06 その男、危険につき
◆5
「いい季節になったわね」
汗の滲む額にレースのハンカチを宛がいながら、女は傍らの部下に笑顔を投げかけた。
半袖のシンプルな白いブラウスに、薄いグレーのタイトスカートがいかにも涼しげな装いだ。彼女の半歩後ろを歩く部下は、淡い空色のワンピースから引き締まった手足を惜しげもなく外気に晒していた。
「はい。テニスがいっぱいできます」
「海にもたくさん行けるわ。ナナハネちゃんもどう? たまにはガスパーくんと4人で」
「社長。私が全然泳げないの、忘れちゃったんですかー?」
「そうだっけ? けど、海を眺めているだけでも楽しいんじゃないかしら? 波の音って心安らぐわよ」
「かっ、考えておきますね」
「ええ。また誘うから」
ナナハネの婉曲の拒絶は、楽しげに笑う上司には届きそうもない。爽やかな色の長髪がさらさらと揺れる様は、見る者にいくらかの
二人は、遠慮を知らぬ日光に焼かれながら、次の取引先へと向かっているところであった。
「やあ」
その時、親しげな声がかけられた。二人の真正面の方角から手を振りながら歩いてくる男。その姿を認識した瞬間、スカーレットの胸中に激しい衝撃が走った。
鮮やかな青い髪に、赤紫色の瞳。秀麗な相貌に、がっしりと屈強な体格。その男こそ、長らく魔法教会が探し求めた調法師、カロン・ブラック、当人であった。
「こんにちは」
「ごきげんよう」
「やあ、ナナハネちゃん。ますます綺麗になったねぇ。元気にしているかい?」
「カロンさん。あ、ありがとうございます。おかげ様でつつがなくやっています。カロンさんはお元気でしたか?」
「それはよかった。うん、こっちも上々かな?」
感情の変化が顔に出にくい性質を、これほど幸いに思ったのは初めてかもしれなかった。
ナナハネは、目の前の男が魔法教会内で同朋を殺し、秘密裏に指名手配されている危険人物だと知らない。もし知っていたら、素直な彼女にこんな自然な受け答えはできないに違いなかった。
スカーレットは、儀礼的な挨拶を交わしながら、最速で最善の解を導き出していた。即ち、あくまでも彼が罪人だと知らない風を突き通すこと。スカーレットが第七席の座に着いたことを、カロンは知らないはずであった。
内心の動揺を悟られぬよう、彼女は目前の男を真っすぐに見据えた。ところが、カロンの口が紡いだ言葉は、彼女の心に小さな動揺を招くことになる。
「スカーレットちゃん。この間はどうもありがとう」
「はい? 何のお話でしょう?」
「君は、もっと食事を多めに摂った方がいいね。もっと肉付きがあった方が男も喜ぶよ」
「えっと……はい……?」
カロンは、好意的な眼差しをスカーレットに向けてそう言った。案じているようにも、揶揄っているようにも聞こえる。
いらぬ忠告を受けた女は、事情の呑み込めない顔で曖昧に頷いた。無論だ。彼女は、先の台詞の所以が、先日の空き地での自分の行動にあるなどとは知る由もないのだ。
「あっ、あの、最近は調法師のお仕事は忙しいんですか?」
ぎこちない空気を取りなそうと、ナナハネが明るい声で新たな話題を提供した。
「いいや、落ち着いているよ。俺は固有魔法専門の調法師だからねぇ。公認魔法師もたまに増えるぐらいだしね」
「そうなんですねぇ」
「公認魔法師が増えなければ、固有魔法を作る必要もありませんものね」
ナナハネは彼の話に興味深げに聞き入っている。スカーレットも平時の微笑で相槌を返した。この場にレンリがいたなら、とんだ茶番だと苦笑したに違いない。
ある程度立ち話に花が咲いたところで、カロンが再び話題を転じた。女を魅了する優美な相貌には、親しげな笑みが浮かんでいる。
「そう言えば、聞いたよ。君、婚約したんだってね。名前は何と言ったかな?」
「レンリのことでしたら、婚約したというわけではないんです。お付き合いはさせていただいているのですけれど」
「そう、婚約ではないのか。それじゃあ、俺にもチャンスはあるのかな?」
「はい? あの、チャンスというのは……?」
「冗談だよ」
意味深に口角を持ち上げる男に、ナナハネの方が赤くなった。方やスカーレットはと言えば、困惑顔で二人を交互に見つめるばかり。
彼女の思考の大部分は、如何にしてこの男から情報を聞き出し、この場を安全に切り抜けるかという難題で占められていたのだ。
「最近お見掛けしませんでしたので、私はてっきり他の支部に移られたものだと思っていました」
「まあ、それもあながち間違ってはいないね」
「今はどちらにいらっしゃるのですか?」
「あっちに行ったりこっちに行ったり。風の吹くまま、気の向くまま。教会の目をごまかしながら、気ままにやっているよ」
「そうですか」
スカーレットは口を噤んだ。ごく自然な成り行きで尋ねたはずだったが、のらりくらりと躱されてしまう。
加えて、捕え様によっては逃亡中であることを
さらに、問いが返された。矛先は、傍らで怪訝そうに見守る女子社員。
「それよりも、ナナハネちゃん。営業職にはもう慣れたの?」
「えっ、えっと、はい。いろいろ任せてもらえるようになってきました。社長とお客様のおかげです」
「そう。今年に入ってから経営状態が良くないって聞いたから、心配していたんだ。でも、ナナハネちゃんがしっかり育っているのなら、オリエンス商会も安泰だねぇ」
「そんな、私はまだまだで……」
「ねぇ? スカーレットちゃん?」
「え、ええ。はい、そうですね」
いつになく、スカーレットが押されていた。日頃から場の主導権を譲らない彼女が、自身のペースを守ることにおいては右に出る者のいない彼女が、カロンのペースに圧倒されている。
ナナハネも、その異常に気が付いたらしい。不安げな眼差しと目が合った。どんな顔をすればいいか分からず、スカーレットは曖昧に笑む。
「そう言えば、少し前に総帥に呼び出されていたよね。どんな話をされたのかな?」
「えっ、えーっと……」
「ここでは言えないことかな?」
「ええ、はい……。いえ、えっと……」
なぜか言葉が形にならない。どうしようもなく心をかき乱される。笑顔の仮面を剥がされて、その裏の柔らかい内面を引き摺り出されそうになる。
冷静さを欠いた思考は自らの防衛を選択した。
「あの、私たち、次の約束がありますので、これで」
「そうそう。スカーレットちゃん。ちょっといいかな?」
「ええ。何でしょうか?」
先に記しておくが、スカーレットは決して油断をしていたわけではない。何を言われても動揺しない覚悟はあったし、魔法の気配を感じたならすぐさま反撃する用意もあった。
ただ、想定を超えた事態に反応が一瞬遅れただけに過ぎない。
親しげな笑顔を乗せたまま、カロンはスカーレットへと歩み寄った。その距離、大股で一歩分。
と。大きな二つの手が、真正面からスカーレットの両肩を捉えた。そして、何の躊躇も脈絡もなく、無防備な彼女の唇に男のそれが押し当てられた。
「んっ……!?」
「……っ!?」
あまりに突拍子のない出来事に、ナナハネは声を出すことも忘れて凍りついた。その間にもカロンの手は肩から頬へと滑り、すぐに顔を反らそうとした女を押さえつける。
スカーレットの瞳が見開かれた。次の瞬間、彼女の身体がふらりと傾く。咄嗟に広げたナナハネの腕に、倒れ込むようにして寄り掛かった。
「社長!」
勇者の唇を奪った男は、赤紫の瞳を細めてほくそ笑んだ。
「なるほどねぇ」
「カロンさん! 社長に何をしたんですか!?」
糾弾するナナハネの声。しかし、その問いに答えることなく、
「カロンさん!!」
「またねぇ。ナナハネちゃん。彼によろしくねぇ。第七席様」
吹き抜ける一陣の不穏な風。愉快そうな声を残して、カロン・ブラックは姿を消した。あくまでも好意的な微笑みを崩さないままに。
「スカーレット社長! 大丈夫ですか!?」
「……。今の……」
ナナハネに肩を預けたまま、乱れた呼吸を整える。呆然と呟くその顔は青ざめていた。
「これが……」
「社長? 大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと驚いたけど、それだけよ」
一切の感情を排した平坦な語調で、スカーレットは言った。。触れれば崩れそうな脆い笑顔だった。
「カロンさん、どうしちゃったんだろう? あんなことする人じゃなかったのに。もしかして、スカーレット社長のことが好きなのかな? でも、だからってこんなやり方は、やっぱりダメ……ですよね……」
初めは、努めて明るく。ナナハネは取りなすように言葉を並べた。しかし、後が続かない。重い沈黙が、二人の周囲を冷やしていく。
「大変。ナナハネちゃん、ちょっと急ぎましょうか。もう約束の時間が迫ってるわ!」
底抜けに快活な声が、熱気と日常を連れてきた。小さめのビジネスバッグを肩へと掛け直し、大きな伸びを一度。もうすっかりいつもの調子だ。
「えっ? ちょっ、ちょっと待ってください! 休まなくていいんですか?」
「ナナハネちゃんは心配性ね」
「えぇ……?」
平時の微笑を浮かべてナナハネの頭を一撫ですると、スカーレットはそのまま歩みを再開した。慌てたように、ナナハネが追う。
スカーレットの性格をよく分かっているナナハネは、だから、気付かぬふりをした。スカーレットが自分の肩を抱き、怯えるような表情をしていたことを。平静を装うその声に、確かな震えが混じっていたことを。
気丈に振る舞いながらも、スカーレットは未だ動揺の
彼に触れられたその瞬間、全身を蝕んだのは濃厚な死の気配であった。魔竜との決戦で感じた物と何ら変わりのない終焉の香り。本能に直接刻み込まれた死の恐怖には、勇者とて抗うことなどできない。
彼女は、身を持ってカロンの異形の恐ろしさを知ったのだ。彼はスカーレットに警告をした。自分はスカーレットたちの動向をつぶさに把握しているのだと。いつでも彼女等を殺めることができるのだと。
そして、確信した。次に彼に触れられれば、間違いなく命はないと。
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