第二章 「リュバサの攻防」

第二章ー1話

 ―― 第二章 『湖底都市リュバサの攻防』



 天から降りそそぐゆるやかな陽射しが、木漏れ日のようにきらきらと揺らめきながら街を優しく照らしていた。

 まるで光の精が歓び舞っているかのような、淡く美しいプリズムが街中のところどころで浮かび上がって見える。


 普通の街ではありえない、どこか夢幻的な光景につつまれたそんな通りを、シリアはぼんやりと歩いていた。

 光に合わせて楽しい歌でも口ずさみたくなるような、そんな暖かな空気に満ちたその場所で、けれども彼女だけがどこか沈んだように、空色の瞳が沈痛な影を落としていた。


 家の中に閉じこもっていると気分が沈んでしまうから。

 父のもと部下であり、現在いまは自分の面倒を見てくれているヒューイにそう勧められて、日に何度かこうして街を歩くのが彼女の日課になっていた。


 煉瓦造りの家が立ち並ぶ大きな通り向こうの広場では、忙しそうに動き回る人々の姿が目に付く。

 このリュバサの街はもともと臨時の王都として造られたものであり、シェスタよりは小さいが王宮も存在していた。

 かつて魔物との戦いで、カスティナ王国は滅亡寸前まで追い込まれたことがあり、その際に避難場所としてつくられたのがこの湖底都市だということだった。


 街の天をおおう湖水からは、不思議なことに木洩れ日のように柔らかな太陽の光が降りそそぎ、湖底がきらめく青空のように見える。

 もちろん水が涸れることもなく、植物もなぜか良く育つらしい。

 それらはすべて『リュバサの天井』と呼ばれる、湖底に張り巡らされたが生んだ奇跡だと言われていた。

 そのうえ先住の民によって既に街の生活体系もできあがっており、新しく避難してきた者たちにとって、何の不自由もない生活の場となっていた。


 しかし王都からの避難民を受け入れて一気に人口が膨れ上がった為に、多くの施設や居住区などの建設を早急に進める必要があった。

 避難してきた者たちはこの街の穏やかな空気に癒されているのか、その表情に暗い影はあまり見当たらず、忙しさの中にどこか賑やかさがある。

 そんな活気あふれる人々を見ても、シリアの心が晴れることはなかった。

 逆に暗く落ち込んで行く自分の心がみじめに思えて、ふうっと、この日何度目かの重い溜息をひとつ吐き出した。


「シリア、今日もいい天気だね」

 よく聞き慣れた太い男の声がして、シリアはゆっくりとそちらを見やる。

 通りに並ぶ簡素な小屋のひとつから、恰幅のいい男が手を振っているのが見えた。


「……リレスおじさん。ええ。本当に気持ちのいい日差しね」

 王都シェスタで刀剣商を営んでいた顔馴染みの男の強い笑みに、シリアはなるべく明るく返答しようと努めた。

 けれども思ったほどにうまくはいかず、半分だけ笑ったような表情でリレスの大きな身体を見上げた。


「これな、スールがこしらえたんだがね。あいつは作る適量ってもんをまったく考えないから余っちゃったんだよ。シリアも食べてくれるかい?」

 どこか沈んだふうな少女の肩を軽く叩きながら、リレスは今朝しがた嫁がこしらえた甘くて白い砂糖菓子を自分の大きな手のひらに載せて見せた。

 本当は余ったわけではなく、シリアのために作ったものだ。


 ここ数ヶ月間、この少女が心から笑った顔を見ていない。

 もともとが明るく元気な性格の子供だっただけに、こうも沈んでいる様子を見るのは辛かった。


 自分も住み慣れた家を追われ、この街に避難してきている身であったけれど、比較的被害は少ない方だった。

 自分が失ったものはだけで、家族の誰一人欠けてはいない。

 いや。それどころか王都シェスタから避難してきたほとんどの民は欠けることなく、このリュバサに辿り着いたと言ってもいい。

 カスティナの誇る騎士たちが身を挺して民を守ったという事もあるが、王都脱出の際と同様に、魔物や帝国軍が狙うのは軍関係者や王国上層部の者たちばかりで、民衆にはほとんど手を出してこなかったからだ。


 けれども ―― それなのに。

 シリアは一日にして家族のすべてを失ってしまったのだ。それを考えると、リレスはいっそう少女が哀れに思えてくる。

「うちのヤツは掃除も洗濯もだがね、菓子作りだけは上手いんだよ。だからオジサンもこんなに太っちまったってわけだ」

 リレスは太鼓のようにふくれた腹を、ぽんっと陽気にたたいて見せた。


「あはは。ありがと、リレスおじさん。ホント。とっても美味しそうね」

 空色の瞳をにこりと笑ませて、シリアは砂糖菓子を受け取った。今度はたぶん、さっきよりはだろう。


 けれどもこれ以上笑っていられる自信がなくて、シリアは簡単に挨拶を済ませると足早にその場を去る。

 周りの人たちが自分を心配して気遣ってくれているということを、シリアは痛いほどによくわかっていた。だから早く元気にならなくちゃいけないとも思う。

 けれども ―― どうしても駄目なのだ。


 あの日、王都シェスタが襲撃を受けたあのとき。

 あとから必ず来ると言った兄ユーシスレイアは、いくら待っても追っては来なかったのだから。


 兄と別れてしばらく馬を走らせたあと、シリアは前方に魔物の姿があるのに気が付き、彼らに見つからないように行く道を変えた。

 震えて萎えそうになる心を必死に奮い立たせて、少しだけ回り道をして兄の教えてくれたアリナス山麓の方へと向かったのだ。

 そうして、多くの避難民を引き連れて足の遅い一団と合流することができた彼女は、顔見知りの騎士ジェラードを見つけてすぐに頼んだ。

 兄を助けてくれ、と。

 いくら一騎当千と謳われる兄でも、足の負傷を抱えたまま帝国最強の騎士といわれる男と戦っているのだから、心配するなと言う方が無理だ。


 もちろん、ジェラードは彼女の言う場所に屈強の者たちと共に向かった。

 兵士や国内外の民からも『軍神』と謳われるユーシスレイアは、カスティナ王国にとって大切な将帥であり、それをこんなところで失うわけにはいかない。


 しかし ―― 彼らが辿り着いた時、そこにはもう誰もいなかった。

 ユーシスレイアの姿も、帝国軍の姿も。魔物の姿も。生ある者の姿は何ひとつ。

 ただ、道すがら累々と重なる魔物や敵兵。そしてカスティナ騎士たちの遺体が、胸が悪くなるような血の匂いを辺りに振りまいているだけだった。


 念の為にと、周辺に伏していた背格好の似た亡骸を確認して見てまわったけれど、その中にユーシスレイアの姿はなかった。

 そのことに安堵すると同時に、見付ける事が出来なかったという現実に、カスティナの騎士たちは落胆して戻ってきたのである。

 それから数ヶ月経った今も、ユーシスレイアがリュバサに戻ってくることはなく、いっこうにその行方を掴むことも出来なかった。


「……お兄ちゃん……」

 あふれてくる涙を必死にこらえるように唇を噛み締めて、シリアは小さく呟いた。

 あのとき離れなければ良かったのだと、何度後悔したか知れない。

 こんな思いをするくらいなら、たとえ命を落としたとしても兄の側にずっと一緒に居た方が良かったのだと思う。


「シリアーっ!!」

 不意に、大きな声で叫びながら女が通りの向こうから走って来た。

 シリアを探していたのだろうか。息を切らせながらこちらに向かってくる彼女の表情は、輝くような笑みを浮かべている。

 独りぼっちになってしまったシリアの面倒をこまめに見てくれるヒューイの姉で、赤毛がよく似合うディーナという女性だった。


「いい知らせよ、シリア」

 ディーナは少女の前に到り着くと、嬉しさを隠そうともせずに闊達な笑顔を浮かべながら、シリアの細い身体をぎゅっと抱きしめる。


「ディ、ディーナさん?」

「ふふふ。あのね。ヒューイが、アリューシャを連れてきたのよ!」

「えっ、アリューシャっ!?」

 思わずシリアは耳を疑った。

 いま彼女は、本当にアリューシャと言ったのだろうか?


 おそろしく冷酷そうなの長い刃に薙ぎ払われ、草地に倒れ込んだ少年の姿が脳裏によみがえる。

 まさか、彼が生きているとは思いもしなかった。


「ええ。ヒューイが街外に哨戒に出た時に見つけたらしいわ。アリューシャね、どこかで怪我の治療を受けていたらしいんだけど、傷が癒えてからリュバサの入り口を探していたんだって」

 ディーナは相手をつつみこむように微笑んで、シリアの空色の瞳を覗きこんだ。

「あなたに会うために、ね。早く行っておあげなさいな」


「 ―― っ!」

 嘘や冗談ではない。本当なのだ。

 シリアは空色の瞳に喜びの彩をたたえ、一目散に駆け出した。

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