序章-3話

「アルシェ様、このままでは城門が突破されてしまいます!」

 カスティナ王国近衛兵の報告を受け、アルシェは沈痛な視線を国王に向けた。

 人間相手であれば、こうも簡単に近衛の騎士たちが崩れるはずはなかった。

 しかし相手はたちだ。とつぜん空から現れた異形の敵に、城内に待機していた僅かな守備兵で戦ったのでは劣勢は覆しようがない。

 今から軍を召集して間に合うようなものでもなく、まして追い討ちをかけるように、ラーカディアストの大軍が王都に迫ってきているという報告も飛び交っていた。


 先日攻め落とされた最北の島サレアが拠点となり、帝国軍がそのまま一気に南下して、カスティナの海の玄関口でもあるカエナの港街を急襲してきたのだという報告に場がざわめく。

「帝国の船団がサレアの島からカエナに向かうあいだ、どうして誰もそれに気付かなかった!」 

 アルシェは鋭く舌を打った。

 カスティナに来るまでの間には、連盟に属するいくつもの小国がある。彼らが海上の監視を怠ったのだということが腹立たしかった。


「これまでのナファスへの執拗な攻撃は、陽動だったわけですね……」

 国王の隣で話を聞いていた宰相リファラスは、悔しそうに唇を噛んだ。

 二年前の『ナファスの海上戦』で碧炎の騎士を失った帝国は、海上国家ナファスの攻略にしたかのように幾度も攻撃を仕掛けてきていた。

 それが雪辱のためだけでなく、ダーレイ大陸からこちら側に渡る最も効率的な航路がナファス経由だからということで、今まで帝国のその行動に疑問を抱かなかったのは自分の落ち度だとリファラスは思う。

「連盟の国々に、もっと外海に注意を払うように言っておくべきでした」

 今となってみれば、西大陸連盟の注意の目をナファス方面に向けさせるためだったのだろうと思えることが悔やまれた。

 帝国軍が上陸したというカエナの港街からこの王都シェスタまでは、もう目と鼻の先だった。


「 ―― もう、そこを後悔しても始まりません」

 アルシェはひとつ瞬きをすると、何かを決意したように王の前にひざまづいた。

「陛下、いったんリュバサに撤退してください。あそこならば帝国軍も追うことはかないますまい」

 低く、落ち着いた口調でアルシェは王にそう告げる。

 五十代も半ばに差し掛かろうという年齢には見えない、凛々しさと重厚さを兼ねた表情かおが王の瞳をじっと見つめていた。

「何を言うか、アルシェ! 王が逃げるわけにはゆかぬ。そなたらと一緒に戦うぞ」

 国王フィスカは腰に佩いた剣の柄を握ると、大きく首を振った。


 アルシェの言うリュバサとは、太古よりこのカスティナ王国に受け継がれてきた街の名前だった。

 他者の侵入を受け入れることのない、迷宮のような鍾乳洞を越えた先に広がる湖の地下に建てられた街。

 カスティナの王族と、その許可を得た者だけがたどり着くことが出来るというその街に行くとなれば、いくら『撤退』という言葉で繕おうが、それが示す事実は紛れもない『敗走』だった。


「陛下。ラーカディアストの狙いは、おそらく陛下のお命でしょう。城に直接魔物を送り込んできたことでもそれは明白。その狙い通りにことを運ばせては、カスティナの名折れでございます。それに ―― 陛下が行かねば民も避難することが出来ませぬ。どうか、無為に命の灯を消しませぬよう……」

 軍を統括するおさは静かに、剣を握った国王の手をおさえるように告げる。

「アルシェ……」

 フィスカは沈痛な面持ちをアルシェに向けた。彼の静かだが意志の強い言葉に、いつも自分は反論出来ないのだ。

 何と言ってもアルシェは自分が王太子であった頃から尊敬し、心から慕ってきたでもあった。


「陛下。アルシェ殿の言うとおりです。陛下がリュバサにてご健在であれば、一度はカスティナが敗れたとしても反撃の機会は残されます。ここで無意味に死に急ぎませんよう、私からもお願い致します」

 王の隣に控えていた宰相のリファラスは藍色の瞳に静かな眼光を宿し、王を説得するよう言葉を紡ぐ。

 ここで聖王フィスカを失えば一気にカスティナは崩壊し、西大陸連盟も瓦解していくだろう。それだけは避けたかった。

「だが……」

 最も信頼する二人の臣にそう言われて、フィスカは呻くように床を見た。二人の言うことは分かる。しかし、ただ逃げるのも屈辱だった。


「フィスカ様。目先の名誉などにとらわれず、国王としての……多くの民の命を預かるものとしての責務をお考えください」

 ほんの少しの時間さえも惜しい。アルシェは非礼を承知で、王太子時代に武道を教えていたときのようにその名を呼び、腕を掴んで立ち上がらせる。

「リファラス殿。陛下のこと……あとは頼みます」

「……分かりました。アルシェ殿のご武運を、お祈りいたします」

 フィスカ同様にまだ若い、けれども冷静な表情のリファラスに、アルシェは笑んで頷いた。彼がついていれば国王は大丈夫だろう。


「ヒューイ。おまえは陛下をお護りして、共にリュバサに行け!」

 意志の強さを内包した銀色の双眸を己の腹心に向け、アルシェはその行動を促すように、隣に佇む青年の肩を押す。

 その手には、これまでアルシェの剣帯に付けられていたはずの、金糸と銀糸で織り込まれたタッセルが握られていた。


 それは ―― これを己のとして家族に届けてほしいという願い。


「…………はい」

 ヒューイと呼ばれた男は一瞬唇を噛み、けれども苦しさを呑みこむように頷いた。

 ここに残って一緒に戦うことが出来ないのは悔しかったけれど、アルシェの気持ちを考えると拒否することは出来なかった。



 アルシェは国王を城外へ送り出すと、城の守備兵たちが必死に戦っている城門へと向かった。

 その門を突破されれば敵に王が逃げたことが知れる。隠し通路の存在もすぐに明らかになるだろう。そうなっては、あとはない。

 どうあってもここを死守し、王たちがリュバサにいく時間を。いや、せめて魔物や帝国の軍が追いつけなくなるくらいの時間を稼がなければならなかった。

「ユール、せめておまえがここに居てくれれば……」

 魔物の侵攻を防ぎつつ、アルシェはふと、つい先刻まではこの場に共に居た息子の名を呟いた。

 軍を率いる将としてだけではなく、でも一騎当千と謳われる息子がいれば、もっと違う戦い方が出来たであろうにと思う。

「……いや、いなくて幸いだったか。ユールなら、家族を守ってくれるだろう」

 息子に対する信頼を心の中で噛み締め、アルシェは深い呼吸をついた。

 あの子が家族を守ってくれる。そう信じればこそ、何の心配もせずに自分はここで魔物と戦うことができる。そう、思った。


 もうどれだけの時間を戦っているのか、それすらも分からない。けれども。とにかく少しでも長く、ここを守らなければならなかった。

 アルシェは必死に戦う兵たちを励ましながら、執拗に襲い来る敵に対峙する。

 ひとり。またひとりと。その数を死によって減らしながらも、兵たちは自分たちが心より敬愛する勇将アルシェがここにいる限り、この場所を撤退することなど誰ひとりも考えてはいなかった。


「アルシェ様っ!?」

 不意に、近くにいた兵士の絶叫がアルシェの耳朶を打った。

「 ―― っ!?」

 刹那、アルシェは自分の身体を汚らわしい魔物の爪が突き通すのを感じた。灼けるような痛みとともに、自分の重心がぐらりと傾いていくのが分かる。

 目を上げると、巨大なコウモリのような生き物が、空からアルシェに向かって長い爪を突き出していた。

「くっ……ここまで……か……」

 悔しげに、魔物の顔を睨みつける。胸部から背中までも抉った魔物の爪が、ズブズブという異様な音を立てながらゆっくりと抜かれていく感覚を、アルシェはどこか他人事のように感じていた。

 自分を貫いていた魔物の腕が離れると、支えを失ったようにアルシェは真紅の花を周囲に咲かせつつ、冷たい床へと倒れ込んだ。

 かすむ目に、彼の血肉がこびりついた爪を舐める、いやらしい魔物の顔が映る。アルシェは最後の……渾身の力込めて、自分の剣をその魔物の眉間へと投げつけた。

 それは寸分のずれもなく魔物に命中し、巨大なコウモリは絶叫しながら地に落ち、ぴくりとも動かなくなる。


「…………」

 アルシェの瞳はしかし、そんな穢らわしいものを映し出すのを放棄し、彼の家族の暖かい表情を思い描いたままに、その機能を永遠に停止した。

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