第29話 奴隷解放⑤

「もし、この施策が通ったら――お前に、この行軍を任せたいの」

「――――――」

 紅玉の瞳が、大きく見開かれた。

 一瞬、部屋の中に沈黙が下りる。

 ミレニアは真剣な表情でまっすぐにロロを見上げていたが、やがてふっと吐息と共に頬を緩める。

 それは、微笑みのような――苦笑のような、何か。

「お前はきっと、歴代最強の火属性の魔法使いよ。寒冷地の行軍では重宝するでしょう。国家最強の武人と名高い圧倒的な強さは、強敵と見えたときに、指揮官として軍を鼓舞するのにも最適」

「姫」

「貴族出身の上官では、枷を外された奴隷たちは従わない。同じ境遇で育ち、彼らの価値観に理解があるお前こそが――」

「姫!」

 強い口調で言葉を遮られ、ミレニアは口を閉ざす。

 顔を苦しそうに顰めてから、ロロはゆっくりと重たい口を開いた。

「俺には出来ません」

「……どうして?ちゃんとした兵法などは、施策が通ると決まってから覚えても十分だわ」

「そうではありません」

「いつもお前が口癖のように言う、『自分のような奴隷の身には』と言うやつかしら。でも、今回お前が率いる軍の中には、奴隷以外の誰も――」

「そうではありません!」

 静かに――だが、きっぱりと。

 ロロは、明確に、主の命に抵抗の意を示した。

 ぎゅぅっと寄った眉間は、至上の主と慕うミレニアの命令に背く苦しさをしっかりと物語っていたが――それでも、彼の意思は固いようだ。紅玉の瞳には、意志の強さが宿っている。

「……では、どうして?理由を聞かせなさい」

「――……もしも俺が、その行軍を指揮することになるとして――」

 苦し気に、頬がゆがんで片目を眇める。左頬に刻まれた奴隷紋が、醜く歪んだ。

「――――その間、姫を、誰がお守りするのですか――……」

「――――――……」

 翡翠の瞳が、驚いたように何度も瞬かれる。

 ロロは一瞬口を引き結んだあと、ゆっくりと、絞り出すように声を発した。

「帝国領の国境から、北方地域まで、かなりの距離があると言ったのは姫です。――帝都から考えれば、とんでもない距離になる」

「そ、それはそうだけれど――」

「一体、どれだけの期間――俺に、姫の傍を離れろと、おっしゃるつもりですか」

 きゅっと寄った険しい表情が切なく歪み、ドキン……とミレニアの心臓が一つ音を立てた。

「いくら学がない俺でも、これを上申すれば、施策が通ろうが通るまいが、姫が貴族社会の中で沢山の敵を作ることくらいわかります。……貴女の身に、危険が迫りやすくなる。――そんな状態で姫を、他の誰かに任せて旅立てと……そう、おっしゃるつもりですか」

「それは――……」

「姫が公爵家に嫁ぐまで、あと二年。――二年しか、ない。紅玉宮に仕える護衛兵は俺の手で鍛え上げることが出来ますが、皇族の地位を失えば、同じ水準の護衛を賄うことが叶うかどうかは怪しい。第一、今床に伏せっている現皇帝が崩御すれば、そもそも皇族の地位を持っていても貴女の敵は多くなることでしょう。……仮に、皇帝が体調を急激に回復させるような奇跡が起きたとして、施策が通り、法が整備され、軍を編成し、行軍を開始して――その時点で、下手をすれば、二年くらいはあっという間に経っているはずだ。そのとき貴女は、唯一貴女を守っていた、皇族の地位を失う」

「…………」

「今よりも、危険が多くなる貴女を置いて――俺は、まっとうに任を務められる自信がありません。まともな護衛がついているかも怪しい姫の身が無事かどうかが気にかかって、とても任務どころではない」

 苦痛と哀願が混じったような切実な声は、まるで、ロロの悲鳴のようにも聞こえた。

「一生傍を離れるなと、姫が命令したのです。俺の命は、帝国のためではなく、かつての同胞たちのためではなく――貴女のためだけに、使いたい」

「ロロ――」

「お願いです。どうか俺を、生涯、傍に置いてください。死ぬときは、貴女を守って死なせてください。――俺が邪魔だと言うなら、そう言ってください。もう飽きたと、必要ないとおっしゃるなら、この身を売り飛ばしてくださっても構いません。姫が真に望むなら、それが貴女の幸せだと言うのなら、俺は喜んでそれを受け入れます。ですが――俺のことを気にかけると言って、俺を幸せにすると言って、俺を不幸にしないでください。そんな理由で遠ざけられることだけは、決して承服できません。――俺の幸せは、俺が決める。姫の傍で、姫のために命を使うことが出来ないことの方が、俺はどんな酷い迫害を受けるよりも苦痛だ」

「――――……」

 普段は寡黙な従者の、珍しく雄弁な必死の哀願を受けて、ミレニアは気まずそうに視線を外した。

(どうやら……全部お見通し、のようね……)

 胸中で苦く呟き、小さく嘆息する。

 ミレニアは、ロロに行軍の指揮官を任せたかった。そうして、北方地域へ進軍させ、手中に収めたら――そのまま、そこで、他の奴隷と共に、その地へと移住してほしかった。

 勿論、上申書には、カルディアス公子が領主となる旨が提案されている。当然、これが通れば、ミレニアも北方地域へ行き、永住することになるだろう。そうすれば、ロロは生涯、ミレニアの傍でミレニアを守り続けることが出来る。――決して、その道を諦めたわけではない。

 だが――それは、分の悪い賭けだ。他の貴族が治める可能性が高いのは、彼女が言った通りなのだから。

 それでも、ロロに軍の指揮官を任せたいと言ったのは、彼がこのまま帝都に残り続ければ、彼が差別を受け続けると思ったからだ。

 自己肯定感が皆無どころかマイナスに振り切っている彼は、どんな理不尽も当たり前のように受け入れて、命を散らすことすら厭わない。――そんな、彼の空虚な瞳を、何とかしたかった。

 ”人”として扱われ、当たり前の権利を当たり前に享受して生きる――そんな人生を、与えたかった。

 ミレニアが、何を置いても奴隷解放の施策上申を優先させたかったのは、哀れな扱いを受けている奴隷のためではない。

 帝国のさらなる発展のためでも、ない。

 ただ――――ルロシークと名付けた、大事な大事な、たった一人の専属護衛の、ためだった。

(……でも、まさかこうもきっぱり突っぱねられるとは、思わなかったわ)

 ロロは、ミレニアに完全服従を常日頃から表明している。仮に世界中がミレニアの敵になったとしても、ミレニアの味方であり続ける、唯一無二の存在だ。ミレニアが命じたことは、それがどんな命であっても、必ず遂行しようとする隷属意識の高さは、世界でも類を見ないだろう。

 だが、その至上の主と認めているミレニアの命に背くことになったとしても――ミレニアの傍を離れることだけは承服できぬ、と、はっきりと意思表示をしたのだ。

「お前は本当に――私のことが、大好きね」

 クス、と力無く笑って、呆れたように長身の護衛を見上げる。紅玉の瞳が、苦しそうに揺れていた。

「……好きとか、嫌いとか――そんな次元には、ありません。姫は、俺の、全てです。俺は、姫の”物”ですから」

「全く……お前は、もしも私が戯れに『死ね』と命じたら、笑みさえ浮かべて死にそうで怖いわ」

「勿論。お望みとあらば――」

「やめなさい。そんな命令はしないから」

 表情を変えることなく真面目に即答した奴隷根性丸出しの男を制す。――本当に、彼の献身は重すぎて時々困る。

「でも――そうね。私が間違っていたわ」

 ふ、と苦笑が一つ口の端に漏れる。

 そうだった。――何を擲っても、この美しい瞳を持つ男を、生涯一番傍に置いておきたいのだと、願ったのは自分だった。

 自分の行いには、責任を持つべきだろう。剣闘場で彼の売買契約書にサインをしたあの瞬間に――これから先、どんなことがあったとしても、彼の人生ごと、全て背負うと決めたのだから。

「……わかったわ。では、もう少し別の方法も考えておくから」

「?」

「お前が指揮官にならなくても行軍を成功させる案と――私が、必ず北方地域へと行くことが出来る案の、両方を」

「!」

「それなら、文句はないでしょう?」

 にこり、と笑うミレニアは、女帝と言っても差し支えのない、威風堂々とした顔だった。

 ロロは、静かに帝国式の礼を取る。それは、最大限の感謝を表す礼だった。

「ふふ……さて、おしゃべりが過ぎたわね。今日はもう寝ることにするわ。代替案については明日以降に考えましょう。――おやすみなさい、ロロ」

「はい。おやすみなさいませ、姫」

 ふぁ、と欠伸をしながら自室へと戻っていくミレニアを、ロロは頭を下げたまま静かに見送った。

 窓の外は、少女の髪と同じ色の夜空が、ただ静かに二人を見守っていた。

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