それは……これ以上ない胡散臭さね……」

 半眼で呻くミレニアに、マクヴィー夫人も苦笑して頷き、そっと指で安物の銀細工を持ち上げる。

 チャリッ……と小さな音がして、安物の銀が光を跳ね返した。



「その名も――”聖印”、と言うらしいですわ」



 ――――歴史が、動こうと、していた――

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