16 一進一退
◆20
廃屋の周囲を巡れば、目立つ巨体はすぐに見つかった。
大量の綿毛を大事そうに腹の下へと抱え込んでいる。8つの瞳がぎょろりと動き、新たな生命を害そうとする者たちの姿を捕えた
「見て! 卵を持ってる」
「あれを下手に刺激しないでください。孵化させてしまうと厄介なことになるかもしれません」
「そんなこと言ったって、どうすりゃいいんだよー!」
飛んできた白糸を間一髪で躱しながら、ガスパーが叫ぶ。
「イグニス!」
「エクレール!」
迫る炎は糸に絡め取られ、振り下ろされる雷撃は跳躍で躱される。
「すばしっこいよー!」
「手ごわいよー!」
「スイーティ!」
着地点を狙ったレンリの魔法は、紛う方なく巨大蜘蛛の頭部に命中した。
しかし、安堵したのも束の間。
「聞いていない!?」
その巨体は動きを止めることなくステップを踏む。慌てて後退るが、狙われたのは金色の髪。
「うへー! 何で俺ばっか!?」
派手に転がり、迫る黄金をすれすれで躱す。
「パラス!」
ナナハネの詠唱、雷の中級補助魔法。当たればマヒ性の毒が体を蝕み、しばらくの間は行動不能になる。
確かに命中はした、しかし。
「駄目!?」
この大きなオクトスレッドは、他の者と違い、睡眠とマヒに耐性があるらしい。そうこうしていると、流れるような速さで、前触れなく脅威が跳躍した。
「イグニッション!」
着地点を目掛け、放たれた上級物質魔法。轟々と燃え盛る真っ赤な炎。もう蜘蛛に逃げ場はない。高く飛び上がっていた巨大蜘蛛は、重力に従い、火炎の中へと身を投じるはずであった。
しかし、その予想すら、裏切られる。
「あれ?」
その巨体が地に落ちることはなかった。その姿が宙に舞い、レンリの頭上を通り過ぎていく。
「飛んでる!?」
「どうなってるの?」
「糸です!」
蜘蛛の動きを注視していたレンリは捕えていた。その体から無数の糸が放たれる様子を。
脅威が縋ったのは、古びた民家の庭の主。家の屋根よりも背の高い一本の大木。その幹に、悠々とぶら下がる8本足。
「サーカスみたい……」
「すっげー! あの糸、耐魔服の材料に使えるー!」
「そんなことを言っている場合ですかー!」
3人、全速力で追い縋るが、敵の動きは速い。先ほどと同じように糸を伸ばすのが見える。レンリが大木を間合いに捉えた時には、とうに民家の屋根へと飛び移っていた。
「こ、これは……まずいですね」
レンリの呟きが合図となった。蜘蛛の姿が民家の向こうへ消える。考えている余裕はない。急いで民家の裏手に回ると、隣家の屋根にその姿がちらりと見えた。
「駄目。追いつけないよ」
「ナナハネさん、先回りしてください」
「分かりました。ガスパー、お願い」
「了解!」
さすがにふざける時ではないと分かっているのか、ガスパーは即座に真っ赤な杖をナナハネに向けて掲げた。
「アクセル・バーン!」
赤い光がナナハネを包み、彼女に吸い込まれるように消える。炎属性の補助系固有魔法。対象者の素早さを大幅に高めるものだが、その状態で思い通りに動くためには、高い運動能力と度重なる訓練を必要とする。
「ラピード!」
ナナハネの杖から小さな稲妻が迸る。こちらは上級の補助魔法。先刻の固有魔法には劣るものの、一定時間身軽に動くことができる。稲妻を体に受けたガスパーは、その効果を確かめるように手足の関節を動かして頷いた。
「レンリさんは……」
「僕は大丈夫です。掛けていただいたところで有効活用できませんし。早く行ってください」
「はい!」
言うが速いか、ナナハネの姿は遥か先へと消えていた。
威力の高い固有魔法は言わずもがな、上級魔法も使用者に大きな魔力の消費と疲労を齎す。何より、敵の居場所を突き止め、そして追いつくためには、もう一刻の猶予もないのだ。
「相変わらずすっげえなー、ナナハネは」
「僕等も行きますよ。後で必ず追いつきます」
「おう!」
その頃、オクトスレッドは糸を自在に操り、派手な逃走劇を繰り広げていた。建物の壁を上り、下り、飛び移り、壁から屋根へ、屋根から壁へ。
やがて一軒の古びた家屋に辿り着くと、しばらく地上の様子を伺った後、人気のない路地裏に足を下ろした。
周囲に生命の気配がないことを確認し、口の中に隠していた卵を土の上に転がす。この脅威の行動理念は、あくまでも卵を無事にかえすこと。
と、
「エクレール!」
ナナハネが上級魔法を打つのと、巨大蜘蛛が跳躍したのはほぼ同時であった。再度伸ばされた糸が、色褪せた赤い屋根を捕える。
「逃がしはせん! イグニッション!」
間合いの限界から放たれた上級魔法。真っ赤な火炎球が、寸でのところで身を引いた巨大蜘蛛の行く手を遮るように、民家の壁に着弾した。火炎によって糸を切られ、退路を断たれた蜘蛛が落下同然に地面に転がり落ちる。
「ナイス、ガスパー!」
「へっへー。だから言ったっしょ? 二人でやれば敵なしだって。にしても、でかいな」
「う、うん」
赤、黄、二つの杖が蜘蛛を狙う。間近で見るオクトスレッドは、予想以上にグロテスクな姿をしていた。
ガスパーの倍はあろうかという巨体に、人の恐怖を呼び起こすような、黄色と茶色の不気味な模様。統制を欠いた無数の瞳がぎょろぎょろと
その異様な様相に、ほんの僅か、二人は圧倒されてしまう。分かっていたはずなのだ。戦闘においては、その一瞬が命取りとなることを。
ガスパーが、視界の端に白く煌めく何かを見た。その正体に思い当たった刹那、彼の視界は大きく降下していた。両膝が柔らかい地面に埋まっている。
「うわっ!」
「ガスパー! ひゃっ!?」
杖を構えたまま、ナナハネが堅い地面へと引き倒される。足に糸が絡みついて起き上がることができない。倒れた衝撃で手を離れた黄色の杖が、やけに軽快な音を立てて転がっていく。
短時間で強力な魔法を連発したことによる疲労が、二人の集中力を鈍らせていた。身体強化はとっくに消えている。掛け治す余裕など無論ない。
「ごめん。油断しちった」
「えへっ、私も」
体の芯から冷やされていく感覚。なけなしの魔力が奪われていく。杖を構えようとしても、体に力が入らない。優位な戦況から一転、絶体絶命の窮地に追い込まれた二人。
だが、その顔に悲観の色はない。
そう、二人は信じていた。くるべき神風の到来を。
と。
唐突に、蜘蛛が跳躍した。
「ひゃーーーっ!!」
「ふえーーーっ!?」
蜘蛛の糸で繋がっていた二人は、無理矢理足を持ち上げられ、宙ぶらりんの体勢へ。そして、何の慈悲も構えもなく、頭から地に墜落した。
「ううっ……」
「いででで……」
「まったく……。虫のくせに、察しのいい……」
息も絶え絶えの様子で毒づくのは、
「レンリー! 助かったよー!」
ガスパーがふらふらと立ち上がる。ナナハネは、堅い地面に頭を強かに打ち付けており、患部を抑えて呻いている。
「さすがに魔力も底を尽きているはずです。もう……逃げられないでしょう」
彼の言葉を裏付けるように、オクトスレッドは緩慢に手足をばたつかせた。止めを刺す絶好の機会だ。
「いたぞ! こっちだ!」
「おいお前たち、無事か!?」
その時、複数の靴音が騒々しく響き渡り、曲がり角から黒い軍服に身を包んだ数名の男女が現れた。まだ呼吸すらろくに整っていないレンリは、流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭い、盛大に舌打ちをした。
「自警団ですか。なんてタイミングの悪い」
恰幅の良い中年の男が、前に進み出て鬱陶しそうに手を振る。
「これが例の脅威だな。ご苦労であった。あとは我々に任せてもらおう」
「そうはいかないんですよ。我々も魔法教会から命じられているのでね」
ふらふらと走り始めた脅威を見やり、有無を言わさぬ口調でレンリは続けた。
「みなさんは向こうに回ってください。奴の戦力は、あの二人がほとんど削いでくれました。もう壁を登るような派手なことはできないはずです」
「ここはあんたに従おう。かなりお疲れのようだからな。行くぞ、挟み撃ちだ!」
「ちっ、若造が」
自警団が曲がり角の向こうに憤然と消えて行く。一人の男が去り際に発した嫌味を、レンリの耳ははっきりと捕えていた。
彼は決心する。必ずや、自分たちでオクトスレッドを仕留めてみせると。
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