第71話 彼女の『愛』
葉隠桜との遭遇の後、千鳥は化粧室に駆け込み、そっと目尻の涙を拭った。
「――ああ、
安堵が滲んだ声で、千鳥はそう呟いた。
――千鳥が葉隠桜に対し抱いている感情は、言葉に出来ない罪悪感と、這いよる様な恐怖である。
箱根で助けて貰った恩義はあるが、それ以上に恐怖心の方が大きかったのだ。それはきっと、彼女のことを『さくらお姉ちゃん』と重ねてしまっているからだろう。
芽吹からDNA鑑定を提案された時、千鳥が真っ先に感じたのは恐怖だった。鶫との血縁関係を人から疑われたのは、何もこれが最初ではない。芽吹以外にも、無邪気な友人や心無い大人たちなどに『似ていない』と指摘を千鳥は受け続けてきた。
その度に千鳥は、足元が崩れてしまうかのような苦しみを味わっていた。
唯一手元に残されている、過去への手がかり。『さくらお姉ちゃん』と鶫が写っている写真には、千鳥の姿は無い。まるでそれが、『家族』の中に千鳥が含まれないことを証明しているかのようだ。その事実が、千鳥に重く圧し掛かる。
記憶の中の『さくらお姉ちゃん』は、いつも優しく微笑んでいた。けれど、何故だろうか。かつては優しいと認識していたはずのその笑顔が、今はひどく寒々しく感じてしまう。
――それはきっと、拭いきれないほどの自己嫌悪の所為かもしれない。
鶫がああも盲目的に
過去の記憶が無い千鳥には、たった一人の家族――鶫しか残されていない。もし千鳥と鶫が姉弟じゃないのなら、『七瀬千鳥』という人間は一体何を心の支えにして生きていけばいいのだろうか。そう考えると、怖くてたまらなかった。
鶫と二人で過ごす日常は穏やかで心満ち足りたものだったが、ふとした瞬間に胸が締め付けられるような不安を感じた。
高校に上がってからもその不安は消えずに、炎が燻るかのようにどんどん不安は膨らんでいった。
そんな時に、あの魔法少女――葉隠桜は現れたのだ。
鶫、いや、『さくらお姉ちゃん』によく似たあの魔法少女は、活動開始からあっという間にC級へと駆け上がり、そして年末のラドン戦で奇跡の生還を果たし、一躍有名になった。
千鳥はあの日、バスの中で葉隠桜が魔獣と戦うことになったと聞いた瞬間、遠ざけていた過去に追いつかれたような気がした。まるで、逃げられないとでも言いたげに。
彼女が『さくらお姉ちゃん』と同一人物なのかどうかは分からない。けれど、あそこまで似ている人物が無関係とも思えなかった。
――もし彼女が鶫の血縁者だとしたら、『さくらお姉ちゃん』の立場になり替わっている千鳥のことをどう思うのだろうか。そんな思いもあり、千鳥は葉隠桜とあまり関わり合いにはなりたくなったのだ。
だが今回の邂逅で、葉隠桜は表面上――内心ではどう思っているのかは分からないが、鶫に接触を取るようなことは無いと判断できた。あの言葉の通りならば彼女と鶫は無関係な存在であり、もし彼女が鶫の関係者だとしても、わざと知らないふりをするというのは、つまり関わる気がないということだろう。
――だからあの時、千鳥は彼女の返答を聞いてホッとしたのだ。
葉隠桜が鶫と関わらないかぎり、鶫はきっと『さくらお姉ちゃん』のことは思い出さない。……鶫の記憶が戻ったら、恐らく千鳥と鶫は今までと同じ関係ではいられなくなる。
幸いにも鶫は葉隠桜には興味がないようで、テレビなどに彼女が映っていても、特に気にしている様子は無かった。むしろ、顔が似ているせいで厄介ごとに巻き込まれ、かえって辟易しているようだった。
血の繋がりを気に病む千鳥とは対照的に、鶫は二人が姉弟であることを微塵も疑っていない。それに千鳥がどんなに救われていたかなんて、きっと彼は知らないだろう。
――だからだろうか。家族に抱く以上の感情を、千鳥が鶫に覚えるようになってしまったのは。
彼のふとした時の仕草や、笑い方。怒った時の顔や、落ち込んでいる時の声。その全てが、千鳥の心をざわつかせた。
それは恋と呼ぶには淡く、愛と呼ぶにはあまりにも
千鳥はこれから先もきっと、鶫の手を離すことができない。嫌がられても、憎まれたとしても、側に居たいと思ってしまう。そんな立ち回りは、『恋人』には決してできないだろう。
だから千鳥は、自分の気持ちに蓋をした。この愛情は、恋慕ではなく親愛であると
もし血が繋がっていたとしても、繋がっていなかったとしても、そう考えておけば千鳥の心は傷つかないで済む。
姉弟でいれば――姉弟ということに
――それは、さながら呪縛のようだった。
「……わたし、最低ね」
泣き笑いの様な笑みを浮かべ、千鳥はそう呟いた。こんなにも醜い腹の内を、
「――だが、それが姉君の選んだ道だ」
「シロちゃん……」
いつの間にか肩の上に座っていた白兎――千鳥の契約神は毅然とした声で言った。
「千鳥。お前はあの時『何があっても弟の味方でいる』と誓った。ならば、それを貫き通すべきだ。だってお前は、あの子の姉なのだから」
「うん、そうね……」
そして千鳥は、赤くなった目元を少し冷やした後、自分が所属している部署へと戻った。
休憩時間はとうに過ぎていたが、泣きはらしたような目を見て色々と察してくれたのかもしれない。同僚がよく死ぬこの職場では、隠れて泣いている人間は想像以上に多い。彼らは、千鳥の涙の理由をそう誤解したのだろう。
定められた時間内で仕事をこなし、帰路につくと、家で鶫が晩御飯の用意をしていた。黒いエプロンを身につけ、鼻歌を歌いながらキッチンで作業をしていた。
「おかえり。もうすぐ夕飯ができるから、少し待っていてくれ」
「うん、ありがとう。この匂いは揚げ物かしら?」
「そうそう、タラの芽とキスの天ぷら。ご飯はタケノコがあったから炊き込みご飯にした。メインが油ものだけど食べられそうか?」
振り返りながら、鶫は心配そうに言った。ここ最近、食が細い千鳥のことを心配しているのだろう。
「大丈夫。……でも、今回は随分手が込んでるのね。全部旬の食材みたいだし」
「うーん、最近はちょっと食べる楽しみに目覚めたからかな。食道楽の為にバイトもしてるしね」
「バイトもいいけど、あまり無理はしないでね。いつもお土産を買ってきてくれるのは嬉しいけど、ほどほどでいいんだから」
鶫は、二月の始まりころからアルバイトを始めたらしい。理由は、千鳥が政府で働いているのに、自分だけ家にいるのは心苦しいといったものだった。政府勤めの件を出されると、千鳥としても文句は言えなくなる。
たまにある土日は、移動経路の確保のため全国に飛ばされ、鶫と過ごす時間は格段に減ってしまっている。鶫は鶫なりに寂しさを感じているのかもしれない。
バイト先は「恥ずかしいから」の一点張りで教えてはくれなかったが、この様子だと飲食店関係だろうと千鳥は考えている。
それに、問題があるとすれば鶫の金遣いの方だ。鶫はよく週末に出かけていくことが多いが、その度に高価なお土産を持って帰ってくる。最初は初のバイト代で奮発したのだとばかり考えていたのだが、それが何回も続くと少し心配になってくる。
流石に保護者である夜鶴から貰っている生活費には手を出していないようだったが、今後の金銭感覚のことを考えると、鶫に浪費癖が付くのはあまりよろしくはない。
鶫は「気を付けるよ」と曖昧に笑っていたが、この様子だとあまり真摯には考えていないだろう。もし次も高額のお土産を買って帰ってきたら、その時は叱責が必要になるかもしれない。
……その時は芽吹先輩に協力をお願いしよう。千鳥はそんなことを考えながら、ソファに深々と座った。シロは、今日の夜は不在である。どうやら用事があるらしい。
「そういえば、千鳥はゴールデンウィークはどう過ごすんだ?」
料理が乗った皿を運びながら、鶫がそんなことを聞いてきた。
「例年通り、剣道部の合宿に顔を出すことにしてるの。……大会には出られないけど、稽古の手伝いやサポートは出来るから」
魔法少女になって大会の出場資格は失ってしまったが、千鳥は時間があれば剣道部に顔をだし、稽古の手伝いをしていた。部活を辞めると行った際、他の部員に懇願されたからだ。千鳥としても、身体能力が上がった体の動かし方を確認できるので、特に大変だとは思っていない。
「そっか。最後の土曜日に友人と遊ぶ約束をしたから、良かったら千鳥も一緒にどうかと思ったんだけど、それなら仕方ないか」
「友達? クラスの人かしら。鶫は彼らと仲がいいものね。廊下で会ったら皆が鶫の様子を話してくれるもの」
「……いや、あいつ等は自分が千鳥と話したいだけだぞ。それに今回の相手はクラスメイトじゃないよ。それと行貴も連休は金持ちのお姉さんとクルーズに行くって言ってたし」
その鶫の答えに、千鳥は苦笑した。どうやら鶫の友人である天吏は相変わらずらしい。
「なら、一体誰かしら? あと私が知っている共通の知人は芽吹先輩くらいしかいないけど」
「
――ガチャン。
その鶫の言葉が耳に入った瞬間、千鳥は手渡された茶碗を取り落としてしまった。テーブルの上に、ご飯が少し零れる。
「うわっ、大丈夫か? 割れてはいないみたいだけど、追加で足さないと駄目だな」
多めに炊いたから心配しなくていい、と鶫は笑った。千鳥は困惑した目で鶫を見つめながら、口を開いた。
「確かに連絡先は交換したけど、私は社交辞令の挨拶くらいしかしてないわ。それに私にとって二人は上司みたいなものだし……。むしろ、遊びに行くほど鶫が二人と仲がいいのが不思議ね……」
そんなこと話しながら、千鳥は鈴城と壬生が鶫と仲良くなった理由を考えていた。
――鶫には、本人には自覚は無いが、特殊な人間を惹きつける何かがある。
問題児とされているクラスメイト達を初め、素行不良の鑑のような天吏、そして学校きっての麒麟児と呼ばれていた芽吹――その誰もが、鶫のことを慕っていた。
一握りの選ばれた者である六華の二人もまた、鶫の特異性に惹かれたのだろう。
だが、と思いながら千鳥は鶫を見た。
……この様子だと、色恋沙汰にはならなさそうね。
二人の話をした時も、鶫は時に気負った様子は見せなかった。いささか楽しそうな気配はしていたが、そこに恋慕の色は見受けられない。本当に、『ただの友人』として出かける心積もりのようだ。
「今回は私のことは気にしなくていいから。楽しんできてね」
千鳥が笑ってそう言うと、鶫は優しく微笑みながら口を開いた。
「うん。……夏になって休みが増えたら、今度こそ一緒にどこかへ旅行に行こうか。最近は、あまり千鳥と出かけられていないし」
「そうね……。私のバイト代も入るし、うんと羽を伸ばすのもいいかもしれないわね」
鶫の気遣いに、心が温かくなる。
――ああ、この平穏な幸せがもっと長く続けばいいのに。そんなことを考えながら、千鳥は温かい料理に手を伸ばした。
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