第35話 主の矜持①
皇帝崩御の知らせはその日のうちに風のように帝国中を駆け巡り、国中が悲嘆に暮れ、哀しみに包まれた。
だが、いつまで悲しみに暮れているわけにもいかない。時間は、待ってくれないからだ。
ギュンター崩御の知らせの後、すぐさま皇城は慌ただしくなった。ギュンターが床に伏せってからのここ二年ほどは、実質長兄のギークが皇帝の実務をこなしていたため、国家の運営における混乱は少ない。しかし、皇帝崩御となれば、やることは山積みだ。国葬の手配をせねばらならないし、ギークの戴冠式も待ってはくれない。国内にはもちろん、近隣の小国にも知らせをやる必要があるだろう。
バタバタと皇城全体が慌ただしくなるのを見ながら、第六皇女ミレニアは、独り静かに、己に割り当てられた紅玉宮へと戻ってきた。
「「……おかえりなさいませ、姫」」
紅玉宮に配備されている侍従たちが、そろって主を出迎える。筆頭侍女のマクヴィー夫人は勿論、ガント大尉やドゥドゥー夫人――そして、奴隷紋を頬に刻んだ馴染んだ顔が、そこにはあった。
「えぇ。出迎えご苦労様。――お忙しいお兄様たちの邪魔になるといけないから、戻ってきたわ」
少女はどうということもない、という表情でそう言って、従者たちの顔を上げさせた。
――それは、真実ではなかった。嘘でもないが。
今の皇城は、少しでも人手が欲しいはずだ。頭の回転の速いミレニアがいて助かることはあれど、邪魔になることなどはないだろう。
だが、ギュンターとギークの仲がお世辞にも良好とはいえなかったことは、貴族社会では赤子でも知っていることだ。ギュンターからギークに正式に皇帝としての実権が移るとなれば、貴族たちの勢力図も塗り替わる。今後、どさくさに紛れて、きな臭い駆け引きがいたるところで繰り広げられるようになるのは間違いないだろう。
そんな中で、偉大なる父王が崩御した後も、皇族の権威を保ち続けるためには、皇族が一丸となる必要があるが――
(……まぁ、私が、皇族の一員として、認められるはずがないわよね)
今日、皇城にいた兄たちの顔を思い浮かべて、ミレニアは微かに瞼を下げる。
ギーク、ゴーティス、グンテ。彼らはミレニアを疎ましく思っている筆頭と言ってもいい。その他の兄姉も、ザナド以外は皆、ミレニアを好ましくは思っていないだろう。ザナドとて、ミレニアの能力を認めているだけで、決して味方になってくれることはない。――嫌われてもいないとは思うが。
ただ、今日皇城にいる兄らが考える『一丸となるべき皇族』の中に、ミレニアの名は連ねられぬということだ。
故にミレニアは、独り静かに紅玉宮へと戻ってきた。
これから先、カルディアス公爵家へと嫁ぐまでの数年間、この皇城内でのミレニアへの冷遇は、顕著なものになっていくだろう。ギュンターの後ろ盾を失った影響は計り知れない。
「明日は朝から国葬の準備で追われることになると思うわ。お前たちも忙しくなると思うから、今日は全員早めに休みなさい」
従者を不安にさせるのは、最低の主――
ミレニアは、今日命の灯を絶やしたばかりの父から昔に教わった心構えを思い出し、今後の不安など微塵も感じさせぬ表情と声で言い放つ。
「私も、今日は早く休むとするわ。……マクヴィー夫人。湯浴みの準備を。寝る前に、寝つきが良くなるお茶も淹れてほしいわ」
「かしこまりました」
「ガント大尉、今日の巡回の兵の数は最小限でいいわ。お父様がお亡くなりになって、実家に戻り、指示を仰がねばならない者もいるでしょう。一人か二人がいればそれでいいわ」
「は……で、ですが――」
「大丈夫よ。お父様が亡くなったのだもの。――私は今、皇族の中で一番安全だわ」
心配してくれたガントを前に、ふっ、と思わず自嘲の笑みが漏れる。
今、この瞬間――ミレニアの価値は、皇族の中で最も低いと言わざるを得ない。
少し前までは、皇族の中で一番価値がある女だった。――現皇帝が、瞳に入れても痛くない、と誰の目にもわかるくらいに溺愛している娘だったからだ。
かつてならば、ミレニアを誘拐して人質に取ることが出来れば、おそらくギュンターは酷く狼狽し、いくらでも要求を呑んだことだろう。ミレニアを暗殺すれば、ギュンターの心を乱せたに違いない。間違いなく、政務は滞り、勢力を拡大するチャンスとなったことだろう。故にミレニアは、幼いころから、何度も誘拐や暗殺未遂の危険に晒されて生きてきた。
だが、ギュンターが死んだ今、この皇城で最も力を持っているのは、ギークだ。彼に取り入ろうと思うなら、彼に疎まれているミレニアには何の価値もない。ミレニアを攫ったり殺したりしたところで、ギークが喜ぶことはあれど、哀しみ狼狽することなど期待するだけ無駄だ。
つまり今、ミレニアは皇族の中で誰より危険が少ないと言えよう。――誘拐の危険も、暗殺の危険も、何一つ彼女の身には迫っていない。
(今日、ギークお兄様を押しのけてお父様の枕元に縋ってしまったのが、決定的だったわね。――必死だったとはいえ、あれは悪手だったかもしれないわ)
あの時の長兄の、忌々し気な大きな舌打ちを思い出し、重いため息を吐く。
今、こうして、血の繋がった父の死後に、彼の弔いに関する会議の一つにも参加させてもらえないほどの現状こそが、これ以上なく兄の不遜を買ったという証拠に違いなかった。
ガントの何とも言えない顔に苦笑して、何も言わず自室へと向かおうとするミレニアに、ふっ……と風のように黒い影が寄り添った。
「――姫」
褐色の左頬に、見慣れた紋を入れた、美青年。
「――お前が、私の視界に入ってくるとは、珍しいわね」
口から飛び出た声音は、思いのほか棘があった。自分で自分の言葉にやや驚く。
先ほどから、つい、言葉が皮肉気になるのは、父の死の動揺を隠そうとしているからかもしれない。
(――従者の前で、主が揺らいではいけない)
もう一度、敬愛する父の教えを心に刻み、心を落ち着かせるように、深く息を吸った。静かに瞳を閉じ、もの言いたげな紅玉の瞳を視界から意図的に消す。
あの、吸い込まれるような瞳を見ていては、駄目だ。
――心が、揺らいでしまいそうだから。
「……ロロ」
「はい」
「お前に、今夜の巡回を任せるわ。――ガント大尉。そういうわけだから、全ての兵を今日は帰らせていいわよ」
「なっ……!」
「一晩の護衛など、ロロが一人いれば十分だわ。――そうよね?ロロ」
「はい。必ず、御身をお守りします。――命に代えても」
「そういうわけには――せめて、私だけでも!」
蒼い顔でガントが言い募る。壮年の優秀な護衛兵は、いつの間にかミレニアに深い忠義の念を抱いてくれていたようだ。
(とはいえ……明日からは、護衛の兵が減るかしら。――まぁ、仕方のないことだけれど)
漆黒の長い睫毛が伏せられ、白い頬に影を作る。
もともと、ミレニアにつけられていた護衛は、第六皇女の護衛としては豪華すぎるという点で、ふさわしくない者たちばかりだった。それはひとえに、ギュンターの鶴の一声、職権乱用の成果だ。
誰も彼も、ミレニアを主として慕ってくれていたし、感情だけを考えればここで働き続けたいと言う者ばかりだろう。女帝を目指そうと志していた彼女は、臣下として使えるに足る優れた主に他ならない。
だが、ギークが実権を握るようになる今後、ミレニアの周囲にそのような人材の無駄遣いを許すはずがないだろう。彼らの実力や貴族としての格を思えば、本来、新皇帝たるギークや、次兄あたりに仕えるべき者がほとんどだからだ。早ければ明日、遅くても一週間以内には、紅玉宮の抜本的な人事異動が成されることだろう。
兵士の実家の人間達も、ギュンター亡き今、家の勢力を拡大するために何の役にも立たない皇女となったミレニアに、大事な勢力拡大の足掛かりとなる息子を預けておく必要はない。人事異動の発令は、本人たちの意向など関係なく無情に実施され、この紅玉宮からは蜘蛛の子を散らすように人がいなくなっていくだろう。
(――大丈夫。……大丈夫)
ぎゅぅっとミレニアは無意識に胸の首飾りを握り締める。
――この世界で、唯一、自分を守ってくれるお守り。
「好きにしたらよいわ。――マクヴィー夫人、行きましょう」
「はい」
指先から伝わる、冷たく大きな硬い感触だけが、少女をいつでも奮い立たせてくれる。
ミレニアは、毅然とした表情のまま、ドレスをひるがえして自室を目指していった。
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