+20話『お出迎え』

 澄乃からの衝撃提案の後、雄一は一度彼女と別れて自宅へ戻った。手早く一泊分の着替え等を用意し、五分ほどで再び家を出る。さすがにここから澄乃の家まで歩くのは時間がかかるので、路線バスの利用を選択。ちょうど良く停留所にやって来たバスに乗り込み、雄一は乗客もまばらな車内で緩く息を吐いた。


 車窓から流れる景色を眺めながら、深呼吸を一回、二回、三回と繰り返す。身体の奥底でくすぶる熱を吐き出し、代わりに換気対策でわずかに開かれている窓から入り込む冷気を取り込む。


 ゆっくりと息を吸って、吐いて、吸って、吐いて――よし、落ち着いた。




(いや落ち着けるかッ!?)




 ノリツッコミである。仮に周囲に人の目が無ければ、窓ガラスに映る自分に腰の捻りも加えた完璧な平手を叩き込む自信があるぐらいのノリツッコミである。


 テンションがおかしくなっているのは言うまでもないが、こればかりはどうしようもない。何せ澄乃から――最愛の恋人からお泊まりに誘われたのだ。思春期男子にとって、これほど胸が高鳴るイベントがあるだろうか。


 いや、無い。そう断言できるほどに、澄乃からの提案は衝撃的であった。


(これって……誘われてる、ってことなのか……?)


 クリスマスイブの夜――通称『聖夜』。その日の午後九時から翌二十五日の午前三時までの六時間は、そういう行為・・・・・・に及ぶカップルが一年で最も多いとかで、『性夜』というネットスラングで呼ばれたりもする。


 そんな日に泊まっていって欲しい。これは澄乃からのアピールに他ならないのではないだろうか。


(いや待て、早まるな俺……!)


 あくまで多いというだけで、全てのカップルが情事に耽るわけでもない。欲にまみれた自分の勝手な憶測で暴走するなどもっての外だ。もし行き過ぎた想いで澄乃を泣かせることになったら……雄一の人生において、最も恥ずべき記憶になるに違いない。


 何度目になるかも分からない深呼吸を行い、十分に酸素を取り込んでから、改めて考えを巡らせる。


 澄乃との恋人らしい行為ということを考えれば、現時点でキスまでは経験している。その次の段階として二人でお泊まりというのは、まあ順序的には間違っていないだろう。


 そう、今日はあくまで一夜を共にするだけであり、それ以上の意味などありはしない。雄一はそう結論付けて、車内前方に設置された次の停留所を示すモニターへ目を向けた。


「……くっそ」


 結論付けたくせに、どうにも頭の中から不埒な考え共が出て行ってくれない。むしろ追い出そうとする雄一の心に反旗を翻し、意地でも居座ろうと徹底抗戦の構えを見せている気がしてならない。


 視線の先のモニターに表示された次の停留所は、本来降りる予定の二つ前。


 ――とりあえず、少し頭を冷やそう。


 雄一はすぐ横にあった降車ボタンに手を伸ばした。












 肌に刺さる冷たい風に身を晒した甲斐もあって、澄乃の部屋の前に辿り着く頃にはそれなりの平静を取り戻していた。最後のダメ押しと言わんばかりにまたまた深呼吸をしてから、扉の横に設置されたインターホンを押し込む。


 扉の向こう側とピンポンと鳴った後、パタパタと近付く控えめな足音が聞こえ、少し間を置いてからカチャリと開錠音。開かれた扉の先で、ポニーテールにエプロン姿といういかにもお料理中の澄乃が出迎えてくれた。


「いらっしゃい、雄くん」


「お邪魔します」


 部屋に入り込めば、ほど良い暖気と食欲をそそる香ばしい香りが雄一の感覚を刺激する。分かっていたことだが、やはり今夜の夕食はかなり期待できる出来栄えのようだ。


 まずは手洗いと洗面所に向かおうとした雄一に、澄乃が柔らかな笑顔で手を差し出してくる。


「ハンガーに掛けとくから、コートちょうだい」


「お、ありがとう」


「どういたしまして。すぐご飯できるから、ちょっと待っててね」


 そう言い残し、コートを受け取って部屋の奥へと向かう澄乃。その背中を眺めていた雄一は急にむず痒い感覚に襲われる。


(なんか今のやり取り、新婚みたいだったな……)


 新妻・澄乃――なんと魅力的な響きだろうか。いつか定番のあのセリフ・・・・・も聞いてみたいものだ。


 と、脳内に現れた今より少し大人びた澄乃が『ご飯にする? お風呂にする? それとも……』と迫ってきたところで、雄一は洗面所に駆け込んで勢い良く冷水を顔面に浴びせた。


(だから考えるな俺のバカッ!)


 せっかく鳴りを潜めた欲望がまた鎌首をもたげてくる。堪え性のない自分にいい加減にしろと言いたくなるが、恐らく今日は一晩中、理性と欲望の狭間で戦い続けることになるだろう。


 とにもかくにも物理的に頭を冷やした後にキッチンへ向かうと、澄乃の言葉通り、ほぼ全ての料理が盛り付けすら完了している状態だった。さすがに一から十まで澄乃に任せるのは申し訳ないので、食卓まで運ぶのを雄一が申し出ると、澄乃は嬉しそうに「じゃあ、こっちからお願い」と一番端の料理を指差す。


 数分後、着席した雄一の前には垂涎の光景が広がっていた。


 完璧な焼き目のついた骨付き鶏もも肉。粉チーズを散らしたサラダ。淡い湯気をのぼらせるクリームシチューに、切り分けられたバケット。クリスマスの夜に相応しい洋食の数々を前に雄一は感嘆のため息を漏らす。


「なんかアレだな、三ツ星レストランに来た気分」


「あはは、さすがにそれは褒めすぎだよ」


「俺にとってはそれぐらいってことだよ」


「……ふふっ、ありがとう。ほら、冷めない内に食べよ?」


「だな。じゃあ澄乃、グラス」


 今日の雰囲気に合わせて、飲み物もシャンメリーを用意した。差し出された澄乃のグラスに薄い黄金色の液体を注ぎ、雄一のグラスもまた澄乃の手によって満たされる。


 お互いの準備が完全に整ったところで、タイミングを合わせてお約束の言葉を唱える。


『メリークリスマス』


 二つのグラスがチン、と音を立てた。

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