第75話『一線の先へ』
澄乃が風呂から上がったのは、それから十分ほどしてからだった。
湯上りで上気した肌を見たところ身体はしっかり温まったようだが、その表情は未だ暗いまま。目元にも、少し赤みがある。
「お風呂、ありがと……。雄くんも濡れたんだし、早く入って……」
「ああ、そうするよ。適当にくつろいでていいからな?」
澄乃が小さく頷くのを確認してから、雄一は浴室へ向かう。澄乃が入った後にというのは些か憚(はばか)られるが、ここでシャワーで済ませてしまうといつかの風邪の二の舞だ。しっかり湯舟に浸かって身体を芯まで温めてから、雄一は浴室を後にした。
リビングに戻ると、澄乃は膝を抱えてじっと座っている。その姿はやはり、雄一の目にはひどく弱々しく映った。
チラリと壁掛け時計を見ると、時刻は正午を少し回ったぐらい。ちょうど昼時といったところだ。
「昼飯まだだよな? なんか作るよ。大した材料残ってないから、簡単なものにはなるけど」
「あ……なら、私が……」
「いいから。澄乃は休んでろ」
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉を小さく呟いた澄乃の頭を優しく撫でて、ついでに手近にあったクッションも押し付けておく。クッションに顔を
もしかしたら、何かしらさせた方が澄乃の気は紛れるのかもしれない。けれど今の彼女には刃物はもちろん、火すら使わせるのも危なっかしい。何が正解かは分からないが、とにかく少しでも落ち着ける環境を与えてあげたかった。
冷蔵庫からパックのベーコンと余っていた野菜類を取り出し、水を入れた鍋を火にかける。宣言通り、雄一が作ろうとしているのは簡単なコンソメスープだ。澄乃の食欲がどれほどかは分からないが、これなら食べやすいだろう。
手早く作り終えた品を二人分に分け、片方の器を澄乃の方へ持っていく。「いただきます」と小さく零した澄乃がゆっくりと食べ始めるのを見届けてから、雄一もスプーンに手を伸ばした。
「雄くん……ちゃんとお料理、できるんだね……」
「そりゃ一人暮らししてるんだからな。って言っても煮ただけだし、味付けはコンソメの素だから、威張れるほどのもんでもないよ」
「ううん……美味しい……。ほっとする……」
「なら良かった」
ある程度の食欲はあるらしい。ゆっくりだが着実に食べ進める澄乃の姿に安堵しつつ、雄一も食事を続けた。
ほどなくして食べ終えると、雄一は二人分の食器を下げて台所へ。少しだけ溜まっていた洗い物含めて後片付けを行う。しばらくしてから再びリビングに戻ると、座り込んだままの澄乃が
「澄乃?」
呼びかけても反応が無い。心配になって顔を覗き込んでみると、両目を閉じた澄乃は微かな寝息を立てていた。
どうやら気付かないうちに寝てしまったらしい。食後というのもあるが、恐らく……疲れてしまったのだろう。
もちろん起こすつもりは毛頭ないが、座ったままでは身体を痛めるかもしれない。慎重に澄乃の背中と膝裏に手を差し込んで、お姫様抱っこの要領で彼女を持ち上げる。
想像よりも軽く、そして華奢な少女の身体。
この小さな身体が、一体どれだけの重圧に晒されているのか……。
せめて寝ている間だけでも、その苦しみから解放されて欲しい。
そう願いながらゆっくりとベッドに寝かせ、毛布をかける。乱れた銀髪を整えて離れようと踵を返すと、ふと雄一の背中に寝息以外の何かが届いた。振り返って今一度澄乃の顔を覗いてみれば、閉じられたままの目にじわりと涙が浮かんでいる。
「……ん、なさい……ごめんなさい……ごめ……なさい……」
うわ言のように、澄乃はただ懺悔の言葉ばかりを繰り返していた。
「……っ!」
凍った手で心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
たとえ寝ている時であっても、澄乃の心が休まることはない。むしろ余計に苦しみの底へ落ちていくようで、澄乃の表情は苦痛で歪んでいく。
何かを求めるように宙を彷徨う小さな手を……雄一は咄嗟に握り締めていた。
少しでも、ほんの少しでもいい。澄乃の凍えた心に、少しでも自分の熱が届いてくれることを願って。
雄一はただ必死に、繋いだ手から温もりを与え続けた。
どれだけの時間、そうしていただろうか。
気付けば雄一は浅い眠りに落ちていて、手からもたらされる弱い力に意識を覚醒させる。
目を開けば繋がったお互いの手と、こちらを見る藍色の瞳がそこにはあった。どうやら澄乃の方が先に目覚めていたらしい。
「あっ、悪い……! 起こすつもりはなかったんだけど……」
慌てて手を離そうとすると、ぎゅっと握り返された。
「ううん、ありがとう……。おかげでちょっと落ち着いた。ベッドにも雄くんが運んでくれたんでしょ?」
「あ、ああ。あのままだと、大して休めないと思ったからさ……」
「そっか……ありがとう」
「体調はどうだ?」
「……大丈夫、心配しないで」
そう言って、澄乃は笑顔を浮かべた。言葉通り、雄一を安心させるように。
(……違う)
そんな笑顔が見たいんじゃない。そんな風に、無理して笑ってほしいわけじゃない。自分が好きになったのは、そんな歪な笑顔なんかじゃない。
澄乃への想いが溢れて、止まらなくて。
だから雄一はとうとう、踏み込むべきではないと思った場所に、踏み込む決意を固めた。
「教えてくれ。一体、何があったんだよ……?」
それは、今回のことだけを指した言葉ではなかった。そもそもの原因――過去に澄乃と親の間に起きたこと、それを含めての問いだった。
その意図は澄乃にも伝わったらしく、一度大きく目を見開いた彼女は、ややあってから瞳を伏せて首を振る。
「気にしなくて、いいよ? これは私の――」
「分かってんだよそんなこと……っ!」
雄一は絞り出すように叫んだ。
理解はしている。これはあくまで澄乃の問題で、突き詰めれば部外者でしかない雄一が踏み込むべきでないことは。
でも、もう限界だった。これ以上黙って見ていられなかった。
「頼むから、教えてくれよ……! 俺は……澄乃の力になりたいんだよ……っ!」
それは本心からの叫びだ。何ができるかなんて分からないけど、それでも何かせずにはいられないから。
繋いだままの手を今度は両手で握り締めて、澄乃を正面から見る。雄一の真摯な眼差しを受けた澄乃は瞳を潤ませ、やがて、どこか諦めたように息を吐いた。
「聞いてて……あまり気分の良い話じゃないと思うよ……?」
「分かってる」
「もしかしたら私のこと……嫌いになるかもしれないよ……?」
「絶対にならない」
たとえこの天地がひっくり返ったとしても、それだけは絶対にありえない。
より一層瞳を潤ませた澄乃は、「ありがとう」と小さく呟いてから、ゆっくりと語り始める。
「白取、
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