第26話 久保田さん、久保田さん、久保田さん(1)
「相内さん」
沙莉の腕はひかれて、久保田さんに抱えられるようにしてキッチンのイスにすわらされた。
「腕は?」
久保田さんが顔をのぞき込みながら腕のあちこちを押す。押されることによる痛みはない。ただ、水槽にぶつけたところが熱い、痛い。痛いところを自分でなでる。久保田さんはしゃがみ込んで、今度は足を点検している。水槽が落下した現場に目をやる。夢の残骸が散らばり、地獄が現出している。
「足も大丈夫、なんともないみたいです」
「ごごめんなさい」
「え?ああ、悪いのはおれです」
頭がもう考えられなくなってしまった。泣くとこうなるものかもしれない。それで、つらいことから自分を守るのだ。
「落ち着いたら太田に帰った方がいいですね」
久保田さんがなにかいっているのは聞こえるけど、なにをいっているのか意味は理解できない。頭がおかしくなってしまったのだ。
イスの上に足をあげて抱え込む。膝に額をのせる。ただ生きている。呼吸をしている。空気がはいったり出たりしてお腹が動く。
サプライズデート、最高に楽しかった。あんなことを思いつくなんて、久保田さんは天才だ。思いついても実現できる男の人なんて久保田さんくらいだ。恥ずかしいことだってガマンしてくれる。
はじめて声をかけてくれたときの久保田さんの顔が思い出される。声がやさしい感じで緊張感が解けた。そのあといろいろなことがあった。はじめは困らせてばかりだった。困った顔もかわいらしくてよい。いつも伏し目がちで、なかなか目を合わせてくれない。でも、目が合うとすごく情熱的というか、気持ちを溶かされてしまう。
デートでは、お互いの好みのちがいがあらわになって、あまりうまくいかなかった。動物園でテンションマックスになった久保田さんはおかしかった。すごい雄弁で、ずっとシャベリ通しだった。沙莉がとなりにいるのを忘れているみたいだった。機嫌を悪くしてやったら、動物園をあきらめてくれた。遊園地では久保田さんの弱点をみつけた。ジェットコースターの類が苦手なのだ。すこし気の毒だったけど、大いにイジメてやった。弱り切った久保田さんは愛おしかった。
事件に巻き込まれたときは、救ってくれた。久保田さんの頭の切れ味は鋭い。手品を見せられているみたいだった。
久保田さんは芸術が好きなのだと思う。話しかけてくれたのは、水族館でスケッチしているときだったし、オブジェに興味をもってくれたし、制作の協力もしてくれた。沙莉にとってはインスピレーションの源でもある。
久保田さんの世界にかなり食い込んできたはずだ。部屋へは泊まりにくるし、職場の先輩とも知り合いになった。魚のさばきかたを教えてくれた。
静かだ。誰もいないみたいだ。顔をあげる。部屋にひとり取り残されていた。久保田さんが、消えてしまった。
「久保田さん」
小さいかすれ声しかでない。お腹が空いた。こんなときにおかしなものだ。
久保田さんのいない空っぽの部屋。抱えた足をイスから降ろす。背もたれに手をついて体をねじる。部屋のどこにも久保田さんはいない。どこにいったのだろう。壊れた水槽が元の位置に置かれている。床は拭いてある。もうびしょ濡れではない。濡れていた名残は感じられるけれど。
ああそうか。久保田さんは太田に帰れと言った。顔を見たくないから、姿を消しているあいだに帰れということなのだ。もう力がはいらない。だるい。でも、帰らなくちゃ。背もたれにしがみつくように体を立たせる。肩を落として、足をひきずるようにして、玄関で靴をはいて、外に出る。鍵はかかっていなかった。このまま帰っていいということだろう。
何度も見ているおなじみの景色。
久保田さんに嫌われてしまった。
ぶわっと涙がでてきた。
道路のアスファルトをぼんやり見ながら歩く。久保田さんは本当に顔を見たくなくて姿を消したのだろうか。それって久保田さんらしくない気がする。いつだって他人に丁寧に接する人だ。じゃあ、なぜ部屋にいなかったんだろう。誘拐?ふたりで部屋にいるのに、わざわざ久保田さんを連れ去る意味がわからない。うん?するどく嫌な考えがきらめいた。海の中の魚が体をねじったせいで太陽の光をギラリと反射したような感じだ。ステファニー。姿を消したとき、ステファニーは死んでいた。いやいや、久保田さんが死ぬ理由がない。死んだって空気に溶けたりしない。瞬間移動だってしない。
あれ?どこに向かっているんだ。この先は海沿いの道だ。駅はこっちじゃない。はあ、失敗。ここまできてしまったら仕方ない。遠回りだけど、このまま海沿いの道に出て水族館の前を通って商店街のルートで行こう。最近このルートを歩くことが多かったから癖になっていたみたいだ。
水族館。久保田さんは水族館にいるような気がしてきた。なんだ?水族館となると、美作さんのことが気になる。水族館には金子さんだっているというのに。まさか久保田さん、美作さんに会いに行ったなんてことはないだろうな。美作さんの結婚の申し出を受け入れると伝えに行ったとか。心臓がドキドキしはじめた。嫌だ。久保田さんがほかの人と結婚してしまうなんて、耐えられない。
バッグからハンカチをだして涙をぬぐう。きっとヒドイ顔だ。でも、急がないと。駆けだす。水族館に向かって、気持ちがはやって仕方ない。海沿いの道に出たら遊園地のアトラクションの向こうに水族館が見えた。
水族館に年間パスで入場する。もうダメ、息が苦しい。そういえば、まえにも一度同じ道を全速力で走って水族館まできたことがあった。また受付に駆け込む。久保田さんきてないですかと、どうにか声にしてだす。受付の女の人は、富田さんだったかな、沙莉に気づいて、週休だけど、一緒じゃないの?と言った。久保田さんは水族館じゃなかった。いや、待てよ。久保田さんは職員だ。受付の前を通らないで職員通用口からはいったかもしれない。沙莉は職員じゃないから、誰かにいれてもらわない限りバックヤードには行けない。
やっぱり限界。受付近くのキューブソファに倒れ込んで、息が整うのを待たせてもらうことにする。久保田さんがいないことがこんなに不安なんて。結婚されてしまったら生きていけない。人間はこんなに人を好きになるんだ。ドラマの登場人物みたいだ。自分が人生をかけて恋するなんて、誰も思っていないのではないか。でも、現実にはこんなに切実なものだった。だからドラマはあんなにドラマチックにつくられているのだ。あれでリアルなのだ。
キューブソファを占領していてもはじまらない。立ち上がって奥へ進む。やっぱり南極の展示室へ足が向く。いつもスケッチしていたあたりにどうにかたどりついて腰をおろす。背の低いアデリーペンギン。エンペラーペンギンに似たキングペンギン。本当に孤高の存在、エンペラーペンギンのペンスケ。いまにも久保田さんがエサのバケツをもって水槽にあらわれるような気がする。休みだからそんなわけないけど。
「こないだはありがとな」
金子さんの声だ。水族館のつなぎを着て観覧スペースをあがってくる。富田さんが知らせてくれたのだろう。
「久保田は今日休みで見かけてねえぞ。一緒じゃなかったのか?」
「すこし前まで一緒だったんですけど。ちょっとあって、久保田さんいなくなっちゃって」
「ケンカか。久保田に女の子とケンカする勇気があったとはな」
首をかしげる。久保田さんは水族館にきていなかった。美作さんに会いにきてはいなかった。すこしほっとした。でも、だったらどこに行っちゃったんだろう。金子さんがとなりに腰かける。
「ケンカというか、愛想をつかされたというか」
「久保田が相内さんに?愛想をつかしたって?そりゃねえだろ。愛想はつかされても、愛想をつかすやつじゃねえよ、久保田は」
「でも、黙って部屋から消えちゃったんです」
「消えたって、幽霊じゃねえんだからドアから出てったんだろ?」
また首をかしげる。
「ああ、出ていくところは見てなくて。落ち込んで、ふさぎ込んで丸くなってるうちにいなくなっちゃったんです」
「すこし待ってたら帰ってきたんじゃねえか?いまごろ探してるかもしんねえぞ?」
「でも、帰れっていわれて、気づいたらいなくて。クラゲの水槽叩き落としちゃって、床は水浸しにしちゃうし。最悪」
「そんなのは最悪じゃねえ、大したことじゃねえよ。雑巾で拭いて、壊れたものは買いなおせばいいだけだ」
「でも」
「なんだ。嫌われたと思いてえだけじゃねえのか?顔合わせづれえんだ」
「美作さんのことで」
「ああ、美作な。ケンカの原因か」
うなづく。
「心配いらねえんじゃねえかな。美作には酷だけどよ」
「どういう」
「片思いだな、ずっと。もう四年か五年だろ。大した奴だよ。それで澄ましていられるんだからな」
でも、結婚の申し込みをしたのだ。他人が知らないだけで、四年も五年もなんの進展もなかったわけではない。
「金子さんは奥さんのどういうところに惚れたんですか」
「どういうところってわけでもねえけど、見かけた瞬間に好きになっちまった」
「すごい。どうやって知り合ったんですか」
「ウエイトレスやってたんだ。いまは出世してホールにでることも少なくなったみたいだけどな。それで、店に通って、顔を覚えてもらって、話するようになって、デートに誘ってってところだ」
「思ったより気が長い話ですね」
「そらそうだろ。慎重にやらねえとな、後悔することになる」
「どこでどういう風に告白したんですか?」
「おっと、いけねえ。そろそろ行かねえと」
あら、逃げられた。
「そう気を落とすなって。帰りに久保田んとこ寄ってみろ。きっと元どおりだ」
感謝をこめてうなづいた。
ふう。ため息が出てしまう。久保田さん、どこ行ったんだろ。さっそく水槽を買いに行ったとか。いや、ネットで海外から取り寄せたといっていた気がする。美作さんに会いに水族館にきたのでもなかった。久保田さんが恋しい。久保田さんの顔が見たい。久保田さんの声が聴きたい。久保田さんに抱きつきたい。ダメだ。また涙が出てきてしまった。
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