10 迫る悪意
◆10
「ええ。はい。それに関しましては、以前書面にも記載しておりました通り……」
作り物の微笑を貼り付けたまま、スカーレットは歩いていた。
右手にビジネスバッグを抱え、左手には
耳に当てたディスプレイから流れてくるのは、恫喝宛らに怒鳴り散らす男の声。一度深く息を吸い込み、表情を崩さないように勤めながら、スカーレットは至って事務的な返答を返した。
「承知いたしました。ええ。次回お伺いした際に、もう一度ご説明いたします」
ディスプレイを耳から離し、足を止めて深呼吸を一度。通信を一方的に切断されたミミアからは、通信の終了を知らせる規則的な電子音が流れていた。
街角に佇んだまま、自らの内に渦巻く思いの正体を探るように、スカーレットは静かに瞳を閉じた。
昨日二人組みの奇襲を受けてから、彼女の周囲は俄かに慌ただしくなった。
自警団による事情聴取と、顧客へのフォロー、その流れで断りきれず会食。帰り際に別の顧客に捕まり、帰宅した頃には時刻は10時を回っていた。
酒が飲めず、食への関心も薄いスカーレットにとって、心を許していない者たちとの夜の付き合いは、あくまでも業務の延長でしかない。彼等が時折自分に向けてくる怪しい視線や、好意的な相貌の奥に潜む別の思惑に心当たりはあっても、その意味までを深掘りすることはない。
「白百合ちゃん、ごきげんよう」
ディスプレイを耳に当て、辛抱強く待つこと数分。やけに高い女の声が聞こえてきた。
この話しぶりを聞いて、先日資料室で語気も荒く毒づいていた者と同一人物だなどと、いったい誰が思うだろう。
「チーナちゃん。例の事件なんだけど、おかしなことがあったの」
「ちょっと待っていてね。君たち? 私は少し席を外すよ。問題ないね?」
穏やかな女の声に、応じる複数の男女の声、不規則な雑音。それらの音がぴたりと止んだ時、そこには不機嫌そうに言葉を紡ぐ女だけが残っていた。
「で? 何が変だって?」
「魔法痕が見えなかったの」
スカーレットは、至って簡潔にその事実を告げた。
「は? もっと詳しく言え」
「魔法書がなくなってた本棚だけ、何も見えないの。そこだけ空間が切り取られているみたいで、何だか気持ちが悪くて。魔力痕もダメだったわ。こんなことってある?」
スカーレットの声には、戸惑いの気配が濃い。対するチーナは、思案もそこそこに即答した。
「お前にも見えなかったか」
「お前にもって、チーナちゃんもあのお店に行ったの?」
「まあな。あたしには見えなくても、魔力痕まで見えるお前にならって思ったんだけどな」
話を続けながら、スカーレットは止めていた歩みを再開した。勝手知ったる裏通りを颯爽と歩く。目的地は、次に商談を控えた取引き先だ。
「私のことを評価してくれているのね。喜ばしいことだわ」
「うぬぼれるなよ、不死身ちゃん」
「私は不死身ではないわ」
「よく言うよ。15年も見てくれ変わってねえくせに。勇者は人間じゃねえってちょくちょく噂になってんの、知ってるよな?」
ミミアの向こうから流れてくる胡乱げな声に、スカーレットは口角を上げたまま返答を返した。
「あら、ドキッとするじゃない。あながち間違っていないから」
「は? おま、それ……!」
「冗談よ」
「お前なあ!」
大きく嘆息するチーナに、スカーレットはくすりと笑う。彼女は、自分の前で百面相を演じるチーナを好ましく思っていた。
「とにかく、今回の事件はただの盗難事件じゃねえ。絶対油断すんなよ」
微かに聞き取れるほどの声で、チーナがぼそりと呟いた。そこには、同朋を労わる気持ちが多少なりとも込められていた。
しかし、彼女の警告がスカーレットの耳に届くことはなかった。
不意に、スカーレットの身体を、横からの強い衝撃が襲った。道端で誰かとぶつかることは、少なくとも彼女にとってはさして珍しいことでもない。
咄嗟に謝罪しようとした時、衝突の勢いで上体が大きく左に傾いた。左手に握っていたミミアが手を離れ、軽い音を立てて落下する。
「失礼……えっ!?」
右側からがっしりと髪を掴まれている。すぐ傍らで何者かの息遣いが聞こえた。ビジネスバッグが華奢な肩を滑り落ちる。
「あの……?」
相手の真意を図ることができず、スカーレットは呆然と立ち尽くす。しかし、彼女が取るべき行動は、如何なる理由で髪の毛を掴まれているのかを思案することではなかった。
髪を掴んだその手で、乱暴に引き寄せられる。次の瞬間、右の脇腹に鈍い衝撃が走り、彼女の身体は宙を舞った。受け身を取る余裕などあるはずもなく、堅い地面に全身を打ち付けられる。
「う……っ!」
ひんやりとした地面の感触が、暑さで汗ばんだ体に心地よい。しかし、直後、右手に鋭い痛みを知覚し、夢見がちな思考は一気に吹き飛んだ。
「えっ? ちょっ……?」
視線を動かせば、女の右手を踏みつける大柄な男が目に入る。やはり、その姿に覚えはなかった。
右手の指先を靴底で縫い留めたまま、執拗に体重を加えられ、思い切り地に押し付けられる。人体で最も敏感な部位を攻められる苦痛に、痛みに強いスカーレットも沈黙を貫くことができなかった。
「うっ、あ……! どう、し、て……!?」
驚愕から困惑へ、困惑から批難へ。目まぐるしく入れ替わる感情が、途切れ途切れの言葉の中に現れては消える。
頭を蹴られ、視界が白く染まった。咄嗟に丸めた背中に追撃を食らい、文字通り息が止まる。
慈悲も躊躇も持たぬ足が、女の可憐な肉体に新たな痛みを次々与えていく。それは、スカーレットが未だかつて経験したことのない種類の暴力であった。
激しく咳き込み、空気を求めて浅い呼吸を繰り返す。ある程度いたぶって満足したのか、男の足が止まった。
しかし、間を置かずに彼女の上に馬乗りになると、その長い髪を
「……っ!!」
そして、心底からの嫌悪を多分に含んだ声で、こう叫んだ。
「お前みたいな女が、僕は死ぬほど嫌いなんだ! 調子に乗るな!! お前のせいで!! くたばれ! くたばれ、人殺し!!」
この言葉を聞いた瞬間、スカーレットは直観的に悟った。男の行動も言動も、彼自身の意思によるものではないということを。
しかし、否、だからこそ、これから行う行為に躊躇などしない。
彼女の幸運は二つ。一つは、彼女が左利きで、利き手が使える状態であったこと。そしてもう一つは、上着の中に杖を携帯していたことだ。
「お断りです!」
力強く投げつけた言葉が男の脳に届くよりも早く、スカーレットの右足が彼を下から蹴り上げていた。怯んだところへ、さらに氷の衝撃波が襲う。
スカーレットの杖から放たれたそれは、体格の良い男の身体を、通りを挟んだ民家の外壁へと強かに叩きつけた。
「ぐっ……!」
魔法を発動させるためには、一定以上の距離が必要になる特性上、杖という物は接近に弱い。その弱点を補完するべく搭載されたのが、セービングシステムである。
スカーレットの愛用するフォースラビリンスは、古い時代に作られた物で、元々この機能はなかった。しかし、何かと用心深い恋人の進言に従い、錬金師に改造を依頼しておいたのだった。
「初めて使ったけど、これ、ちょっと威力が強すぎるわね」
冷静に独り言ちるスカーレットは、この機能の威力が所有者の魔力に依存することを知らない。
痛みと眩暈の残る身体でふらふらと立ち上がり、襲撃者を見下ろす。男は、苦悶の表情を顔に貼り付けたまま、地面に横たわって気を失っていた。
打ち所が悪かったか、肩や頭など数カ所に小さくない裂傷を負っている。命が危ぶまれるほどではなく、万一覚醒しても脅威にはなり得ないだろう。
「どうして……」
スカーレットは、男の傍らに膝をつくと、躊躇なくその衣服に手を掛けた。
「ねえ」
耐魔服を何も身につけていない。杖も極めて一般的な安物。数行の文字を手帳に書き込むと、落ちていたミミアを拾い上げた。
「あなたは……」
虚空を見つめたまま、スカーレットは見えない影へと語りかけた。その瞳は、眼下に倒れる男など映していない。戸惑う女の声が、重苦しい街に寂しげな余韻を残していた。
「あなたは、誰なの? 私を知ってるの?」
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