第88話 『梔尸沙昏』
写真を見て動揺する鶫に、緋衣が静かに問いかけた。
「その様子だと、どうやら見覚えがあるようだな。――どうか知っていることがあれば話してくれないか。これは重要な事なんだ」
そう真っすぐな目で見つめられ、鶫は思わず目をそらしてしまった。
別に疚しいことがあったわけではない。ただ写真の少女――『さくらお姉ちゃん』について緋衣に話すのは、何となく戸惑われたのだ。
……今にして思えば、以前に行貴に写真を見せられた時から、少しだけ気になっていた事があった。それは、彼女の装いについてだ。
この国の頂点には、天照大御神が君臨している。それ故に神に使える者――巫女という存在の位は高く、きちんとした資格が無ければ巫女と名乗ることすら許されない。しかもその資格が得られるのは、遠野すみれの様な例外を除けば、義務教育終了以降――十六歳以上に限られる。
だが写真に写っている少女はどう見ても中学生くらいの年齢にしか見えず、資格試験に通っているとは到底思えなかった。
そして行貴に貰った多くの人に傅かれていた写真のことも含めて考えれば、彼女には後ろ暗い事情があったのではないのかと邪推してしまう。
夢の中で会った優しそうな『さくらお姉ちゃん』と、写真の少女から受ける不穏な印象の違い。そのギャップを、鶫自身は上手く受け止める事が出来ずにいた。
「……緋衣さんは、この人の事を知っているんですか」
俯きながら、鶫はそう問いかけた。鶫が何よりも分からなかったのは、どうして緋衣は『さくらお姉ちゃん』のことを知ろうとしているのか? ということだった。
……わざわざこの流れで写真を出してくるということは、大火災に関連していることはまず間違いないだろう。
ざわり、と胸の奥が騒ぐ。……嫌な予感は、消えそうになかった。
「質問に質問で返すのはどうかと思うな。まあ、ある程度のことは把握していると言ってもいい」
緋衣は冷静な声でそう答えた。どうやらこの段階で詳しい話をするつもりはないらしい。
――ならば、こちらから踏み込むことも必要かもしれない。
「この人は、恐らく『さくら』という名前の筈です。漢字は分かりませんけど……」
「へえ、やはり覚えているのか?」
「何か詳しいことを覚えている訳ではないんです。ただ、漠然とそんな名前だった気がするだけで。……俺はこの人の事を何も知らない。さくらという名前だって、本当に正しいかどうかすら分からない。――俺は、それがひどく悲しいんです」
鶫は、静かにそう答えた。
結局のところ、鶫は『さくらお姉ちゃん』のことを何一つ知らないのだ。夢で会ったり、命の危機に助けてくれることはあっても、彼女自身のことは何も分からなかった。
……鶫自身は彼女に血の繋がりを感じているが、本当に血縁かどうかは定かではない。唯一分かるのは、彼女が不思議な力を持っているということだけ。それだけだった。
顔を上げた鶫はジッと緋衣のことを見つめ、決意をこめて口を開いた。
「緋衣さん、どうか教えて下さい。この人は誰なんですか? ――彼女と俺は、どんな関係だったんですか?!」
震える声で、鶫は縋るように言った。
鶫がずっと追い求めていた答えを、きっと緋衣は知っている。この機を逃せば、次に有力な情報を得られるのは何時になるか分からない。形振りなんて構っていられなかった。
そうして鶫が深々と頭を下げていると、対面から大きなため息が聞こえてきた。
「顔を上げてくれ。別に僕は君を虐めに来たわけじゃないんだ。……それにしても、本当に記憶が無いのか。少々当てが外れたな」
緋衣はぼやく様にそう言うと、数枚の書類を鶫の目に差し出してきた。
「話す前に、いくつか守ってもらわなくてはならない条件がある」
「これは?」
「
緋衣にそう促され、鶫は書類を手に取った。その契約書は小難しい言葉から始まり、得た情報の秘匿義務や、制約を破った場合の処罰に至るまで、様々な事項が表記されていた。
……これほどの禁則事項があるなんて、薄々分かっていたがやはりあの大火災は相当の厄ネタらしい。
――そんな厄介事に、さくらお姉ちゃんはどんな風に関わっているのだろうか。不安ではあるが、話を聞かないことには始まらない。
そして数分かけて書類の内容を確認した鶫は、やや緊張した面持ちで書類に名前と連絡先を書き込んだ。緋衣は記入が終わった書類を受け取ると、心配そうな顔で鶫を見た。
「決意は固いようだな。……はっきり言って、君はこの話を聞いたらショックを受けると思うぞ。それでもいいのか?」
「はい、覚悟の上です」
「そうか。ならば仕方ないな」
諦めた様に小さくため息を吐いた緋衣は、ファイルの真ん中くらいのページを開き、そっと指をさした。
「君が『さくらお姉ちゃん』と呼んでいる少女の本名は、
「ちょ、ちょっと待って下さい。じゃあ、俺と千鳥はさくらお姉ちゃんの
鶫は緋衣のその説明に納得がいかなかった。――ならば、鶫と千鳥の存在は一体何だというのだろうか。千鳥はともかく、鶫の方はこんなにも彼女に似ているというのに。
鶫が困惑しながらそう聞くと、緋衣は肩を竦めて首を横に振った。
「それは僕にも分からない。ただ彼女の所属する宗教団体は相当後ろ暗いことを行っていたようだ。何らかの理由で、生まれた子供のことを申告しなかった可能性がある。現に、集めた資料の中には梔尸沙昏とよく似た幼い少年――恐らく君の姿が写っている写真も残されている。君と彼女に何らかの繋がりがあるのは間違いないだろう。正直に言うと、僕が君に会いに来たのはその件について確認する為だったんだ。――だが、君は記憶を失っている。これではもうお手上げだ。僕が調べたかぎり、梔尸に連なる血縁者はもう皆大火災よりも前に亡くなってしまっている。DNA鑑定も出来ない以上、真相は闇の中だな」
「そうだったんですか……。あの、後ろ暗いことって一体どんなことを……」
鶫が恐る恐る聞くと、緋衣は淡々とした声で答えた。
「政府が把握している限りでは、その宗教団体――『黎明の星』では何らかの魔導実験が行われていたと睨んでいる。当時十四歳だった梔尸沙昏は、表に出てこなくなった両親に代わり、教主として団体のトップに君臨していた。彼女は状況証拠から、大火災発生の重要参考人とされている。……年齢から考えれば、裏から大人が手を引いていたのは明白なんだがな」
すらすらと資料を読み上げるように告げる緋衣に、鶫は焦りつつも声を上げた。情報量の多さに混乱しかけたが、どうしても聞き逃せない言葉があった。
「あの大火災の原因が、さくらお姉ちゃんにある? ……そんな馬鹿なことがあるわけない」
鶫の瞼の裏に浮かぶ白い少女――さくらお姉ちゃんは慈愛に満ち溢れていた。一つの都市を滅ぼしてしまうような、危険な研究とはどうしても結び付けられない。
「だが、それが政府側の見識だ。全てが燃えてしまった今となっては推測することしかできないが、状況から考えてもあの大火災に沙昏少女が関わっていることは間違いない。……だから酷な話になると言ったんだ」
――
「……さくらお姉ちゃんは、あの大火災の後どうなったんですか?」
「その後の足取りも掴めない上に、彼女のいた場所が火元――というよりも爆心地だからな。遺体は見つかっていないが、あの火の勢いならば焼死は免れないだろう。まず命は無いと思った方が賢明だ。……僕としては、何故君達姉弟が無傷で助かったのかが気になるところだが、まあその話は次回にしよう。これ以上は長丁場になりそうだからな」
緋衣はそれだけ告げると、ゆっくりとテーブルの書類を片付け始めた。どう見えも帰り支度である。
「ま、待って下さい。俺はまだ聞きたいことが……!」
大火災は一体何によって引き起こされた物なのか。鶫ではなく、千鳥の写真は見つかっているのか。まだまだ質問したいことは沢山あった。鶫が必死な声でそう告げると、緋衣は拒絶するように静かに首を振った。
「そう急かさなくとも、詳しいことはそのファイルに書いてある。後は帰ってからじっくりと見るといい。どうせ今の君の精神状態では、これ以上の説明は無駄になる。自分で気づいているか? 顔色が真っ青だぞ?」
緋衣はそう言って、先ほどまで開いていたファイルを鶫に手渡した。鶫はそれを受け取りながら、食い下がるように言う。
「緋衣さん、でも俺は……」
「今日はもう止めておけ。次の機会はちゃんと用意するさ。――ほら、これは僕の個人的な連絡先だ。何かあったら電話するといい」
緋衣は諭すようにそう言うと、黒革の手帳を一枚破り、さらさらと電話番号を書き込んだ。それを先程のファイルと一緒に鶫に差し出しながら、緋衣は苦笑した。
「それと、もし過去の記憶について何か思い出したことがあったら、まず最初に僕に連絡してくれ。些細なことだって構わない。――ちなみにそのファイルは契約書にサインした者でないと閲覧できない仕様になっている。盗まれることは無いだろうが、それでも取り扱いには注意してほしい。あと分かっているとは思うが、守秘義務はきちんとも守ってくれ。たとえそれが、君の双子の姉であってもだ」
「……はい。分かっています」
緋衣は念を押すようにそう告げると、カタリと音を立てて椅子から立ち上がった。
「忠告しておくが、この大火災の話に関わることを選んだ以上――君は決して真実から目を背けることは出来ない。そして君と梔尸沙昏の関係性が明らかになれば、大火災の関係者が接触を図ってくることもあるかもしれない。……気を付けろよ。世間というものは、君が思っている以上に手厳しいのだから」
「……はい、肝に銘じておきます」
あの大火災が残した爪痕はあまりにも大きい。もしも鶫と千鳥があの火災の関係者――しかも加害者側の人間だと世間にバレたら、それだけで真面な生活は望めなくなるだろう。はっきり言って、事情を知っていて尚、緋衣のように真っ当に気遣ってくれる人間の方が少ないのだ。
「緋衣さん」
「なんだ?」
「――色々とありがとうございました。これで俺は、ようやく前に進めそうです」
さくらお姉ちゃんや大火災については、まだまだ分からないことの方が多い。けれど、こうして情報提供者が現れただけでも僥倖というものだろう。
そう言って鶫が深々と頭を下げると、緋衣は少しだけばつが悪そうな顔をして口を開いた。
「……もし、君が自分ではどうすることも出来ない状況に陥った時は、僕だけではなく雪野雫に頼ることも検討しろ。きっとその方が君の助けになるかもしれない」
「はい、その時はよろしくお願いします」
そして緋衣は、古ぼけた腕時計を見つめながら言った。
「すまないが、僕はこれから別の用事があるんだ。――近いうちにこちらから連絡する。それまでに心の整理を付けておくといい」
緋衣はそう言い残すと足早に個室のドアを開けて出ていってしまった。鶫は閉じられたドアを見つめながらぎゅっと強く右手をにぎり締めた。じわり、と掌に血がにじむ。
「――緋衣さんは、良い人だった。けれど、あの人はまだ
そう言って、鶫は大きため息を吐き出した。恐らく親戚――涼音から鶫の話を聞いていた緋衣は、鶫に同情してくれたのだろう。そうでなければ、大した情報を持っていない小僧をわざわざ協力者として登録しようとは考えないだろう。情報を流してもらえただけでもありがたいと思わなくてはいけない。
「……道は長いな」
鶫はぽつりとそう呟くと。ゆっくりと立ち上がって伸びをした。緊張していたせいで、節々が痛い。
「小腹も空いたし、どこかで何か食べてから帰ろうかな。ここだと高くつきそうだし。……このファイルは、家に帰ってから見よう。ベル様の意見も聞きたいし」
そう言って、鶫はファイルを大事そうに抱えてホテルの喫茶店を後にした。その足取りは、心なしかいつもよりも重かった。
◆ ◆ ◆
「良かったの? あの子に
ホテルから出て紫陽花の庭園を一人歩く緋衣に、頭上からそんな声が降り注いだ。
「そんなこと、
緋衣が憮然とした様子でそう答えると、頭上の声はケタケタと笑いながら言った。
「あはは! やっぱり君はあの子が葉隠桜だって気づいてたんだ! ちなみにいつから?」
そんな楽し気な声の問いに、緋衣は面倒くさそうに口を開いた。
「確信したのは、柩の件を渚に聞いてからだな。――あの柩の暴走の日、葉隠は元々非番だったはずだ。それなのに、彼女は誰よりも早くあの場に駆けつけてみせた。渚が柩に絡みついた黒い糸――死の予言を僕以外に話したのは、あの七瀬鶫ただ一人。他にも理由は色々あるが、そのどれもが彼が葉隠桜だということを示している。……それに、普通あそこまで顔が似ていれば疑いようがないだろう?」
「まあねぇ。そういう詰めが甘い所、あの傲慢そうな蠅の王様の巫女っぽくって笑える」
「……彼の契約神に恨みでもあるのか?」
緋衣が怪訝そうにそう聞くと、頭上の声――手のひらほどの妖精の姿をしたナーサティヤが、何て事の無いように言った。
「ほら、蠅って疫病を運んでくるイメージがあるから、私はあんまり好きじゃないんだよね」
「お前も中々理不尽な奴だな……」
小さな白衣の様な物を身に纏ったナーサティヤは、緋衣の周りをくるくると飛び回りながらそんなことを言った。もしもこの場にベルが居たならば、怒り狂っていたことだろう。
「まあまあ、そんなことどうでもいいじゃない。――でも、君は言わなかったんだね」
「何をだ?」
「あの子の双子の姉――七瀬千鳥の
ニヤニヤとしながらそう告げたナーサティヤに、緋衣は睨み付けるような目線を向けた。
「……彼にこのことを話すのは、まだ酷だろう。それに、どんな顔をして告げたら良かったんだ。――君の慕っている双子の姉は、血の繋がらない
――ザアザアと降り注ぐ雨の中。緋衣は鶫に渡したファイルからこっそりと抜き取っていた書類を手に取り、大きな溜め息を吐いた。
その書類には、こう書かれていた。
『七瀬千鳥DNA鑑定結果
・
・
近しい血縁関係者の可能性が高い人物
・
緋衣はその書類を忌々しそうに見つめると、苛立ち交じりにぐちゃぐちゃに丸めて鞄に突っ込んだ。
「……遠野の奴、大火災の調査どころかとんでもない厄介事を押し付けてきやがって」
緋衣は吐き捨てるようにそう言うと、大きな溜め息を吐きながら紫陽花が広がる道を歩き始めた。――雨はまだ止みそうもない。
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