第34話 別離の日⑤

 バタバタと、およそ淑女らしからぬ無粋な足音を立てて、必死に廊下を駆ける。

 ここは、皇帝の居住区。その中でも寝室に近いこのエリアは、皇族の血を引く者と、特別に許可を与えられた者しか足を踏み入れることは許されない。――たとえ、専属護衛であったとしても。

 ゆえに、ミレニアは一人、必死で己の足を駆使して前へ前へと駆ける。運動音痴を極めるミレニアの足の遅さに顔を顰め、ザナドはさっさと先に行ってしまった。その背中を恨めしく思いながら、遅々として進んでいる気がしない足を必死に動かす。

(お父様っ……!)

 幼いころから通いなれた廊下は、大した長さはなかったはずだが、気ばかりが急いて、まるで先の見えぬ回廊に迷い込んだような錯覚を覚える。主が病床へと臥せってからは、火が消えたように静まり返っていたこのエリアは、今日も変わらず、しん……と虚しい静寂に満ちていた。

 残暑が厳しい季節にもかかわらず、ぶるっ……と背筋が寒さに震える。はぁっ……と荒い吐息が唇から洩れた。

 幾重にもレースが折り重なった豪奢なドレスの裾が、まるでミレニアの足を引き留めるかのように執拗に絡みつき、いつも以上に前に進んでいる気がしない。泥濘の中をかき分けて進んでいるかのような錯覚。

 薬師の才覚もあるミレニアだ。――病床の父を訪ねる度、その顔を見れば、病状は大体推し量ることが出来た。

 いつも、覚悟だけはしていた。――それくらい、いつ消えてもおかしくないくらい、彼の命の灯は、情けなく揺らめいていた。

 それでも、どこかで期待していた。

 昔のように――普段は『厳格』という言葉が服を着て歩いているかのような厳しさを持つ父が、ミレニアの前でだけ、目尻を蕩けさせるように下げて優しく微笑むのを。

 ミリィ、と優しく穏やかな声で、愛しそうに愛称を呼んでくれるのを。

「お父様っ……!」

 口に出して叫び、必死に転びそうになりながら駆けると、永遠に思えた廊下にも終わりが来て、見覚えのある父の居室の扉が見えた。信頼のできる護衛兵に固められたその扉は、重々しく、気軽に立ち入ることを拒んでいる。

「第六皇女ミレニアよ!開けなさい!」

 荒い息で叫ぶ様に命ずると、すっ……と兵士が頭を下げて、扉に手をかけた。

 仮に荒事が起きても、中に籠城できるほどに頑丈な扉は、屈強な男が二人で開けているにもかかわらず、妙にゆっくりと開いていく。

(早く――早く――!)

 ことさらに遅く感じられる扉に焦れながら、ミレニアはドクドクと駆け足になる心臓を抑えるように胸の上から手を当てた。

 ――いつもの、固く冷たい宝石が、慣れた感触を指先へと伝える。

「っ――お父様!」

 やっと、少女が滑り込めるくらいの隙間が空いた途端、何も考えずに叫びながらミレニアは部屋へと飛び込む。

 それは、幼いころから何度も訪れた、父の寝室。

 近隣諸国を恐怖へと叩き落した侵略王が、目尻を下げて、一人の”父”へと変貌した、ミレニアにとって思い出深い部屋の中。幼少期に、何度も寝物語に帝王学をねだっては、途中で寝落ちてしまった広いベッドを中心に、ずらりと人が立ち並んでいた。

「お父様!」

 もう一度叫んで、ドレスを跳ね除ける様にして寝台へと駆け寄る。

 ぐるりと寝台を囲んでいるのは、兄姉たちだ。居住地区を帝都の外に持つ者や、公務で外出している者もいるため、全員ではない。おそらく、今日、この時間、皇城の中にいて声を掛けられ集まれた者たちだけが集まったのだろう。

 枕元に立つのは、ギュンターの主治医のジュゴスだ。老齢の薬師で、先帝のときから皇帝のお抱え薬師として活躍している国家最高峰の薬師。ミレニアが薬師としての資格を得るときに、贅沢にも彼に直接教えを乞えたのは、ひとえにギュンターの溺愛と依怙贔屓があったからだ。……おかげで、皇位継承権では末端に属すために兄弟の主治医となるために幼いころから薬師となるよう修業を積んでいた第十皇子のグンデには、めちゃくちゃに嫌われる羽目になった。グンデは、薬師の資格に合格し、実務経験を三年積んでからしか、ジュゴスに教えを乞うことは出来なかったのだから。

「……陛下。ミレニア皇女がおいでです」

 ジュゴスが、そっとギュンターの耳元に囁く。

 ピクリ……と、閉じられていた皺だらけの瞼が反応した。

 ハッ……とその場にいた全員が息を飲む。

「お父様!」

 我慢できず、ミレニアは兄たちを押しのけて寝台の傍――ジュゴスの向かい側、ギュンターの枕元へと駆け寄る。

 そこは、第一王位継承権を持つ長兄ギークがいた場所だが、関係ない。露骨に怒りを露わにされ、これ見よがしに舌打ちされたが、無視する。――おそらく明日以降、くだらない嫌がらせが増えるだろうが、そんなことを気にしている余裕などない。第一、薬師の資格も持っている自分が傍に行くことに、何のためらいがあろうか。

 さすがのギークも、死期を目前にした父の前で、下らない兄妹の争いを見せる気にはならなかったのだろうか。口の中で小さく罵るような何かを呟いただけで、大人しくミレニアに場所を譲り渡した。

「お父様っ……ミレニアです。ミリィが参りました……!」

「――――……ミ……リィ……?」

 ふ……と、皺だらけの瞼がゆっくりと持ち上がり、濁った漆黒の瞳がぼんやりとミレニアの声がする方へと動いた。

(吐息が荒い……意識も混濁している……!)

 薬師としての知識を片隅に浮かべながら、ミレニアはそっと父の手を取った。

 ――もはや、死相と言って差し支えないそれが、敬愛する父の面に浮かんでいた。

「……おぉ……我が子らよ……」

 焦点が定まっているか怪しい視線を巡らし、掠れた声がつぶやく。

 ジュゴスはそっとその耳元へと唇を寄せて囁く。

「今、お集まりいただける方々全てにお集まりいただきました。ミレニア皇女の他――右から、ギーク殿下、ガトー殿下、ゴーティス殿下、ザナド殿下。ジュート殿下、こちら側にいらっしゃるのは、ジハーク殿下、ナピス皇女、ヴァスキー殿下、シャンティ皇女。私の隣にいるのが、グンデ殿下です」

「そう……か……大儀であった……」

 まるで、玉座にいたころのような台詞を、昔とは比べ物にならないほどの弱弱しさで囁く。

 ゲホッ……と一つ咳をしたのを聞いて、ミレニアはジュゴスとグンテよりも先に、さっとその細腕をギュンターの背へと差し入れ、身体を介助する。器官から洩れる音から、呼吸がしづらいのだと判断したためだ。

(お父様――こんなに、痩せ細って――)

 骨と皮だけになってしまったのでは、と思うその背中に、ぞくり、と改めて恐怖に似た何かが少女の背筋を走る。

 ――人の死、とは、こういうものだ。

 薬師としての知識を学んだ時、何度も何度も教本で見た。

 だが――身近な人間のそれを目の当たりにするのは、初めてだった。

「ミリィ……私の、愛し子……」

「はい。――はい、お父様。ここにおります」

 身体を介助したことで近づいたため、霞んだ視界の中でもその存在を認められたのだろう。弱々しい声が、愛しそうにゆっくりとミレニアの愛称を呼ぶ。

「お前は……本当に、フェリシアの……生き写しだ――…愛しい、愛しい、我が娘……」

「はい」

「あぁ――そんなお前の、美しい、花嫁…姿を……見られぬ、ことが……心残りだ……」

「お父様……っ……気弱なことをおっしゃらないでくださいっ……!」

 かつて、侵略王と呼ばれた強い王の姿は見る影もない。

 ヒューヒューと掠れる吐息交じりの言葉に、ミレニアはぶんぶんと否定するように首を大きく横に振った。

 しかし父は、まるで達観しているかのように、穏やかな瞳で、ミレニアを見つめる。

 夜の凪いだ海のような、漆黒の双眸が、かつてのように眦を下げた。

「幸せに――なると、約束……してくれ、ミリィ……」

「はいっ……はい、お父様っ……」

「私は、一足先に……消滅の門へと向かうとしよう――」

「お父様!」「父上!」「陛下!」

 掠れた声に、口々に悲痛な声が飛ぶ。激励するかのような――縋るような、必死の声。

 ギュンターは、ゆっくりと瞳を閉じる。すでに呼吸は浅く、か細くなっていた。

「イラグエナム帝国に――永遠の、栄光を――」

「っ……」

 ぎゅっとミレニアはギュンターの手をしっかりと握る。――もう、言葉は、必要なかった。

 瘦せ細った老人は、死相を漂わせた面で一つ苦しそうに呼吸をすると、口の中で呟く。

「あぁ――愛しい、私の……シア……お前は……天、とやらに……行ったのか――」

「お父様……?」

 殆ど聞き取ることが難しくなった父の声を聴き洩らさぬよう、必死にミレニアはその口元へと耳を寄せた。

「私も、そこへ行けたら――再び、お前に――――」

 すぅ――……

 言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 ふっ……と眠りに落ちたかのように、父の身体の全てから一気に力が抜け落ちたのを、ミレニアはその腕の重みで体感した。

 ハッ――と目を見開いた少女の蒼白な顔で、全てを悟ったのだろう。

 ジュゴスはそっと手首を取って脈を確認し、固く閉ざされた瞼を指で開いて光の有無を確認する。

 ごくり、とその場にいた誰かの喉が音を立てた。皆、固唾を呑んで、主治医たるジュゴスの言葉を真剣な表情で待つ。

「――残念ですが」

 ふるふる、と老人が頭を振ったことで、その場にいた全員が、正しく状況を理解した。

「父上!」「お父様!」「陛下!」

 寝台へと駆け寄る者。その場に崩れ落ちる者。涙を流す者、堪える者。静かに今後を見据える厳しいまなざしの者。

 それぞれの反応は様々だったが、全員が、偉大なる父王の崩御に動揺を隠せなかった。

 夏の厳しさが残る、残暑のころ――

 まだ日の高い午後の中、『侵略王』ギュンターは、静かにそっと、眠るようにして息を引き取ったのだった。

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