第5話 紅の剣闘奴隷①
ミレニアは、馬車を降り立った途端、ひゅっ……と小さく息を飲んだ。
「……どうした。怖気づいたか。――馬車で待っていても良いのだぞ」
威厳のある父の声が低く響き、一瞬反射的に頷きそうになったのをぐっとこらえた。
今日は、奴隷商人に何も伝えずに抜き打ちでの来訪と聞いている。当然ながら、出迎えなど存在しない。
剣闘が行われる闘技場を抜き打ちで来訪し、そこにいるはずの奴隷商人と共に剣闘を観覧する。抜き打ちで訪問されれば、小細工をする暇など与えられず、”いつもの”剣闘を見せるしかない。
――集客力が圧倒的な、”優秀な”奴隷の剣闘を。
そうすれば、皇帝の命令に違反していると表立って糾弾することが出来るためだ。
だが、その肝心の闘技場は、残念ながら大通りに面していない。通称『奴隷小屋』と呼ばれる、奴隷たちの住まう――収容されている、という表現の方が正しいかもしれない――建物が並ぶ区画を抜けていかなければならないのだが、『侵略王』の名のもとに戦争を繰り返したギュンターの治世で加速度的に増えて行った奴隷の数に対応するように、その区画はすし詰め状態で建物が並んでいて、路地は到底馬車が通れる広さなどない。
つまり――馬車から、歩かねばならないのだ。
昼間なのに薄暗く、この世の闇が凝縮されたかのような、この冷え冷えとした不気味な一画を、その足で。
「っ……だ、大丈夫よ」
距離にすればさほど遠くはないはずのそれに怯んだ心根を強がりで隠し、ごくり、と唾をのんで顔を上げる。
たかが視察に連れて行くには不自然なほど、屈強な腕自慢の兵士を何人も引き連れてきたのは、こういう理由だったのだ、とミレニアは納得する。皇城の中で、帝都の地図を眺めているだけでは、わからなかった。――この、心の奥底を冷たい何かで擦られるような、不気味で恐ろしい空気の感触は。
(帝国の歴史は、奴隷の歴史――皇族として、国の中で起きていることを正しく理解することは、何よりも大切だわ)
目尻を下げながら、寝物語のようにして帝王学を教えてくれたかつての父の言葉を思い出し、ぐっと拳を握る。
ギュンターは、あの時とは異なる厳しい表情を作って口を開いた。
「聡いお前に限って大丈夫だとは思うが……何度も言うが、決して護衛の目の届く範囲から離れるでないぞ。奴隷小屋は、基本的には”檻”と同じだ。奴隷たちは基本的に手足に枷と鎖をつけて、内側からは開けられない鍵のついた部屋での生活を余儀なくされている。――だが、”仕事場”への移動は、当然鍵が開け放たれ、奴らも奴隷小屋から出る。当然、万が一のことを考えて監視者がつくことが常だが――それでも、逃亡騒ぎは日常茶飯事だ。事前に通達をしていないということは、その移動の時間に鉢合わせる可能性があるということだ。気を引き締めよ」
「は、はい…お父様」
必要以上に脅してくる父に、少しだけ蒼い顔で頷く。愛娘の真剣な返事にふ、とギュンターは満足げに微笑んだ後、護衛に囲まれながら足を踏み出した。
様々な理由で奴隷を買い上げることがある貴族と異なり、皇族は基本的に奴隷と接点を持つことなどはない。神に見放されたと言われるこの国で、唯一神に等しいと崇められる一族が、人の扱いすら受けることを許されぬ下賤な存在と接することなどあってはならないことだった。
剣闘奴隷を国家の戦力として買い上げるギュンターの政策にしても、皇族は契約の書類に目を通してサインをするだけで、定期的に戦力把握のために軍事演習を遠くから観覧することはあっても、視線を交わし、言葉を交わすことなどありえない。平民ですら、皇族の乗る馬車に向かって五体投地をせねばならぬ国だ。口を利く道具など、同じ空間の空気を吸うことすら許されまい。
事前連絡をしていれば、そんな天と地ほどの身分格差のある両者が万が一にも遭遇したりしないよう、”仕事場”への移動時間を調整し、皇族が歩く道にはふかふかのカーペットが敷かれ、最大限の敬意をもって迎えられたはずだった。
(奴隷が、支配階級に対して謀反や反乱を企てたことは、歴史上何度もある。もしも不意に鉢合わせたとき、逆上して襲い掛かられることが、絶対にないとは言えない……)
皇城の中で、蝶よ花よと育てられたミレニアは、未知の恐怖に震えそうになる足を心で叱咤して、表情だけは毅然とした態度を装って前を行く父に続く。
父の背中は、大きく、堂々としている。
民衆からの悪感情を一身に受けたこともあるその男は、すでに初老を迎えているというのに、他者をひれ伏させるに相応しい威風堂々たる風格を宿していた。
(私も、お父様のようにならねば――)
誇り高きイラグエナム帝国の皇族に生まれた以上、民を導くのは一族の義務だ。皇族の特徴たる褐色の肌がなくとも、漆黒の瞳がなくとも、男になることは叶わなくとも、その誇りだけは心に宿せる。
ふと、前を行くギュンターが隣に控える屈強な兵士に何か合図を送った。兵士は敬礼した後、サッと護衛の列を離れていずこかへと姿を消す。
「お父様……?」
「すぐそこが闘技場だ。入る前に、商人に言い逃れを許さぬようにする根回しを、な。……何、お前は気にせずとも良い」
娘の伺うような声に、口ひげを蓄えた口元が軽く苦笑した。
見上げると、確かにそこには、円形の巨大な闘技場が聳え立っている。すでに観客の動員は終了しているのだろう。中からは、熱狂に浮かされる地鳴りのような歓声が聞こえた。
「もう始まっているの……?」
「まだ前座の段階だろう。事前の調査によれば、今戦っている奴隷は、魔法も使えぬ者たちだと言う。猛獣を相手に、剣一つで立ち向かうさまを楽しむ催しだ」
「前座……」
「我らの目当ては、”優秀”な剣闘奴隷の存在を明らかにし、商人に今までの不敬な行いを言い逃れさせぬことだ。前座に興味はない。今日の”主役”が出てくる直前に乗り込むのが上策だろう」
「前座のうちから私たちが姿を表したら、前座の試合の間に商人が手を回して、”主役”を優秀じゃない奴隷と入れ替わらせることが出来てしまうから、ってこと?」
「さすがミレニアは賢いな。自慢の娘だ」
よしよし、と頭を撫でられ、満足げにミレニアは笑う。思慮深く優しい父が、大好きだった。
そのまま、薄暗く人気のない入口へと、一行は足を進めていく。頼もしい父と、一部の隙もなく控えている兵士たち。一番危険な奴隷小屋が立ち並ぶ一郭を無事に通り抜けることが出来たことを実感し、ミレニアはほっと安堵の息を吐いた。
「今日の主役は、調査によれば、国家最強の腕を持つと噂される奴隷だ。剣の腕も、魔法の腕も規格外で、闘技場に初めて立ったその日から今日まで、もう何年もずっと不敗の猛者らしい。あまりに強すぎる故、近年は枷を着けたまま出場させられることもあるとか」
「かっ……枷を着けたまま!?」
「今日は観覧が目的ではないのだが――単純に、興味があるな。前評判のために噂が盛られている可能性もあるが、事実であれば間違いなくイラグエナムの”最強”の名を恣にする男だろう。私腹を卑しく肥やすことしか興味のない腐敗した貴族どもが、その貴重な私財を惜しみなく投下するほど熱狂する奴隷と聞く。戦場に立たせれば、いかな働きをしてくれることか」
くっくっと笑うギュンターの横顔は、若いころから戦に明け暮れた『侵略王』の異名を彷彿とさせるものだった。初老の外見に似つかわしくない、鋭く光る漆黒の瞳が爛々と輝きを放つ。
どれほど綺麗事を並べたとて、過去の異常としか思えぬ侵略戦争の数々が、彼の個人的な嗜好と無関係と言うのは苦しいだろう。寵妃を手に入れ、孫に近い年齢の愛娘を溺愛するようになり、丸くなったとはいえ、本質的なところは戦で命のやり取りに熱狂する性格であることに変わりはない。
敬愛する父の唯一の欠点とも言えるべきその性格に呆れて嘆息をすると、先ほどギュンターに合図をされて場を離れた兵士が戻ってくるところだった。
「陛下」
「うむ」
足を止めたギュンターは、さりげなくミレニアに背を向け、小さな声でやり取りを始める。何か、ミレニアには聞かせたくないことがあるのだろう。年齢の割に敏い少女は、大人しく空気を読んでそっと一歩後退った。
(悪趣味な場所だと思っていたけれど――闘技場の建物自体は、芸術的なのよね……)
その昔、帝都で一番と謳われた天才建築家が手掛けたとされるその円形の建物は、細部まで意匠を凝らした芸術と言って差し支えのない造りをしていた。当初は、選ばれし上流貴族だけに許される特別な娯楽として始まった剣闘だ。彼らの目を楽しませるためにも、と当時の粋を集めた最高傑作なのだろう。
柱の意匠一つとっても、文化財として相応しいそれらを、感嘆のため息と共にぐるりと見回していると――
ふわり……
「――――……?」
視界の端に、何かが瞬いた。
薄暗い通路の端に、何か、小さな光の粒のような淡い輝きが浮かんでいる。
「……ねぇ、お前。あれは何?」
「はっ!……?」
近くの年若い兵士に尋ねると、威勢の良い返事をした後、兵士は怪訝そうに眉をひそめた。
「も、申し訳ございません。……あれ、とは――」
「だから、あれよ。向こうに浮かんでいる、光の粒」
「ひ、光の粒――で、ございますか……?」
ひくっと頬を引きつらせて目を凝らしている兵士は、冗談を言っているようには見えない。――それはそうだろう。この国で、いくら女とはいえ、皇族に名を連ねる者に冗談を言う命知らずなど存在するはずがない。
「何よお前。目が悪いの?」
「い、いえ、その――……」
薄暗い中に瞬くそれが見えぬとは、よほど目が悪いとしか思えないが、そんなド近眼が皇族の身を守る最重要任務を担えるとも思えない。
(何かしら……すごく、気になるわ…)
光は強く、時に弱く、柔らかな光を発してミレニアを誘うようにふわふわと浮いている。
どうにも興味を惹かれるそれに魅入って、そっと光に向けて足を踏み出し――
パァンッ
「っ!!?」
「「陛下!!!!」」
「「姫!!!」」
突如として響いた何かの破裂音に、一瞬でギュンターの周りに人垣が出来る。覆いかぶさるようにして幾人かがギュンターを庇い、四方を剣を抜き放った兵士が固める。
国家の君主に人員が割かれた分、ミレニアを庇った兵士は限られていた。――たった二人。近眼疑惑のある兵士と、その隣にいた背の高い兵士が、音が響いた方向に向けて剣を掲げ、ミレニアを背に庇うようにして立つ。
緊張で張りつめたような空気の中――
「――ぁ――」
視界の端で瞬いてた光が、誘うように一つ、二つと瞬いた後、ふわりと浮かび上がり、視線の先、曲がり角を曲がるようにして消えて行った。
(行っちゃう――!)
後から振り返れば、その時のミレニアの行動は、全く理解が出来ないものだった。
いつだって、理性の塊と言われて生きてきた神童は――
ダッ……!
「っ……ひ、姫っっ!!?」
光を見失うことを恐れ、何も考えず、その場を駆け出したのだ。
後ろから、一拍遅れて皇女の奇行に気づいた兵士の焦った声が聞こえる。
「ミリィ!?ミリィがどうした!?っ……えぇい、どけ!ミリィに何かあれば貴様ら全員の首を刎ねるぞ!」
ギュンターの怒号が聞こえる。公務のときには決して呼ぶことのない、プライベートの愛称を叫ぶほどに我を忘れているのだろう。
それを背後に聞きながら――それでも、ミレニアは足を止めず、光を追いかけた。
いつもなら、あり得ない行動だった。
『お前、あの光を追いかけなさい』
威厳をもって、そう命令すれば、近くに控える大の大人が冷や汗を流しながら必死に少女の命を遂行する――それが、ミレニアが生きてきた世界だ。彼女は、足は愚か、指一つ動かすことなく、視線でそちらを見やり、声を発するだけで望みのすべてを叶える術を持っているのだから。
原因不明の怪しい音が響き、兵士たちが緊張に息を詰めるそんな中で――敬愛する父の焦った制止の声すら、振り切って。
(あの光を――追いかけなきゃ――!)
何故かはわからないが、強迫観念に近い何かに突き動かされ、ミレニアは必死に走る。
一つ、二つ、と光に誘われるがまま、通路を曲がる。
「ぁっ……!」
三つ目の角を曲がった時――光が、ある一か所に停滞するようにとどまったかと思うと、ふっ……と急に掻き消えた。
思わず、光が消えた場所まで脇目も振らずに駆けつけて――
(――――――ぇ――……)
目の前に広がる光景に、思わず言葉を失う。
天井から床までを刺し貫く、鉄格子。
一体どんな重罪人がとらえられているのかと疑いたくなるほど大きく頑丈な錠前。
冷たい鉄の檻の中――褐色の肌を持つ男が一人、瞳を閉じたまま壁にもたれるようにして座っていた。
眠っているかと思ったその男は、ミレニアの気配に気づいたのか、ふ……とゆっくりと、億劫そうに長い睫毛を上げる。
ドキン――
「――――――誰だ。貴様は」
不機嫌そうに睨みつける両の瞳は――吸い込まれるような、紅色をしていた――――
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