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私からは特になにも見えないと杏菜は言った。
もしかして、前世の記憶も見えるんじゃないかと期待したが、そういうものではないらしい。
杏菜が残像と呼ぶそれは、脳内の想像や考えといったものではなく、単純な記録のようなもの。実際にあった出来事が、本人の認識とは無関係に見える。私の同期の佐藤は、心霊スポットに肝試しに行った際に古いお地蔵さんを蹴っ飛ばしていたのだが、本人は気付いていなかったそうだ。杏菜は残像を見てそれに気付き、佐藤はお地蔵さんを直して手を合わせて、それで怪奇現象が治まった、ということらしい。
私が悩まされているのは、水に関することだった。
それは、ひと月前、今の部屋に引っ越してすぐ始まった。
最初は単なる水漏れや雨漏りだった。まあ築年数の古いアパートだし、そんなこともあるだろうと思い、管理会社に見てもらったが、水道にも天井にも問題はなかった。直しようがないから何の対処もできず、ぴちゃ……ぴちゃ……という水滴の音が四六時中しているようになった。
今度は、時折蛇口が勝手に開くようになった。それは台所だったり、お風呂場だったりする。ある日仕事から帰ると、ざああああと大量の水が流れる音がした。慌てて浴室に向かうと浴槽は満杯の水を湛えていて、溢れた分がざあざあと音を立てて流れていた。
それからもう一つ、決定的な出来事があった。
その日、いつもどおりに眠りについた私は夢うつつの中で、誰かの気配を感じた。それはベッドに入り込み、私を後ろから抱きしめた。怖いという感じではなかった。ただ、なんだかひどく悲しい気持ちになった。
そこで、ふ、と目が覚めた。もちろん隣には誰も居ない。夢か、と思った時、背中にぺたっとした嫌な感触があった。
パジャマの背中が、ぐっしょりと濡れていた。
汗ではない。背中だけでなく、袖の外側、そしてシーツと、夢の中の誰かが触れていた箇所がすべて尋常ではない量の水を含んでいたのだ。
それが、二日前の出来事。さすがにその日は恐ろしくなって友人の家に泊めてもらい、翌日、気分転換にと開いてくれた飲み会の中で、私は佐藤から杏菜のことを聞いたのだった。
そして今、二日ぶりに自分の家に帰ってきた。隣には杏菜がいる。
夕焼けが共同廊下を真っ赤に染めて、ひぐらしがうるさく鳴いている。その不気味さが一昨日の恐怖をよみがえらせ、玄関の前で立ち竦んでしまった。
「……大丈夫ですか」
杏菜が気遣うように私の腕に触れた。その手のひらのしっとりした温度に、少し気持ちが和らぐ。
私は「大丈夫」と頷いて、鍵を開けた。
水滴の音も、蛇口が開いている音もしなかった。ただ静かで、蒸し暑い。
杏菜は「失礼します」と言って、大きなトートバッグから例の消臭スプレーを取り出した。本当に除霊のつもりでやっているのか。シュッ、シュッ、とスプレーをまくその姿におかしさと愛らしさを感じ、ますます気持ちが落ち着いた。
一通り除霊を終えた杏菜は部屋中を見て回った。ユニットバス、台所、そしてベッドの方へ。ベッドにはあの時濡れたシーツがそのままかかっていた。とにかく不気味で、すぐに部屋を出てしまったから。
さすがにこの暑さで水分はすべて蒸発していたが、大きなシミができていた。
きょろきょろと見て回った杏菜は「うーん」と唸ってから口を開いた。
「事故とか事件とか、そういうのは見えないです」
それはそうなのだろう。私も事故物件サイトで確認したが、この部屋は載っていなかった。
「女性が二人見えます。一緒に暮らしてたみたいで、すごく仲良さそう」
そういうと杏菜は見えたものの説明をしてくれた。ここにテーブルを置いて、一緒に食事をして、よくテレビを見て笑ってた。朝は一人が先に出かけるみたいで、もう一人は玄関まで見送ってる。
杏菜は続ける。
「でもこれ、二人分じゃなくて、片方の記憶なんじゃないかって気がします」
「そんなことわかるの?」
「確かではないですけど。物から見える残像って、たぶんその側にいた人の記憶が染み付いたものなんじゃないかなって思うんです。それで、朝出かけてから夜帰ってくるまでの残像がないから、出かけてる方の人の記憶なんじゃないかなって」
「もう一人の方はなんで残ってないんだろ」
「さあ……思い入れが強いほうが残像が濃く残るとか……?」
二人で居た記憶に、一人だけが執着している。なんだか自分のことのようで、苦々しかった。
「あれ?」
私と一緒にいたことなんか覚えていないもう一人が声をあげる。見ると、天井を見上げていた。
そこにあるのは、雨漏りのシミ。
「あそこのシミ、縁が白っぽくなってないですか?」
言われてみると、たしかにシミの周りに白い線のようなものがある。
同じようなものをついさっき見た気がする、と視線を巡らせて、すぐに見つけた。
シーツだ。こちらは布だから、ただの水ならシミにはならないはずだが、私は一瞥してシミがある、と思った。
それは、天井と同じように、白い縁取りがあったからだ。
「杏菜ちゃん、こっちも」
指差すと杏菜はベッドの脇に座り込み、シーツのシミの部分に触れた。白いものは布から剥がれて、ターコイズブルーのネイルをした杏菜の指に移る。
「これ……塩じゃないですか?」
細い指の先についた結晶は、たしかに塩のように見えた。
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